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7章
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しおりを挟む「ユーグ、もうちょっと、ゆっくり!」
邸のエントランスで合流すると、ユーグレイは何も言わずにアトリの手を引いて歩き出した。
殆ど走るのと変わらない速さで、石畳の道を辿る。
重い灰色の空からはいつの間にか雨が降り出していた。
「防壁に戻る」
「戻る? 防壁に?」
随分と急な話だ。
カグたちの手がかりも、まだ何も掴めてはいない。
ユーグレイはようやく振り返ってアトリを見た。
枯葉を叩く雨の音が聞こえる。
いや、これはもしかしたらもう雪に近いのかもしれない。
冷たい。
「兄ではなかった」
「は? どういう……。ちょっと待て、それって」
「リューイ・フレンシッドを名乗って応対に出た男は、兄ではなかった。あれは全くの別人だ。恐らくあの邸は、完全に連中に掌握されている」
緩やかな曲線を描く道。
物寂しい色の木立に隠されて、邸はすでに見えない。
「これはもう僕らだけで対処出来る問題ではない」
事実を述べたユーグレイの言葉は酷く静かだ。
ただ、状況は想像以上に悪い。
アトリたちと同様にカグたちもここを訪れただろう。
彼らは何も知らない来訪者をどうしただろうか。
そもそも、ユーグレイの家族は。
判断としては撤退が正しいとわかるが、それでもここで逃げ帰って良いとは思えなかった。
「じゃあ、せめて」
「君が邸内を視て、人質が確認出来れば彼らを救い出すのか? 確かに不可能ではないだろう。けれどその後は?」
アトリが言いたかったことを正確に汲み取って、ユーグレイは逆に問いかけて来る。
「相手がどれほどの規模の集団なのかわからない。追跡されて振り切れるのか? 戦いになったら無力化出来るのか? アトリ、君は自分がリスクを負っていることを忘れているだろう!」
「…………ごめん」
ユーグレイの言う通り、それだけの魔術を行使すれば恐らくアトリは身動きが取れなくなる。
忘れていた訳ではないが、それを度外視していたことは確かだ。
こんな時くらいは多少の無理をしても、彼が守りたいものをちゃんと守ってやりたかった。
それだけだ。
ユーグレイは唇を噛んで弱く首を振った。
「いや……、すまない。とにかく今日中にここを発つ。彼らがどう出るか予想がつかない。急ぐぞ」
「りょうか、……い?」
瞬きの合間の酩酊感。
濡れた髪から雨の雫が落ちて、ぞくりと全身が震えた。
それは本能的に察知した危機だった。
背後を振り返ったアトリは、殆ど反射的にユーグレイに手を伸ばす。
耳鳴りがするような静寂。
一つ息をする刹那。
雨の幕を裂くように、鋭い閃光が迫って来た。
「ーーーーッ!」
「アトリ!」
辛うじて放った魔術が閃光を弾いて散る。
攻撃された。
誰に、と確認するまでもない。
「あっは、ほら見なよ! やっぱり一撃で終わらなかっただろ?」
楽しげにスカートの裾を揺らしながら、追跡者は歓喜の声を上げる。
明るい茶色の髪に、相変わらず着崩れたままのメイド服。
カレンだ。
「こういうのを待ってたんだって! 相手が抵抗するんなら、好きなようにいたぶっても構わないだろうが!」
無くした玩具を見つけた子どものように、彼女は興奮気味に捲し立てる。
その彼女の背後。
邸からの道を疲れたような顔で走って来る男が見えた。
小綺麗なジャケット姿の彼は勇み足のメイドに追いつくと、濡れた金髪を鬱陶しそうに掻き上げて溜息を吐く。
ユーグレイは無言のまま彼を睨んだ。
「やる気になってくれるのは良いんですが、そういう発言はよしません? お客さんたちが怖がるでしょう」
やんわりとした声に敵意は感じられないが、恐らくは彼が「リューイ・フレンシッド」を名乗った偽物だろう。
そして。
間違いなく、彼女たちが魔術を行使した。
「アタシは鬱憤が溜まってんの。ナイン、アンタみたいな草食系にはわかんないだろうけどね。面白い話だと思ったのに仕込みが長いわ、暴れる暇もないわ。獲物ってのはこうやって狩ってこそだろ」
「よく言いますよ、貴女は。随分と好き勝手したでしょうに」
男はちらとアトリたちを見たが、どちらかと言えばその注意はカレンに向けられているようだった。
カンディードのペアのような信頼関係にはないのだろう。
味方同士のはずだが、彼らの間には微妙な緊張感がある。
「だーかーらー、まともに抵抗出来ないような連中をやったって面白くないんだよ!」
それは、一体誰を指しての言葉なのか。
当然のように言ってのけたカレンは、「それにさ」と唇を舐めた。
堪らないとばかりに弓なりになる瞳。
ユーグレイがアトリの手を握り直した。
わかっている。
「アタシの勘じゃあれは最高の獲物だ。絶対、イイ声で鳴くよ?」
ほーら、やっぱり変態だ。
躊躇なく、アトリは軽く指先を振り下ろした。
気配に気付いた男がカレンの隣に踏み出すが、それより早く彼女の足元で破裂音が響く。
叩きつけるように放った魔術が、石畳を跳ね飛ばした。
道は大きく抉れて一気に土煙が上がる。
響いたのは悲鳴ではなくからかうような口笛だった。
同時に、アトリはユーグレイに先導されて駆け出す。
こんなところで魔術の撃ち合いなんて馬鹿げている。
こういう時は逃げの一手だ。
道を外れ、木々の合間を縫うように奥へ。
「鬼ごっこ? もちろん、付き合ってあげるよ!」
背中に投げかけられた彼女の声は、次第に小さくなる。
枯葉の積もった斜面を滑るように下り、ユーグレイは迷いなく森の中を進んで行く。
その背を追いながらアトリは後ろを振り返った。
どうやら本気で「愉しむ」つもりらしい。
獲物を泳がせるための僅かな時間。
追跡者の姿はまだ見えなかった。
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