Arrive 0

黒文鳥

文字の大きさ
124 / 217
6章

0

しおりを挟む

 聞き慣れた水の音はしなかった。
 一面の黒い海は、少しの風で揺らいでいるように見える。
 本来であれば視界に入るはずの防壁はどこにもない。
 微かな違和感と共に、どこか判然としないこの光景が夢であることを自覚する。
 この手の夢は大多数の構成員が見ているだろう。
 現場で目にした悲劇の再現。
 いずれこの海で迎えるかもしれない自身の最期。
 まあつまり、ありきたりな悪夢の一つだ。
 自覚のない状態で見るそれは人並みに嫌な気分になるものだが、こうして夢だとわかっているのであれば特に何と言うこともない。
 ぽつんと海に立ち尽くしたまま、変化のない水面を眺める。
 どうせ人魚が襲って来るのだろうと思ったのに、不思議なほどその気配はない。
 じゃあ何が起こるのだろうか。
 誰が、何に。
 瞬間、殆ど反射的に脳裏を過ぎるものがある。
 ああ、それは、嫌だ。
 考えたら駄目だと知っているはずなのに、結局思考を止められないのはどういうことなのか。
 酷く重い身体が、意思とは関係なく背後を振り返る。
 遠い背中。
 同じように海に立つ人影は、悲しいほど見知った形をしている。
 彼一人でも多少のことなら対処出来るはずだ。
 それでも、そんな遠くにいたら危ない。
 駆け寄ろうとした足は暗い水に囚われたまま動かなかった。
 音もなく、彼の傍の海面が盛り上がる。
 
 人魚だ。
 
 嬉々として口を開けるそれを、ただ見ている。
 彼は脅威に気付いた様子もない。
 揺れる銀髪。
 彼方を見つめる彼は、果てしなく遠い。
 これは、夢だ。
 でも、そうだとしてもその光景を見たいはずがない。
 いや、その光景だけは見たくない。
 自分が海に引き摺り込まれる方が、何倍も何千倍もマシだ。
 緩やかに降りかかる影。
 視界から消える彼に向かって、夢中で手を伸ばした。



 柔らかい毛布の端を握り込んで、アトリは目を覚ました。
 常夜灯の薄明かり。
 見慣れた寝室。
 心臓が嫌な音を立てていた。
 静かに深呼吸をしてから、寝返りを打とうとして実質それが不可能なことに気付く。
 背中には心地の良い体温。
 苦しくはないがしっかりと回された腕が身体を押さえ込んでいる。

「………………」

 昨夜は例によってユーグレイが魔術の構築を試みたはずで、どうやらそのまま寝落ちたようだ。
 単純に眠かった記憶があるから、成果があったとは言い難いがまあそれは別に良い。
 アトリは背後の相棒を起こさないように慎重に振り返った。
 閉じられた瞳。
 枕に散らばった銀色の髪。
 彫像のように静かな寝顔だ。
 ヤることはヤッてるから今更だけれど、最早当然のように同じベッドで寝ているなとアトリは軽く目を閉じた。
 それが不快ではないからまた困るのだが。

「アトリ」

 いつもより少し掠れた声で名前を呼ばれる。
 気をつけていたはずだが、気配で起きたらしい。
 
「……悪い、起こした」

 ユーグレイは小さく笑って「構わない」と答えた。
 こういうところだよなと呆れ半分感心する。
 
「悪い夢でも見たのか?」
 
 酷く優しい声で問われて、アトリはひとまず口を噤んだ。
 全くその察しの良さは一体何なのか。
 ただまあ、そうだと頷くには少しの気恥ずかしさもある。
 
「いや、ちょっと目が覚めただけ」

「そうか」

 大切なものでも抱きしめるように、ユーグレイの腕に力が籠る。
 まだ激しく脈打つ心臓を労わるように、彼の手のひらが胸の上を覆った。
 これは、バレてるな。

「眠れそうか?」

「……どーですかね」

「眠れないなら付き合うが」

「寝る。大丈夫」

 ふっと微かに笑われて、アトリはユーグレイの腕を軽く叩いた。
 仮にも彼より年上である。
 大事大事とばかりに子ども扱いされるのは抵抗があった。
 ユーグレイは何の言葉もなく、不意にアトリの首筋に唇を寄せる。
 ちり、と痺れるような痛み。
 アトリは片手でユーグレイの額を押しやった。

「寝るって言ってんだろーが」

「君が寝ていても構わないが?」

「どーいう意味だ、怖い! いいからお前も寝ろ」

 戯れ合うように交わす言葉が積み重なるうちに、暗い夢の余韻はいつの間にか霞んでいた。
 残念だと呟いたユーグレイに抱きしめられたまま、アトリは目を閉じる。
 溶け落ちる思考。
 ただ。
 この夜の先に、あの夢の続きがないことを願った。

しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

4人の兄に溺愛されてます

まつも☆きらら
BL
中学1年生の梨夢は5人兄弟の末っ子。4人の兄にとにかく溺愛されている。兄たちが大好きな梨夢だが、心配性な兄たちは時に過保護になりすぎて。

強制悪役劣等生、レベル99の超人達の激重愛に逃げられない

砂糖犬
BL
悪名高い乙女ゲームの悪役令息に生まれ変わった主人公。 自分の未来は自分で変えると強制力に抗う事に。 ただ平穏に暮らしたい、それだけだった。 とあるきっかけフラグのせいで、友情ルートは崩れ去っていく。 恋愛ルートを認めない弱々キャラにわからせ愛を仕掛ける攻略キャラクター達。 ヒロインは?悪役令嬢は?それどころではない。 落第が掛かっている大事な時に、主人公は及第点を取れるのか!? 最強の力を内に憑依する時、その力は目覚める。 12人の攻略キャラクター×強制力に苦しむ悪役劣等生

R指定

ヤミイ
BL
ハードです。

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

BL
鍛えられた肉体、高潔な魂―― それは選ばれし“供物”の条件。 山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。 見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。 誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。 心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。

鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる

結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。 冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。 憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。 誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。 鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。

魔王に飼われる勇者

たみしげ
BL
BLすけべ小説です。 敵の屋敷に攻め込んだ勇者が逆に捕まって淫紋を刻まれて飼われる話です。

処理中です...