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8章
7
緩やかな坂道を下ると、どこかの建物から人の笑い声が微かに聞こえた。
そもそも街中に監視の目などないと知ってしまえば、別段気にかけることもない。
全くこんな格好までして、さぞ滑稽に見えたことだろう。
アトリは石畳に視線を落としてそれから顔を上げた。
少しずつ入り組んでいく路地。
建物の角から不意に姿を見せたのは、ユーグレイだった。
「……ユーグ」
カグだけ先に戻ってもらったから心配をさせてしまったらしい。
僅かに乱れた銀髪に、安堵で緩む澄んだ碧眼。
目立つから待機という話はどこに行ったのか。
いや、アトリが言えた話ではないか。
走って来たのだろうな、と苦笑する。
「アトリ」
君は、と言いかけたユーグレイは続くはずだった叱責の言葉を飲んだ。
調査員と残ったと言っても、セルであるカグと離れたことは確かである。
今回のことに関しては別に怒られても仕方がないのだが、昨日の今日だからか。
ペアとしてどこまで身を案じるのが普通なのかわからないのだろう。
彼は逡巡してから、小さく首を振った。
「……無事だな」
確かめるようにそう言ったユーグレイに、アトリは「勿論」と答える。
「悪い、心配かけた」
非を認めれば当然容赦のない説教が始まると思ったが、ユーグレイは予想に反して何も言わなかった。
無事なら良い、と静かに呟いた彼はアトリの手を握って踵を返した。
その背を見ながら、リューイ・フレンシッドの話を思い返す。
ユーグレイが傷付くことは可能な限り避けたい。
そのためなら多少の無理は平気だし、敢えて今回の一件の真相を話す必要はないだろうとも思う。
ただ、それは。
やっぱりペアとしては間違っているな、とアトリは息を吐いた。
それは多分、ユーグレイが犯した間違いと根本的に同じだ。
旧市街のホテルに戻ると、ユーグレイに責められたらしいカグに軽く文句を言われる。
幸い元から仲の良くない相手に何を言われたところ、彼自身はさして気にもしなかったようだ。
話題はすぐに今夜の突入作戦へと移った。
「テメーらも連中に借りはあんだろうがよ、ここは譲ってもらうぜ」
ソファに腰掛けたカグは予想通りそう言った。
まだ日没までは時間があるはずだが立地が良くないのか、ロビーはすでに薄暗い。
相方の隣に座ったニールは、少し不安そうな表情で「えっと」と口籠る。
カレンたちと対するペアと、邸内の人質を救助するペア。
どちらを担うかという話だ。
「カグくん……、ごめん。気持ちはわかるけど、ぼくあんまり自信ない……かも」
「……………」
意外にもはっきりと意見を口にしたニールに、カグは眉を顰めて沈黙した。
そもそも組織所属のペアは人間相手に魔術を行使することには慣れていない。
純粋にカレンとナインがどの程度出来るのかという問題もあるが、ニールの不安はもっともだろう。
別段拘りのなさそうなユーグレイが「では」と言いかけるのを、アトリは「いや」と先手を打って止めた。
床の隅にはさっさと脱ぎ捨てた女性ものの衣類がまとめてある。
リューイの話を信じるのであれば、カレンたちとの衝突は形だけで終わるはずだ。
「あの二人は、カグたちに任せたい」
アトリは直接床に座ったまま、片膝を抱えてユーグレイを見た。
相棒はその視線だけで、表向けの理由を大体理解してくれたようである。
「俺だと、手加減出来ない。容赦なく命を奪うほどの悪人って訳でもないし、それは避けたいだろ?」
暗に「殺してしまうから」と口にしたアトリに、カグとニールは流石に驚いたような表情をした。
まあ、そういう反応になるだろう。
本来の能力としては、ニールの方がアトリよりやや上だ。
こんな発言が飛び出してくるとは思ってもいなかったに違いない。
「アトリ」
「言っとかないと話になんないって、ユーグ」
アトリは酷く端的に一時期から能力が狂っているのだと説明する。
威力の調節が出来ない自分が人間と魔術の撃ち合いなどしたら、恐らく相手は死ぬだろう。
ともすれば荒唐無稽に聞こえるかもと案じたが、ニールはどこか腑に落ちたように小さく頷いた。
同じエルとしてどこかでアトリの魔術はおかしいと勘付いていたのかもしれない。
「でもその分、捕捉とか牽制とか援護は出来ると思う。ユーグは邸内のこと詳しいだろうし、救出に動いた方が有利だ。ニール、悪いけど、頼らせて欲しい」
ごめん、とアトリは謝る。
どちらが良いのだろうか、とは思った。
けれど、リューイが嘘を吐いていたら。
或いはカレンたちが彼の思惑に従わずに交戦を望んだ場合、アトリでは文字通り無力化では済まない。
援護という形で、彼らの動きを誘導出来る位置に付くのが最も確実だろう。
ユーグレイの父に関しては、少し考えなくてはいけないが。
「……うん、わかった」
緊張感の漂うニールの瞳には、疑念など一欠片もなかった。
黙って任せとけっつのと素っ気ない言葉を口にするカグも、アトリの言葉を疑いもしない。
飲み込んだ空気がやけに重く感じる。
騙すべきなのは、彼らではない。
でも。
作戦開始はもう少し暗くなってからだよね、とニールがカグに問う。
並んで話し込む二人を眺めていると、ユーグレイがアトリの腕を引いた。
「君は、今のうちに少し休め」
有無を言わせぬ口調だ。
そんなに、大切にしてもらわなくても大丈夫なのに。
「そうする。ちょっと、話したいこともあるし」
アトリはユーグレイの手を支えに立ち上がると、素直に頷いた。
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