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6章
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しおりを挟む「おや、お久しぶりです。アトリさん」
昼時をとうに過ぎた食堂。
軽く手を上げて親しげに歩み寄って来たのは、ラルフだった。
鳶色の髪に人の良さそうな垂れ目。
ハイネックのシャツに白衣を羽織った皇国の研究員は、食事というより軽い休憩に来たのだろう。
白いティーカップを片手に持ったまま、「良いですか、ここ」とアトリの向かいの席を指した。
アトリは食べていたパンを皿に置いて、「どうぞ」と頷く。
「珍しいですね。お一人ですか?」
ラルフは椅子に腰を下ろしてから、アトリの周囲をきょろきょろと見渡した。
今日は会う人みんなに同じことを言われている気がする。
「相棒は訓練場の強度調査に駆り出されてて、俺はデータ整理の手伝いで別行動なんですよ」
アトリは苦笑しながら答えて、遅い昼食を口に運んだ。
以前のように現場に出られないからと言って、じゃあのんびり休んでいられるかと言うとそんなはずもない。
基本的に探せばいくらでも仕事があるのがカンディードという組織である。
ノティス出向のような緊急性の高いものから、積もりに積もった資料の整理までよりどりみどりだ。
そして現場に出ないなら、ペアに揃って同じ仕事を振る必要もない。
アトリとユーグレイも既に何度もそうして仕事をこなしているはずなのだが。
「そうでしたか! いえ、ユーグレイさんが傍にいらっしゃらないから何事かと」
「……別にあいつ、俺の保護者ではねぇんだけど」
その度、誰も彼もこれである。
ラルフはにこにこしながら、「もちろんわかっていますとも」と頷く。
「何にせよ、変わらずお二人が仲良しであれば安心です」
「はあ、まあ、一応何事もなく」
少しばかりの気不味さを飲み込んで相槌を打ったアトリは、ティーカップを傾けたラルフを眺める。
皇国の使節団に無理を言ってついて来たというラルフとは時折こうして話をする仲だが、彼は同じ研究員のイレーナとは違いどこかのんびりと滞在を楽しんでいるようにも見えた。
イレーナは随分と大胆な手段で自身の目的を達成しようとしていたが、彼は良いのだろうか。
使節団が防壁に滞在する期間も、確か決まっていたはずである。
「ラルフさんはどうなんですか? 最近。またこっそり海に出てとか、やめて下さいね」
アトリは何気なくそう言って、残っていたパンの欠片を口に放り込んだ。
返答の代わりに不自然な咳払いが返って来て、アトリは「ラルフさん」と彼の名前を呼ぶ。
すぅっと不自然に逸らされる視線。
「聞いてます?」
「えぇ、はい」
信用ならない返事だ。
アトリは頬杖をついて、じとりとラルフを見る。
彼は観念したように両手を上げた。
「実は、あれから一度だけペアの方に護衛をして頂いて第三区画に出てはみたのですが……」
その口ぶりだとラルフとしては収穫がなかったのだろう。
何度も地道に海に出て調査をしたいなんて話になると、流石の管理員も良い顔はしないだろうし実際人手不足で断られた可能性もある。
気持ちはわからなくもないが、だからと言って単身海に出ようなんていうのは自殺行為だ。
溜息を吐いたアトリに、ラルフは何故かゆっくりと瞬きをして。
それから「ああ!」と、勢い良く腰を上げた。
人の少ない時間とはいえ、食堂にはまばらに人影がある。
離れた席からも一気に視線が集まった。
「ああ、アトリさん! そうですよ!」
「……え? は? 何ですか?」
ラルフは少年のように屈託のない笑顔で、アトリの両手を握った。
そのままその手をぶんぶんと上下に振る。
「アトリさん、あの視力強化をまた私に施してもらえませんか!?」
眼鏡の奥の瞳が期待で輝いている。
視力強化。
そう言われて、簡単な魔術が見たいと望んだ彼のために行使したそれを思い出す。
「出来れば第三区画で、ええ、門をすぐ出たところで構いません。私も一応魔力持ちですし、さっと行ってぱっと帰って来れば危なくないと思うのですが」
「いや、駄目だろ普通に」
素で答えてしまった。
けれど、第三区画は例え門の近くであろうと人魚が現れる危険がある。
そもそもラルフの視力を強化したら、アトリは探知をする余裕がない。
それこそ護衛をつけて行くべき案件だ。
ラルフはがっくりと肩を落として、しおしおと腰を下ろす。
「駄目ですか」
「駄目ですって。逆に何で行けると思ったんですか」
「……それでしたら、第四区画でもう一度! お願いします、アトリさん」
食い下がるな。
正直それならと思わなくもないが。
アトリは一瞬言葉を飲んで、それから首を振った。
良かれと思ってやったことだったが、あの時の「視力強化」は果たしてどの程度のものだったのだろうか。
今となっては確認のしようもないが、まあ結局普通ではなかった可能性が高い。
ここは何と言われても、出来ません無理ですの一点張りが正しいだろう。
「え、第四区画でも駄目でしょうか?」
少し驚いたようなラルフの声に、若干の罪悪感を覚えつつアトリは頷く。
色々と親身になってくれた人だから、別のことであれば力になりたいが。
すみません、と言いかけたアトリの背中を、唐突に誰かが叩く。
うぐ、と咽せながら視線を上げると、朗らかな顔の大男がテーブルのすぐ脇に立っていた。
ベアだ。
「お、何だ? 直談判されてんのか、アトリ」
手には空の食器。
恐らくはベアも遅い昼食を取って、これからまた仕事に戻るところなのだろう。
ラルフが盛り上がって声を上げたので、気にして声をかけてくれたのかもしれない。
「先輩」
「海に調査に出たいって言ってた研究員さんだろ? 連れてってやったらどうだ、アトリ」
まさかの伏兵。
いや、詳しい事情を知らないベアがそう言うのは不可抗力ではあるが。
ラルフは思わぬ味方の登場に、ぱっと顔を綻ばせる。
「いや、でも」
「第四区画を見学ってだけなら危ないってこともないだろうし、お前さんなら安心出来るんだが」
気安い熊さんに見えて、彼は管理員。
実質アトリの上司である。
こうまで言われてしまうと、拒否の言葉はなかなか口に出来ない。
ベアはあっけらかんと笑いながら、「この研究員さんの要望を聞くのも飽きたしな!」とまたアトリの背を叩く。
「じゃ、せめてユーグと」
「いえ、すぐに済みますしそんな大事になさらなくて大丈夫です! 魔力に関しては私が責任を持って賄いますので」
ラルフはもう待ち切れないとばかりに腰を浮かせる。
ああ、そうじゃなくて。
余計な口を挟むだけ挟んで、ベアは満足気に頷き去って行く。
「よろしくお願いしますね、アトリさん」
そうして。
ラルフは心底嬉しそうに、そう言った。
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