Arrive 0

黒文鳥

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7章

6


 木々が密集する場所を縫うように進み、やがて見えて来た急な傾斜を慎重に下る。
 小さな川だ。
 水は苔の生えた川縁の石を撫でるように静かに流れている。
 きっと街の中心を流れていた川に続いているのだろう。

「……は、ぁ」
 
 そんなに走っただろうか。
 何なら普段の哨戒任務の方が余程体力を使うはずなのに。
 酷く苦しい。
 ちょっと休みたいと訴える前に、ユーグレイはアトリの様子に気付いて足を止める。
 まだ追って来る者の姿はない。

「もう少しこっちだ、アトリ」

 差し出された手を握ると、彼は斜面に突き出た岩の影へと進んでいく。
 岩の上部には穂の下がった草が一面に生えていて、気休め程度だが身を潜めることが出来そうだった。
 湿った岩壁に背中を預けて、アトリは息を吐く。
 一撃しか放っていないが、これは防衛反応の兆しだろうか。
 いや、でも。
 喉の奥にやけに甘い花の匂いが残っている。
 気を紛らわせようと、アトリは顔を上げてユーグレイを見た。

「流石……、土地勘があると、違うな」

「そう、だな。街は少し変わったが、幸い森の地形には大きな変化はないようだ」

 ユーグレイは遠く川下へと視線をやる。
 吐き出す息は白い。
 
「……このまま川沿いに下って行けば旧市街の方まで出られる。兄に連れられて邸を抜け出す時は、いつもこの道を使っていた」

「………………」

 大丈夫だって、と安易に声をかけるのは躊躇われた。
 ユーグレイの家族は皇国でも地位のある人々だ。
 さっさと始末してしまうよりも、人質として生かしておいた方が利がある。
 カグたちだってそうだ。
 彼らの命はカンディードという組織に対する切り札になる。
 けれど先程のカレンの性格を考えるとそれも確かなこととは言えない。

「顔、白いな。平気? ユーグ」

 冷え切ったユーグレイの頬に、手の甲で軽く触れる。
 濡れた銀髪から筋になって雨が滴っていた。
 ああ、と彼は短く答える。
 
「お互い様だろう。君こそ大丈夫か?」

「…………うん、まあ」
 
 どうしようか、と一瞬躊躇した。
 無理に飲み込んだ紅茶。
 あれはきっと口にしてはいけなかったものだ。
 誤魔化して良いことではないと、わかってはいる。
 アトリは足元に視線を落とした。
 これ以上の負担をかけたくはなかったけれど、ユーグレイには言っておかなくては。
 
「ごめん、俺、変なもん飲んだかも」

 ごめんと繰り返した瞬間、ユーグレイに肩を掴まれてアトリは岩壁に押し付けられた。
 性急な手が脈を測るように首筋に当てられる。
 切迫した表情の彼は「何を?」と鋭く問う。

「何を飲んだ?」

「花の匂いのする、甘い、紅茶? 全部は、飲んでない」

「体調は?」

「い、や……、ちょっと息苦しいだけ」

 畳み掛けるような問いに答えると、ユーグレイは肩を掴んでいた手を下ろした。
 冷え切った指先だけが、まだ首筋に添えられている。
 僅かな沈黙。
 ユーグレイは「すまない」と謝った。
 
「何で、ユーグが謝ってんだよ。やらかしたのは、俺だって」

「やらかした? 依頼人を訪ねた先で供されたものに普通警戒心を抱いたりはしないだろう。そもそも今回の依頼人は僕の身内だ。寧ろ、全部飲んでいないことが奇跡に近い」

 ユーグレイは小さく首を振った。
 痛切な後悔が、その顔に浮かぶ。
 
「すまない。君を、危険に晒した」

 違う。
 そうではないのに。
 絞り出すように呟いたユーグレイは、ふっと走り抜けて来た木々の合間を睨んだ。
 雨の音に混ざって微かに人の声がする。
 流石に追いつかれるか。
 
「ユーグ、平気だから、そろそろ」

 大丈夫だ。
 いっそ防衛反応と比べれば可愛いほどの不調である。
 アトリはユーグレイの指先を軽く握って促した。
 少なくとも、まだ自分の足で歩ける。

「いや……、ここで待とう」

 待つ?
 雨の音がうるさい。
 ついさっきまで静かに流れていた川も、少し水嵩が増したように見える。
 ユーグレイは動こうとしない。

「待つって、何で? 迎え撃つ?」

 時間がない。
 全く意図がわからずにアトリは呆けたまま聞き返した。
 ユーグレイははっきりと首を振ってそれを否定する。

「君が飲んだものを確かめる必要がある。毒性の強いものだとしたら、取り返しがつかない」

「は? だから、ここであいつら引っ叩いて話聞き出すってことじゃなくて?」

「君に、魔術を行使させる訳にはいかない。アトリ」

 魔術を、行使させられない。
 その言葉に何故か殴られたような衝撃を受けた。
 活動限界ならともかく、まだ大丈夫だと言っているのに。
 望まれた通り隠さずに苦しいと伝えたのは、間違いだったのだろうか。
 ユーグレイに大切に想ってもらっている。
 守りたいと想ってもらっている。
 だからこその判断だと、わかる。
 けれどこれでは。
 アトリはユーグレイの「ペア」とは言えない。

「交渉、場合によっては降伏する。男の方はまだ話が通じそうに見えたが、万が一の時は僕が足止めをする。アトリ、君はいつでも逃げられるよう準備を」

「……………………」

 ユーグレイの意識は、既に近付く相手に向けられていた。
 俯いたまま、アトリは彼の袖口を掴む。
 色を失った指先が震えるのを奥歯を噛んで抑える。
 勿論「わかった」などと答えるはずがなかった。


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