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8章
4
しおりを挟む確かに事態に気付いたはずのカグは通信機の操作を中断して、けれど扉を開ける寸前で呆気に取られたような表情をした。
隙間から手を入れれば魔力の受け渡しくらいは可能だろうが、彼らしくもない緊張感のなさだ。
何してんだ、と問う暇もない。
男はさっさとアトリの眼前に迫り、軽く手を振り上げる。
柔らかそうな白金の髪。
ゆるりと弧を描いた瞳に、敵意は全くない。
自然と迎撃に動き出していた身体が止まった。
何だ?
「あ、ははっ! 凄いなぁ、可愛い可愛い! ちゃんと女の子じゃないか」
振り上げられた彼の手が、アトリの肩をとんとんと叩く。
楽しそうに笑った男は、再度アトリをじっと見てしみじみと頷いた。
一回りくらいは年上だろう。
儚げな雰囲気の整った風貌に、悪戯っ子のような笑み。
ようやくボックスから出て来たカグが、「テメー何してんだ」と呆れたように肩を竦めた。
「知り合い?」
「知り合いっつーか、コイツだって。現地の調査員」
アトリの視線を受けて、男はひらひらと手を振った。
心底元気そうだ。
「何ってあちこち根回しを。二人はカンディードの方に連絡を? もう済ませた感じかな?」
背伸びをするよう通信機の方を見て、彼は首を傾げた。
カグは溜息を吐いて、「アンタのせいでこれからだっつの」とぼやく。
「ああ、それは良かった。ここの通信機だと駄目でさ。とにかく一回出ようか」
何故「駄目」なのかはわからないが、それが原因で防壁に連絡が行かなかったということだろうか。
まあ、またも安否がわからなかった人の無事を確認出来たのは何よりである。
促されてカグが歩き出す。
調査員は穏やかに微笑んだまま、アトリに手を差し出した。
「お手をどうぞ、お嬢さん」
「…………なるほど。喧嘩売ってんのか?」
変装用の衣類を用意したのは彼だと言うし、最初の発言からすでにアトリが男だとわかっているはずだ。
その上で「手をどうぞ」と言うのであれば相当である。
調査員は悪びれもせずに、いやいやと首を振った。
「いや、ついさ。彼の連れは全然似合わなかったからそんなものだと思っていたけど、案外いけるんだなって」
「責任感なさすぎだろ、発案者」
「褒めてるつもりなんだけど。おかしいなぁ」
小さく笑いながらそう言って、彼はくるりと踵を返した。
階段を数段下りたカグが早くしろと言いたげにこちらを見ている。
ベージュのコートの背中を追いかけて、アトリは不意に息を呑む。
強烈な既視感に踏み出した足が止まった。
この後ろ姿を、知っている。
肺が圧迫されるような緊張感。
どうか、振り返らないで欲しい。
思考を埋めた悔恨はアトリのものではないが、まだ生々しく脳裏に刻まれていた。
「名前は?」
ユーグレイの夢で視たその人の姿を、見間違えるはずはない。
それでも事態が飲み込めずにそう訊くしかなかった。
アトリの問いかけに、彼は呆気なく振り返って困ったように「ごめん」と謝る。
「顔も名前も結構知っている人がいるから、ちょっとな。調査員さんって呼んでくれれば良い」
「…………確かに、長いこと現地の調査員してたら顔見知りもいるか。あちこち見張られてんなら、うっかり名前を呼ばない方が良いもんな」
「そういうこと。理解してもらえて何よりだよ」
彼に続いて、アトリは階段を下りる。
印象は別段似ているとも思えないが、やはりどこか相棒を想起させる後ろ姿。
間違いなく彼は、リューイ・フレンシッドだ。
ユーグレイの兄が、何故カンディードの現地調査員を名乗るのか。
いや、そもそも地域一帯を治める家系の長子がずっと調査員をしていたとは考えられない。
では、嘘を吐いてるのか。
何のために。
「調査員さんは、兄弟いんの?」
「兄弟? いないけれど、何故?」
彼は帽子を押さえてまま首を傾げる。
いい加減待ち切れなくなったのか。
カグが入り口の扉を出て行くのが見えて、アトリは少し歩調を早めた。
「俺、兄弟とかいないから。こーいうしょうもないことする身内がいたら大変そうだなって」
いないはずはない。
少なくともこの人は、自分がリューイであること明かすつもりはなさそうだ。
変装の一件を揶揄されていると思ったのだろう。
彼は仕方ないみたいな顔で、「ごめんって」と謝る。
育ちの悪い人間でも雇ってくれる変な人。
いい歳して子どもみたいなところがある、悪戯好きの若旦那。
カレンが口にしたリューイ・フレンシッドの評、そのまま。
目的も事情もわからないが、完全に信頼して良い相手ではないことは確かだ。
「……出来れば、敵に回したくねぇな」
アトリは白いストールを口元まで引き上げて、小さく呟いた。
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