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5章
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しおりを挟む「まさか君がこちらに味方してくれるとは思わなかった。あの人は結婚した後も君が教会に属する人間だと印象付けておきたいんだろうけど、君は違うのかな? 小さなパーティーとはいえ父の講演会の後で婚約を発表すれば、君はこちらのものになったと判断する人間は多いと思うけど」
ああ、そういう対立だったのか。
小難しいことを考えるものだと思ったが、正直その根本から壊してしまうつもりだから興味は湧かない。
アトリは手で軽く青年の身体を押しやった。
離れて下さい、と冷ややかに告げたが彼はそれを警告とは捉えなかったようだ。
全く気にした様子もなく、独り言のように続ける。
「まあ、私もどっちでも構わないんだけどね。でも見たかい? 君のお父様の顔。魔力を持たない低能な私の要求を呑むしかなかったのは、きっと屈辱だっただろう。あの人だってカンディードから声が掛かるほどの素養持ちじゃないのに、そのレベルの人間ほど特異性に縋るものなんだろうね」
問いかけはするがやはり答えは求めていないようだ。
押し殺したように笑う彼の手が、肩から腕へと下りる。
薄いレース越しに触れられた肌が粟立った。
「何にせよ、君の可愛い希望には助けられたよ。綺麗なドレスで祝福されたいって、女の子は大体それだね。君はそういうものにはあまり興味がなさそうに見えたけど、まあいいか。せっかくだから見栄えがしそうなドレスを贈らせてもらうよ」
全く本当に、見目だけの好青年だ。
レクターとは別の次元で苛立つ。
とりあえず、人の話は聞こうか。
「離れて下さいと言いましたが」
二度目の警告だった。
彼はようやくアトリの瞳を見て、それからなんてことないかのように肩を竦める。
「いいじゃないか、別に。君は私の婚約者で、もうすぐ私のものになるんだろう? 面倒なおつかいを済ませた私に、少しくらいご褒美をくれても罰は当たらないと思うけど?」
腕を撫でた彼の手は、そのまま腰に触れた。
うんまあ、男だからわからなくもない。
それが本当に心を通わせた相手であれば、当然許される範囲の接触でもある。
ただ、そうじゃないから問題な訳で。
アトリはふっと息を吐いて、肘で思い切り青年の鳩尾を打った。
華奢な少女のそれであっても、この近距離で遠慮なく放たれた攻撃に彼は「ぐう」と呻いて上体を折る。
椅子が嫌な音を立てたが、辛うじて一緒に倒れ込むことはなかったようだ。
「離れろって言ったのが聞こえなかったのか? 同意もなく人の身体に触れるのはマナー違反だろ」
円卓に片手をついて、鳩尾を押さえた彼は呆然とアトリを見る。
物も言わない花だと思っていたのが突然牙を剥いたら、誰だってそういう顔をするだろう。
どいつもこいつも、碌なもんじゃないな。
「おつかいのご褒美が欲しいなら、帰ってお父様にお菓子でもねだったら良いんじゃねぇの?」
揶揄うようにそう言ってやると、青年はのろのろと椅子に座り直して「君は」と毒気の抜かれたような声を出す。
「……凄いな、気が付かなかった。ずっと猫を被っていたのか?」
「お互い様だろ? 婚約者様」
今は中身がアトリだからで、クレハ本人が「猫を被っていた」訳ではないが。
そうこう言う彼だって、レクターの前では人の良さそうな好青年の顔をしていたのだから文句を言われる筋合いはない。
彼は明るい茶色の瞳を何度も瞬かせる。
そういう所作には所々幼さが垣間見えて、幾分か攻撃的な気持ちが引いて行く。
実際アトリより年下だろう。
彼も立場としてはクレハとそう変わらないのかもしれない。
「他に用がないなら帰らせて頂いても?」
椅子からするりと立ち上がって青年を見下ろすと、彼はしばらくして何故か破顔した。
堪え切れないとばかりにその口から笑い声が漏れる。
「は、何だ、君。そっちの方が、断然良いじゃないか! いや、可愛いだけの相手には、私も飽き飽きしてたんだ」
アトリは眉を顰めて、楽しげな彼を眺める。
クレハのような儚い系美少女が男のような口調で言い返して来たと言うのに、「断然良い」とは。
しかも好意的な言葉は一切口にしていない。
特殊な性癖をお持ちのようだ。
有力者というのは業が深い。
「趣味の悪いお坊ちゃんだな……」
「趣味が悪い? そんなことはない。そんなことはないよ、クレハ」
「えぇ……、今どこに興奮する要素があったんだよ」
遠慮なく突っ込んだのに、何が楽しいのか青年は無邪気な声で笑う。
彼は息を整えながら徐に腰を上げて、アトリの手を握った。
「ヴィオと呼んで、クレハ」
酷く愉快そうに細められた瞳には、どこかで見たような熱が籠っていた。
ぐいと引き寄せられた身体が、抱き込まれそうなほどに密着する。
何でだ。
「私たちは夫婦になるのだから、他人行儀なのは良くないよ」
「……忠告を聞かないやつは、どこでも真っ先に命を落とすって知らねぇの?」
同意なくそういうことをするなと言ったばかりだ。
手加減せずに彼の手を振り払うと、今度は動揺した素振りもなく戯けたように青年は両手を上げる。
「あしらい慣れているね。世間知らずのお嬢様だって思っていたけど、本当はそうでもないのかな。うん、ますます良い」
彼は小さく頷いてから、アトリをじっと見つめた。
お気に入りのものを愛でるように、その視線はゆったりと重い。
「ああ、そうか。結婚なんてくだらないものだと思っていたけど、君となら、良い」
やっとその価値に気付いたと言わんばかりの嘆息。
何が気に入ったのかは知らないが、残念ながら現状の「クレハ」は彼女本人の意思で喋ってはいない。
何から何まで歪なまま、青年は嬉しそうに微笑んだ。
「………………」
やっと欲しいものを手に入れたかのような表情は、確かにどこかで見たものと似ていた。
アトリは拒否の言葉を飲み込む。
敢えてここで青年の幻想を踏み砕くこともない。
どうせ婚約発表の場でレクターを糾弾したら、この青年ともそれっきりだろう。
無闇に口を開いて彼が疑惑を抱いても困る。
「もう良いでしょうか? 疲れたので帰らせてもらえると。それとも、父を呼んだ方が良いですか?」
今更だが多少は取り繕って、アトリはそう言った。
青年は口元を押さえて笑いながら、「そうだね、今日はこれくらいにしておこうか」と不穏な台詞を吐く。
あまり関わらない方が良さそうだ。
大人しくなった青年を一瞥して、アトリは扉に向かって踵を返す。
ふっと彼の指先が、手の甲を撫でた。
引き留めるような力はなく本当にただ触れてみたくて手を伸ばした、そんな触り方だ。
咄嗟に青年を振り返ると、彼は小さく「ドレスを」と言った。
そこにあるだけの花ではなく、一人の少女に向けて。
「ドレスを贈るよ、クレハ。君に似合う、とびきりのものを。明日の夜、楽しみにしている」
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