Arrive 0

黒文鳥

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9章

0.1

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 アトリはよく平気だね、と言われてユーグレイは処置室のベットに腰掛けた少女を見た。
 冷え切った指先を温めるように手を擦り合わせていたクレハは、白い顔に不服そうな感情を浮かべている。
 何の話だと問うまでもない。
 朝から晩まで続く観測実験中、ユーグレイの魔力を受け取った彼女が終始「寒い」と口にしていたことを思い出す。
 そう言えば、そうだ。
 アトリとペアになって以降自身の魔力がどのように感じられるものなのか、意識するのはやめてしまった。
 
「必要であればもう少し毛布を貰ってくるが?」

 ユーグレイは事務的にそう言って、背後の扉を振り返る。
 クレハが真っ青な顔で「凍えそう」と言い出して、今日の観測実験はお開きになった。
 幸い念の為にと受けた診察で異常は見つかっていない。
 単純に身体が冷えただけのようだ。
 既に夜間哨戒も始まった頃合いで病院内も静かだったが、誰かしら声を掛ければ追加の毛布くらい手に入るだろう。
 クレハは身体に巻き付けた毛布を胸元でしっかりと合わせて首を振った。

「大丈夫。落ち着いたら先生に送ってもらうから、ユーグレイはもう戻って良いよ」

「………………」

 無論、そうしたい気持ちは山々だった。
 ユーグレイは動かしかけた足を何とか留めて沈黙する。
 使節団が主導する0地点の観測実験は、現状まだ危険を感じるものではなかった。
 それでも本来のセルとエルの魔術行使のやり方とは違うのだと、説明はされている。
 こうして協力要請に応じた以上相手が強行手段を取ることはないと思いたいが、油断が出来る段階ではない。
 実験が始まってからは必ずユーグレイが彼女を部屋まで送るようにしていた。
 何かあれば、誰よりアトリが責任を感じるだろう。
 
「私じゃなくてアトリの側にいるべきだと思うんだけど」

「そうだな」

「そうだな、じゃなくて」

 淡々とした口調ではあるが、クレハは眉を顰めて続ける。

「…………ユーグレイ、アトリとちゃんと話したの?」

 まともに話など出来るはずがない。
 観測実験の拘束時間が長いこともあるが、何よりユーグレイに負い目があったのが原因でもある。
 ユーグレイとクレハが何故実験に参加するのか、アトリであれば恐らく予想はついているだろう。
 これは、ペアとしては間違った判断だと理解している。
 アトリを信頼して並び立つ相手として見るのであれば、全て話すべきなのだろうとわかってはいた。
 それでも、どれほどに怒りを買おうと脅威から遠く離れたところにいて欲しかったのだ。
 こんなやり方は嫌だと、ついこの間言われたばかりだと言うのに。

「ユーグレイは、本当に、アトリのこと好きだね」

 揶揄いも驚きも、その声には含まれていなかった。
 ユーグレイを見上げたクレハは、小さく首を傾ける。
 長い黒髪が、肩にかかった毛布の上を滑って行く。

「大切で仕方ないんでしょ? でも多分、ユーグレイにそうやって一方的に守ってもらうの、アトリは嫌なんじゃないかな」

「わかっている。実際そう言われた」

 クレハは「なんだ」と呟いて微笑んだ。

「アトリはちゃんとユーグレイにはそう言えるんだね」

 まだ羽織ったままのローブから、微かに海の匂いがする。
 処置室の白い照明が少しだけ眩しい。
 ユーグレイは目の前の少女をただ見返した。

「アトリ、自分が嫌なこととか自分だけでどうしようもないこととか、飲み込んじゃう人だと思ってたから。良かった」

「………………」

 根本的にアトリがそういう性質を持っていることはユーグレイとて理解している。
 大事なことほど口を噤んで抱え込む癖は、結局そこに起因するのだ。
 けれどユーグレイに対して嫌なことは「嫌だ」と言うこと自体は、決して少なくはなかった。
 それは彼の本質からすれば稀有なことなのだと、果たして気付いていただろうか。
 クレハは静かに息を吐く。
 白い頬、伏せられた睫毛が不意に彼と重なって見えた。

「アトリの為になるならって思ったけど、どうなのかな。これじゃ意味ないような気がする。二人が一緒にいないのちょっと嫌な感じがするもん」

「使節団が『代役』を探している様子はない。アトリの特異性を知れば、実験の最中でも動きがあるだろう。彼らの監視という意味でも、実験参加者という今の立場は決して悪いものではない」

 そうだけど、とクレハは言葉を濁す。
 アトリの為なら観測実験に参加しても良い、と彼女は言った。
 ユーグレイが説得をする前に、今回の件にアトリを関わらせてはいけないとわかっていたようだ。
 その献身は、あの父親の元から自身を連れ出してくれた恩から来るものなのか。
 或いは自身の母親とアトリが同郷かもしれないという不確かな繋がり故か。
 何であれ、彼女はエルとして申し分ない能力を有している。
 目眩しには十分だった。

「でも……、どこに悪い人がいるか、わからないよ?」

 クレハはどこか縋るような瞳をしてそう言った。
 そういえば、そうやって忠告をされた記憶が確かにある。
 人の良さそうな笑みを浮かべる誰かに。
 アトリさんをふらふらさせておくのはどうかと思いますよ、と。
 
「ユーグレイ?」

「いや、異論はない。悪いが今夜は誰かに部屋まで送ってもらって欲しい」

 少女は安心したように表情を緩めて頷いた。
 ちゃんとアトリと仲直りして来てね、と背にかけられた言葉に返答をしたかはわからない。
 ユーグレイは処置室の扉を閉めて、足早に歩き出した。




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