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5章
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しおりを挟むのんびりとシャワーを浴びている間に、彼女は睡魔に負けてしまったらしい。
ベッドの上、黒髪の少女は猫のように身体を丸めてすやすやと眠っていた。
身に纏ったままの高価なドレスなど気に留める様子もない。
アトリは濡れた髪を適当に拭きながら、少しだけ声を潜めて「寝ちゃったかー」と笑った。
あの騒動から、まだ数時間しか経っていない。
幸い現場の混乱が大きかったおかげで追手に悩まされることもなく、ホテルの一室まで戻ることが出来た。
クレハの話ではユーグレイから魔力を貰って解除を試みれば、どうやらこの「観測」という名の入れ替わり事象は終わるらしい。
それならさっさと本来の身体に戻って、あの部屋から逃げ出してしまおうと思った。
自分が動いた方が手っ取り早いし安心だし、何よりやらかしたのが自身であるという負い目もある。
一息ついて物言いたげな相棒を制止して事情を説明したら、何故か酷く怖い顔で要求を拒絶された。
いやだって、どうせ教会もバタバタしているだろうしマリィも助けてくれるだろう。
何よりレクターが気紛れで確保した人物のことなど、この状況下で気にかける人などいるだろうか。
ちょっと行ってすぐ戻って来るからと言っても、ユーグレイは頑なに「行くな」の一点張り。
逆に「僕が行く」と言い出す始末である。
ただ、心配されているのだとわからない訳ではない。
喧嘩には発展しない、けれどどちらも決して引かない言い合いはしばらく続き。
結局「フォローを」と頼んでいたフォックスがさっさと仕事をこなして、クレハを連れて戻って来た。
そうしてようやくユーグレイから魔力を受け取って、意外にも難なく「観測」は終了したのである。
「すぐ出るとは伝えてあるが」
ソファでコーヒーを飲んでいたユーグレイが静かに言う。
その声に特別際立った感情は含まれていないようで、アトリは軽く安堵の息を吐く。
今回のとんでも入れ替わり事件がアトリのせいだと説明はしたものの、クレハが状況を利用してレクター殺害の協力を求めたのは確かだ。
本来の身体に戻ってから、ユーグレイはクレハに対して一段と余所余所しい。
ただ完全な敵意までは見せていない辺り、彼女の境遇を全く考慮しない訳ではないのだろう。
「もうちょっと寝かしといてあげたいけどな」
アトリはユーグレイの隣に腰を下ろして、ソファの背もたれに寄りかかった。
ちゃんと乾かせ、とユーグレイが肩にかけたままのタオルを引っ張る。
手慣れた様子で髪を拭かれて、アトリは抗うことなく目を閉じた。
「……大丈夫か?」
「眠いけど、大丈夫。もーそろそろ準備しないとだろ」
瞬きの刹那で意識は元の身体に戻ったのだが不思議な疲労感があった。
まあ、他人が動かしていた肉体に違和感があるのは当然のことかもしれない。
クレハも苦痛の類は訴えなかったが、食事も湯浴みも後回しにベッドに横になったくらいだ。
とはいえのんびりもしていられない。
教会側はレクターの不祥事で対応に追われているが、ヴィオの父親なんかがクレハの保護に名乗りを上げてもおかしくはなかった。
法的にクレハの身柄がどうこうという話になると、ノティスに足止めされてまた彼女を利用したい人間の都合の良いように事が運びかねない。
フォックスがあちこち手を回してくれている今夜のうちに、さっさと防壁に帰還する予定である。
「眠いだけなら構わないが」
アトリは重い瞼を上げて、ユーグレイを見た。
彼が言わんとすることを失念していた訳ではない。
防衛反応は平気なのかという話だ。
魔術の解除というものが厳密に魔術行使に当たるのかはわからないが、ユーグレイからは相応の魔力を受け取った。
今のところは別段異変はないが、公共機関を利用している最中にあれはヤバいだろう。
「怖いこと言うなよ。どっちにしたって一晩待ってって訳にはいかねぇんだし」
最悪、重ねての魔術行使にはなるが感覚を遮断してしまうという手もある。
後が怖いが、変質者扱いで逮捕よりはマシだ。
ユーグレイは少し考え込むような表情をして黙り込む。
多少の不安はあるが、アトリ自身は正直なところそこまで心配もしていなかった。
根拠がある訳ではない。
ただ、ユーグレイが隣にいるだけで大丈夫だと思えた。
「ま、何かあってもユーグがいればどうにでもなるだろ」
「……それは、随分と適当な信頼だな」
呆れたような笑い。
ひやりとしたユーグレイの指先が不意に頬を撫でた。
視界に影が降りて来る。
だから今そういうことをさ、と思いはした。
クレハもすぐ隣で眠っている。
けれど結局重ねられた唇をただ受け入れた。
流石に触れるだけの、短い口付け。
ユーグレイは何故か安堵したように息を吐いた。
「君だな」
「……何が?」
どういう意味なのか聞きたかったのに、ユーグレイは緩く首を振っただけだった。
そのまま、彼は腰を上げる。
「帰ったら、色々覚悟しておけ。アトリ」
「……それはどーいう意味で?」
今回の事態に関する説教、だけではないんだろうな。
薄手のコートをするりと羽織ったユーグレイは、促すようにアトリに手を差し出す。
その手を握って、けれど支えにはせずにアトリは立ち上がる。
旅の終わり。
決して長くはない帰路がどうしようもなく煩わしかった。
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