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5章
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しおりを挟む噂の婚約者を前にして浮かんだ感想は、「思ったより普通だな」というあっさりとしたものだった。
あの日アトリたちが通された部屋より、幾分か豪奢な一室。
円卓には向き合うように二対の椅子が置かれ、ワインのボトルとグラスが用意されていた。
窓はやけに小さく扉もやや重厚であったことを考えると、元々内密な打ち合わせなどに使われる部屋なのかもしれない。
レクターに連れられて部屋に入ると、その人は既に椅子に座っていた。
小麦色の髪に明るい茶色の瞳。
身に纏った濃紺のスーツは随分と仕立てが良さそうだ。
レクターに向けられた無感動な視線は、一瞬で人の良さそうな笑みに変わる。
正直どんなやつが出てくるのかと思ったが、見目だけで言うのなら十分に好青年と言っていい。
椅子から立ち上がった彼はレクターと親しげに握手を交わす。
室内に従者を立ち入らせていないところを見ると、本当に秘密裏の用件なのだろう。
彼はアトリにも一応笑みを向けたが、早々にレクターとの会話に意識を向けてしまう。
レクターは彼がクレハにご執心だと言っていたが、果たしてそうだろうか。
好意がないとは言わないが、そこにたじろぐような熱は感じられない。
少なくともそれはユーグレイから向けられる感情の十分の一にも満たないだろう。
彼の隣に座るようレクターに促されて仕方なく腰を下ろしたが、彼らはそこにアトリがいることなどあまり意識はしていないようだ。
やはり、そうなのだ。
彼らにとってこの少女は、飾られた花と一緒。
ただそこにあるだけの物と同じなのだろう。
「これは私ではなく父の希望なのですがーー」
勧められたワインで唇を湿らせて、青年は落ち着いた声で話し出す。
この身体で一緒になって飲酒をする訳にもいかず、かといって気軽に会話に加われるはずもない。
最初は育ちの良いお嬢様っぽく見えるよう手を組んで楚々と座っていたアトリは、彼らの会話に耳を傾けながらふらふらとつま先を揺らした。
ほったらかしである。
娘のためにお茶くらい用意したって良いだろうと思うが、それをレクターに求めるのは無駄な気もする。
話は、翌日に控えている婚約者の父の講演会に関することらしい。
その講演会の後、立食パーティーの場で彼とクレハの婚約を発表したいと言う要望だ。
いやそもそもまだ発表はしていなかったのか。
公表するもしないも、結婚してしまえば一緒である。
どうでも良い話だと思ったが、レクターは意外にも渋い顔をした。
「以前も申し上げましたが、我々は神に仕える身。新聞社も顔を出すような華やかな場で婚約の発表などは、些か」
「もちろん、父も承知の上です。パーティーとはいえそう大きなものではありませんし、取材に来る新聞社も二社程度。クレハさんもそう緊張されずに楽しめるでしょう。それに結婚前にどこからか情報が漏れるよりは、先に発表しておいた方が良いと思うのですが」
穏やかなやり取りは変わらないが、どこか空気が張り詰めている。
アトリにはさっぱりわからないが、彼らは彼らなりに何らかの事情があって意見が対立しているらしい。
まあ、そんなことより。
新聞社が取材に来る立食パーティー、と言うのは非常に都合が良い。
婚約者側の関係者や教会の人間相手にクレハの現状を訴えても仕方ないが、それが新聞社となれば話は別だ。
レクターのような人間を引っ叩くなら、お誂え向きの舞台だろう。
「ですが、娘はお恥ずかしいことに淑女としてはまだまだ。お見苦しいところをお見せしてしまうことになっては……、クレハ?」
レクターの呼びかけに、アトリは顔を上げて彼を見た。
暗に彼の要望を拒否するよう求められているとわかる。
無論、その意に従う義理はない。
困ったような顔を作ったレクターに、アトリははっきりと首を振った。
「いえ、そういうことであれば是非」
一瞬、息を呑むような沈黙があった。
レクターも婚約者も、アトリをまじまじと見つめる。
よもや少女の口からそんな言葉が出て来るとは思いもしなかった、そんな顔だ。
そうですか、と先に我に返って明るく言ったのは青年だった。
「貴女がそう言ってくれて良かった、クレハさん」
いいえ、と隣の婚約者に答える。
ドレスは私が贈りましょう、と満足そうに微笑む彼はどことなく年相応にあどけない。
ふぅ、と息を吐いたレクターは静かに首を振った。
睨まれるくらいはするだろうと思ったが、父親は心底理解出来ない様子で「何故」と呟く。
アトリは真っ直ぐにレクターを見て、首を傾げた。
そんなこともわからないのか、と無邪気に見えるよう笑う。
「何故って。せめて、綺麗なドレスを着てたくさんの人に祝福されたいからですが。それくらいは、許してくれても良いでしょう?」
良いように使われて、ほぼ初対面の男と結婚するのだから。
せめて、それくらいは。
レクターはさっと眉を寄せた。
けれど彼が何か言う前に、僅かに腰を浮かせた婚約者がレクターの手を半ば無理やりに取って握手をする。
「流石はレクター様! 快くご承諾下さったと報告させて頂きます。きっと父もご無理をさせたことに対して何か返礼を、と思うでしょう」
レクターは彼を見下しているようだったが、この婚約者は案外やり手かもしれない。
にこにこと話を纏めた彼に、レクターは逡巡の末「仕方ありませんね」と頷いた。
公の場にクレハを出しての婚約発表とそれに対する見返りを天秤にかけて、結局は相手の意に沿う方が自身の利となると考えたのだろう。
自分の娘が他者に境遇を訴え出るなんて出来るはずがないと、確信しているからか。
話を終えてレクターが腰を上げる。
ああ、と不意に青年はアトリの肩に手を回した。
「この後少し、クレハさんとお話をさせて頂いても?」
軽く身体を引き寄せられる。
他人の体温。
微かに爽やかな香水の匂いがした。
嫌だなと確かに思った。
この人は、この距離を許した相手ではない。
レクターは娘の肩を抱いた青年を平然と見返して、「あまり長い時間は取れませんが」と前置きをして承諾する。
そのまま振り返りもせず、彼は部屋を出て行った。
扉が閉まった瞬間、肩を掴んだ青年の手に力が籠る。
彼はアトリの耳元に口を寄せて、ふっと笑った。
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