Arrive 0

黒文鳥

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9章

0.2

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「つまんねーの、案外余裕あんじゃねーか」

 食堂に顔を出したのは何日ぶりだろうか。
 ここ数日は誰かが酷く怒りそうなほどに適当な食事をしていたが、管理員や医者だけでなく同僚たちにも窘められ仕方なくこちらに足を向けたのだ。
 活動に支障が出ては確かに問題がある。
 それを「余裕」と言うのかは、わからなかった。
 少し離れた席で談笑していた数人が案ずるような視線を送って来る。
 味のしないスープでパンを飲み込んで、ユーグレイは傍に立った青年を見上げた。
 
「相変わらず冷静ですーって顔しやがって、随分と薄情じゃん」

「カグくん!」

 ペアの腕を掴んだニールが鋭い声を出すが、カグはつまらなそうに鼻を鳴らしただけだった。
 ただでさえ常より静かだった食堂が静まり返るのがわかる。
 何かあれば間に入ろうと身構える気配が、幾つもあった。
 そんな心配をしなくても、彼らと言い争う気は毛頭ない。

「そうでもない」

 そう答えるとユーグレイは数分もかけずに食事を終えて立ち上がった。
 一分一秒でさえ、惜しい。
 カグは微かに眉を顰めたが、立ち塞がるようなことは決してしなかった。
 何か言いかけるニールは、そのまま口を噤む。
 
「んで、いつ発つんだよ?」

 すれ違う一瞬で、カグが問う。
 ユーグレイは目線を合わせることなく、「今夜」と答えた。


 アトリの行方がわからなくなって既に四日。
 定期船の船員が彼の姿を見たのが、最後の目撃情報だ。
 ノティスからの客人を見送ったアトリが何事もなく防壁に戻ったのかは不明である。
 当日の定期船に彼が乗ったかどうかは定かでない。
 たかだか定期船に乗客名簿などあるはずもなく、乗せたら覚えているとは思うがわからないと言われてしまうのも当然のことではあった。
 防壁内の捜索は既に二度に渡って行われていた。
 寄港地であるノティスと皇国にはそれぞれカグとニール、リンとロッタのペアが即日聞き込みに向かってくれたが、何の情報も得られていない。
 不慮の事故か、或いは自ら姿を消したか。
 ユーグレイとて、そういう可能性があることは否定し切れなかった。
 けれど。
 アトリがいなくなったその日、使節団の一員として来ていた男も同時に姿を消していた。
 ラルフ・ノーマン。
 彼が使用していた部屋は生活の痕跡もなく片付けられており、自らの意思で荷物をまとめて防壁を出たのだろうと思われる。
 アトリから目を離すなという忠告。
 使節団の思惑を明らかにするための助言。
 その研究員の振る舞いを鑑みれば、怪しいと断定するのは無理があった。
 それでも拭い切れない疑念を後押ししたのはクレハだ。
 
「私、あの人、嫌い」

 明確な拒否感を露わにして、少女はそう言い切った。
 自身の父親に向ける憎悪に似た感情を隠すこともなく、クレハは「きっと関係がある」と訴えた。
 そして管理員の協力の元、観測実験を取り仕切るイレーナを聴取の席に着かせたのが一昨日のことだ。
 構成員の失踪など知ったことではないと興味すら示さない彼女だったが、ラルフ・ノーマンの所在を問うと怪訝そうな様子を見せた。

「あの人はそもそも研究院所属の研究者じゃないの。使節団に加わったのも国の方から斡旋があったから。何を調べに来たのかは知らないけど、こっちに着いてから殆ど顔も見ていないし大人しいものよ?」
 
 だから彼の所在など知る由もない、と言う。
 ただ何も言わずに帰国したらしいというのはイレーナも気に掛かったようだった。
 調べてあげましょうか、と持ちかけられた時には多少なりとも驚いたが考えれば意外なことではない。
 アトリが見つからない限りユーグレイとクレハは実験どころではない。
 逆にここで恩を売れば、もっと長期的な協力を得られると判断したのだろう。
 別段痛くない腹は探られたところでどうということはないという自信すら垣間見えた。
 それならば、少なくともイレーナという人物はアトリの失踪に関わってはいない可能性が高い。
 そうでなくとも利用出来るものは全て利用するつもりだった。
 彼女に調査を依頼して僅か一日。
 ラルフ・ノーマンは皇国の研究院に帰還していることが明らかになった。
 ただそれ以上のことは研究院から回答がなかったと言う。
 証拠は何もない。
 けれど、それだけでどこか腑に落ちた気がした。
 
「行くのなら付いていってあげる。裏があるのだとしても、私には何も関係がないもの」

 そう微笑んだイレーナは、けれど心底腹立たしいという目をしていた。
 彼女も研究院の対応やラルフの行動に違和感を覚えたのだろう。
 そしてもしラルフが全てを計画したのだとすれば、彼女の観測実験はアトリとユーグレイを引き離すための「イベント」として使われたことになる。
 研究院の態度から、それらは容認されたものであったことさえ予想出来た。
 イレーナにとって、それがどれほどの屈辱なのかはわからない。
 彼女にしてみれば、ラルフ・ノーマンは全くの白でアトリの失踪と関係がない方が心中穏やかでいられるはずだ。
 付いていってあげると言うのは建前で、イレーナ自身真相を確かめる必要があると感じたのだろう。
 彼女の事情はともかく、その申し出を蹴る理由は何処にもなかった。
 
 今夜、皇国に向かう。

 腰に下げた銀剣を隠すように、ユーグレイはコートを羽織る。
 指先が凍り付いたように冷え切っているのは、魔力を抑え切れないせいだろうか。
 或いは、数多ある別の可能性に怯えているせいかもしれない。
 ユーグレイは額を押さえて重い頭を振った。
 暗い自室は、どこまでも静かでひっそりとしている。
 んな怖い顔すんなよ、と柔らかく宥めてくれる声はいつまで待っても聞こえて来ない。
 必ずここに、アトリを連れて帰る。
 深く刻み込んだ誓いは、人魚に付けられた傷のように熱を帯びて酷く痛かった。




 
 
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