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8章
6
「話したのか。ユーグレイは、君に、あの日のことを」
「………………」
「は、そうか。これは、少し考えを改めた方が良さそうだ」
リューイは視線を上げて、アトリを見た。
暗い瞳。
焦燥、羨望、悔恨。
浮かぶ感情の全てが、どこか儚く泡沫に消えていく。
この人はもう、何もかも諦めた後だ。
「あのユーグレイが、そこまで心を許したのか。心底から笑いもせず何も欲しがらなかったあいつが。ああ、兄としては喜ぶところだろうな」
それとも、と彼は口元を歪める。
それが苦痛に耐えるような表情に見えたのは、気のせいだろうか。
「そんなことは許せないと、言っておくべきなのかな」
その言葉には試すような響きだけがあった。
この兄弟の関係性を、アトリは正確に把握している訳ではない。
単純に恨んでいるとかいないとか言い切ってしまえる話でもないのだろう。
ただ弟に対して思うところがあるのならば、他に幾らでも報復の方法はある。
少なくともユーグレイは、この人にどれほどの害意を向けられたとしてもそれを受け入れるだけの覚悟をしていた。
恐らく反応を確かめたいだけだ。
そうわかってはいても、良い気分しない。
「アイツがどう生きてくかって、いちいちアンタの許可が必要な訳?」
予想通りリューイは平然とアトリを見返した。
冷静になれ、と訴える思考より感情が先走る。
アトリは腕を押さえ込んで低く笑った。
吸い込んだ空気は酷く冷たい。
「当たり散らす相手を間違えてんじゃねぇの? アイツが歩んできた五年を知りもしないくせに随分な台詞だな、おにーさん」
組織の人間として、恨み言をいくらぶつけられても仕方がないとは思う。
かつてのカンディードの失態がこの人から大切なものを奪ったのだから当然だろう。
ただどうしても、同じ言葉をユーグレイにだけは聞かせたくなかった。
リューイ・フレンシッドは一瞬、呆気に取られたような表情をする。
ゆっくりと瞬いた彼は口元を押さえて笑う。
「いや、ごめん。少し意地悪が過ぎた」
何事もなかったかのように、彼はすとんとベンチに腰を下ろす。
「ユーグレイが悪い友人に騙されていないか、心配でさ。でもどうやら杞憂だったようだ。君はユーグレイのために怒ってくれたし、何より危険を承知で一人で真意を問い質す選択をしてくれた。身内が元凶なんて話を、あいつの耳に入れたくなかったんだろう?」
「…………さあ、色々深くは考えない質なもんで」
素っ気なく言葉を返したアトリに、リューイは悪い顔をして頷いた。
君にならいいか、と呟く声には楽しげな気配がある。
「いや本当に、現状は予想しなかったことばかりなんだ。全くせっかくやる気になったって言うのに上手くはいかないものでさ」
やはりユーグレイがカンディードに所属していると判明してから、行動を起こしたらしい。
素養持ちを集め、研究院と協力していずれ0地点を破壊する。
ただ彼の父は息子の計画に猛反対した。
そんなことよりもさっさと結婚して跡取りを、というのは考えの一つとして理解は出来る。
体調を崩した母が数ヶ月前から皇都の病院で療養中、というのも間が悪かったのだとリューイは言った。
親子の溝は深まるばかりで、結局リューイはカレンたちの手を借りて父親を軟禁。
同時に父の方は、カンディードに依頼を送っていたという話らしい。
もっともリューイが雇い入れたのはカレンとナインの二人だけ。
徒党を組んでなんて、大袈裟にも程がある。
「ちょっと待て。じゃ、本物の調査員は?」
「ああ、まとまったお金を渡して。うん」
うん、じゃない。
アトリは額を押さえて項垂れた。
馬鹿馬鹿しい。
リューイの話が本当なら緊急に救助が必要な人間はおらず、どちらかといえば壮大な親子喧嘩の仲裁が求められているだけだ。
ただもっと面倒なことに、彼らはカンディードの人員に手を出してしまっている。
アトリとユーグレイだけが巻き込まれた話であれば黙っていればそれで済む。
けれど薬を盛ってカグたちを一時拘束したことは事実で、アトリたちがカレンと交戦したことも彼らに知られている。
依頼を受けて出向した以上、何もなかったことにするのは難しい。
「収拾つかなくなってんじゃねぇか。どーするつもりなんだよ」
「そう。だからさ、君にも協力して欲しい」
悪い話じゃない、とリューイは危機感の欠片もなくのんびり続ける。
「今夜の突入作戦を上手いこと誘導してもらいたいんだ。互いに怪我人は出ず、結果として徒党を組んでいた『連中』は取り逃してしまったけれど、フレンシッドの当主は助けることが出来ました。そんな結末が良いと思うんだがどうかな?」
「……何で俺がその話に乗ると思ってんの?」
さら、と枯葉が擦れる音が降って来た。
冷ややかな風が路地を吹き抜けて行く。
リューイは目の前に立つアトリを見上げて、瞳を細めた。
「いや、君は乗るさ。だってこの顛末なら、ユーグレイは傷付かずに済む。狂った兄の計画で友人たちが危険に晒されたなんて知れば、あいつは意外と気に病むだろう。父との接触には気を付けてもらう必要があるけど、そこもほら君が協力してくれれば言うことなしだ」
頷くことには僅かばかりの抵抗があった。
それは、確かに都合の良い話ではあるけれど。
ユーグレイは本当に、それを望むだろうか。
「何も誰かを殺してくれって言っている訳じゃない。素知らぬ顔でちょっとだけ嘘を吐いてくれれば良いだけさ。何より、あいつのためになる」
「…………俺は、俺の判断で可能な限りの協力をする。そっちの指示を全部呑むつもりはないから、そのつもりで」
ぎりぎりの妥協点だった。
リューイはふわりと微笑んで、頷く。
彼は少しだけ腰を浮かせてアトリの手を取る。
握られた手は冷え切っていて感覚が薄かった。
これで良いのか。
「もちろん、それで構わない。じゃあこれで契約完了だ。これからよろしく、協力者さん」
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