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6章
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しおりを挟む第四区画の海は、いつも通り人気もなく穏やかだった。
空は雲に覆われているが風は殆どない。
門を出てすぐ、数段下の海面を眺めながらアトリはため息を吐いた。
いや、ここまで来たらもう仕方がない。
最初に力を貸してしまった責任もある。
さっと行ってぱっと帰るとラルフも言っていたし、さっさと済ませてしまうのが一番だ。
「んじゃ、ラルフさん」
行楽地に来た子どもみたいな顔で、彼は「はい!」と元気良く返事をする。
差し出された手に、強烈な違和感を覚えた。
そりゃあ、そうか。
第四区画とはいえ、傍にいるのはユーグレイでもリンでもない。
「どうかされましたか? アトリさん」
「いや、なかなか、凄い状況だなって」
「……ああ、ご無理を言って申し訳ありません。でも」
言いながらラルフは背後の門を振り返った。
数歩後ろに下がれば、そのまま背中が付くほどの距離だ。
「何かあってもこの距離でしたら。勿論、万が一のことがありましたら、私のことは気にせず逃げて頂いて構いません」
「何言ってんですか。ちゃんと護衛くらいしますよ」
ここまでぐいぐい来た癖に、変なところで遠慮がある人だ。
すみません、と眉を下げたラルフの手を握る。
意外と大きなその手は温度がなく、どこか作り物のように感じられた。
言葉とは裏腹に、実は緊張しているのだろうか。
ちらとラルフの様子を窺うが、繋いだ手に視線を落とした彼の表情に特別な変化は見られない。
「そういやラルフさんって、何の研究してんですか?」
小さく空気を吸い込むと、嗅ぎ慣れた海の匂いがする。
あまり固くなられてもとアトリが振った話題に、彼は「お話していませんでしたか?」と少し驚いたような顔をした。
魔術研究に携わっているという話は聞いたような覚えがあるが、具体的な内容まで口にはしていなかったはずだ。
「これは失礼致しました。私は」
一つ頷いてラルフが話し始めるのと同時に、繋いだ手から魔力が流れ込んで来た。
一般的にセルの魔力はあたたかく感じることが多いが、彼のそれは手と同様に温度がなかった。
何と言い表すのは難しい。
物凄く強い酒を一気に呷ったような酩酊感。
弱い拒否感に震えた手を、無理に留めた。
「ーーーーと言うのも本来魔術というのは……、どうかされましたか?」
アトリは首を振って、聞いていない話の続きを促した。
これが、「魔力が合わない」というやつか。
かつてユーグレイがペア候補たちに無理だと言われたように、そしてリンが友人に拒絶されたように。
エルは時に受け取る魔力に拒否感を覚えることがある。
それは単純に相性の問題だと言われており、どちらが悪いとかいう話でもない。
アトリとしてはこんな風に感じるものなのかと感心する程度で、そう強い衝動ではなかったのは幸いだった。
短く自身の研究についてまとめて語ってくれたラルフに、「へえ」と曖昧な返答だけしてアトリは魔術を展開する。
ふわふわと頭の奥が揺れているような感覚。
他人に対して行使するとはいえ慣れた視力強化のはずが、全く発動している実感がない。
「いや、本当に、凄いですね。これは」
ぽつりとそうラルフが呟いて、どうやら無事役割は果たせているらしいと知る。
アトリは軽く目を閉じた。
「長くはやんないですから、そのつもりで」
気持ちが悪い訳でも、意識が飛びそうな訳でもない。
防衛反応も、まだ大丈夫だ。
ただ悪酔いした時のように思考は纏まらず、じわりと眠気が襲って来る。
このままベッドに横になったら、明日の昼頃まで気持ち良く寝れそうだ。
そもそもベアの指示で来たようなものだから、これは実質午後の仕事では?
ということはこれが終わったら今日はもう帰って寝ても良いのではないだろうか。
うん、そんな気がして来た。
「もー、いいですか? ラルフさん」
「もう少し、もう少しだけお願いします」
ぎゅうっと手を握られて、仕方なく流れ込んで来る魔力を受け取る。
何だか浴びるように酒を飲んでいるような気分になって来た。
心地良く重くなる頭。
ああ、これ何か気持ち良くなって。
「……………ぁ、ちょっと、待っ」
ぱちんと、唐突に防衛反応のスイッチが入った。
いつもならこれくらいの魔力を受け取っても問題はないし、魔術行使だってたかが視力強化。
反動があるにしたって、あまりに早い。
けれど理由を探る余裕はなかった。
振り払おうとした手は、意外にも強い力で引き止められてしまう。
第四区画の海へと視線を向けたままのラルフは、アトリの異変には気付かなかったようだ。
それほど集中しているのだろう。
いや、マズイ。
「ラルフ、さん!」
一歩身体を引いて、理性をかき集めてその人の名前を呼ぶ。
ぐらぐらする視界の中、ラルフはようやく真っ直ぐにアトリを見た。
するりと離れた手。
無意識に腹部を押さえると、彼は焦ったように「大丈夫ですか?」と問う。
アトリが倒れるとでも思ったのか、ラルフは慌てて手を差し出した。
本能的にその手を避けようとしたが、反応が遅れてしまう。
伸ばされたラルフの指先が首筋を掠めた。
「ーーっ、あ、ぅ」
アトリはばっと口を押さえて硬直した。
今のは、完全に駄目な声だった。
容赦のない防衛反応と誤魔化しようのない失態に、嫌な汗が滲む。
魔術行使のための接触で突然相手が興奮したら、普通に変質者だと思うだろう。
この場合は管理員に突き出されて、取り調べだろうか。
いやいやまだラルフが気のせいだと判断してくれる可能性も。
縋るように目の前の相手を窺うと、ラルフは差し出した手もそのままにアトリを見つめていた。
驚いたように見開かれた瞳。
完全にアウトである。
アトリは静かにその場に蹲み込んだ。
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