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5章
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しおりを挟む「うん。やっぱりとても似合うね」
上機嫌な婚約者はティーカップ片手に満足そうにそう言った。
似合うという意見には決して反論はしないが、それがこの青年から贈られたものとなると素直に同意出来ない。
胸元の開いた白いドレス。
スカートは幾重にもレースが重なっていて、裾にかけて銀色のグラデーションになっている。
散りばめられているのは本物の宝石だろうか。
深く考えるのはよそう。
「……どーも」
アトリは微笑む婚約者に素っ気なく返事をした。
クレハ本人は、まだ彼女の自室にいる。
薬を吐かせた彼女をベッドに放り込んで迎えた夜明け。
様子を見に来たレクターに「薬が強すぎたせいか上手く出来なかった」と説明して、今晩もう一度機会をと頼むと彼は疑いもせずクレハの滞在を許可した。
何というか、レクターは自分に不都合なことは何一つ起こらないはずという根拠のない自信に満ち溢れている。
まあ、お陰でひとまずクレハの安全は確保出来た。
午後になって支度の手伝いに来てくれたマリィに彼女のことを頼み、こうして念願の婚約発表の場に至った訳なのだが。
婚約者の父の講演会が開かれるという高級ホテルの一室。
何故か、婚約者とのんびりティータイムを過ごしている。
「いや、講演会に行くんじゃないんですか?」
「行きたいの? クレハ。息子の私が言うのも何だけど、父の話は長くて内容がなくて多分とてもつまらないよ。私たちの時間を、そんなことに使うのはもったいないと思うな」
立食パーティーが始まってから顔を出せば十分だよ、と彼は平然と言った。
そんなものか。
マリィは結局ユーグレイ本人には会えなかったそうだ。
ホテルのフロントに手紙を預けたと言うから、出来れば先にユーグレイたちがいるのかくらい確認したかったが仕方がない。
大きな窓の向こうはすでに夜が広がっている。
シャンデリアに照らされた室内は豪奢な調度品に彩られていた。
これまた高そうなグレーのスーツ姿の婚約者は、明るい茶色の瞳を愉快そうに細める。
「ねえ、クレハ。この間のように、気負わず話して欲しいな。私たちはこれから誰より近しい相手になるのだから」
「……婚約者様は不思議な嗜好をお持ちのようで」
何かこいつも拗らせてんな、とアトリはひっそりと溜息を吐く。
彼は優雅な所作でティーカップをソーサーに置くと、「ヴィオだよ」と意外なほどはっきりと要求する。
「ヴィオと呼んでと言ったよね、クレハ」
真っ直ぐに見つめられて、アトリは肩を竦めた。
ご不満らしい。
「わかったよ、ヴィオ。これで満足か? 普通可愛い子には可愛らしい話し方をして欲しいもんじゃねぇの?」
ねぇヴィオ様、と少しだけ笑って口にするとそれだけで涼やかな甘い声は耳に心地良く響いた。
けれど彼は別段心を動かされた様子はない。
椅子の背もたれに寄りかかって、一瞬酷く疲れたように視線を落とした。
「私はこれでも『権力者の息子』だよ? しなだれかかってくる人間には事欠かない。だからね、クレハ。私は、『気持ちが良いだけ』の言葉を口にする人間は信用ならないと知っているんだ」
思わぬ台詞に、アトリは口を閉じる。
ヴィオはアトリの反応に、一転して笑顔になった。
テーブルに手をついて身を乗り出す彼は、随分と幼く見える。
「君は、私をヴィオルム・ハーケンではなくただの人間として見てくれた。私の機嫌を取ろうとしなかったし不快なことははっきりと拒絶をした上で、でも私という個人を心底から軽蔑はしなかった。そうだよね、クレハ」
どうだろう。
初対面のあれはいささか酷かったけれど、でも確かに彼本人が何もしないのであれば別に好きも嫌いもない。
レクターが酷すぎたからだろう。
いや、難しいことはともかくヴィオという青年にとっては、アトリの対応は物珍しく尚且つ面白く映ったのだろう。
ほんの微かに罪悪感という痛みを自覚する。
これほどにこの婚約を喜んでいる彼を、アトリは当然捨てて行くつもりでいる。
そもそもクレハにとっては望まぬ婚姻で、何より彼とこうして話しているのは「クレハ・ヴェルテット」ではないのだから如何ともし難い。
アトリはゆっくりと首を振った。
ドレスとセットで贈られた銀細工の髪飾りが、しゃらと音を立てる。
「その程度で好意を抱くなよ、ヴィオ。きっともっとお前のことを知った上で、隣にいたいって言ってくれる人がいる」
「私の運命は君だよ、クレハ」
違う。
今彼の目の前にいるのは、存在として歪んでしまっているものだ。
クレハでもなくアトリ本人とも断言出来ない。
この魔術が解けたら、二度と彼の前に現れることはないだろう。
アトリの沈黙を、ヴィオはあまり深刻に捉えない。
「君の運命も、私だ。君の言う通り、これからもっとお互いのことを知ろうよ。私たちは、とても上手くやっていけると思う」
はしゃいだような明るい声。
目の前の紅茶は口を付けないまま、冷めてしまったようだ。
恋は盲目か。
「だからさぁ、他人の話を聞こうな。そういうの命取りになるって言わなかったっけ?」
「心配してくれるの? クレハ。君は本当に優しいね」
ああ、本題からずれていく。
こめかみに指を当てて、アトリは呻いた。
ヴィオはにこにこと笑って、それから思い出したようにスーツの内ポケットから何かを取り出した。
細長い飾り箱。
彼はアトリに見えるようにそれを開く。
中に入っていたのは、赤い宝石のネックレスだった。
うん、嫌な予感。
「これを君に、クレハ。そろそろ行こう。パーティーが始まるよ」
彼は徐に立ち上がるとアトリの背後に回って、ネックレスをつける。
拒絶した方が良いのか。
けれど、ヴィオとのことはもう何もしなくても途絶える道筋が見えている。
黙って、後はここから消えるだけだ。
胸元を飾るネックレスに触れる。
ああ、でも。
ヴィオは幸せそうにアトリの手を取った。
「ごめん。でも俺、どーやら王子様が好きらしくてさ」
囁くような謝罪に、青年は首を傾げた。
上手く聞き取れなかったようだ。
それならその方が良い。
もう、行かなければ。
「もう一回会った時に、同じことを言ってくれる?」
それでも。
今度はきちんとヴィオに伝わるように、アトリは言葉を口にする。
「そしたら『クレハ・ヴェルテット』がちゃんと答えをくれると思うから」
彼は理解出来なかったのか、眉を少し寄せてから困ったように微笑んだ。
軽く握られた手を握り返しはしないが、振り解きもしない。
婚約者にエスコートされて、アトリは椅子から立ち上がった。
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