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9章
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しおりを挟む魔術行使者のエルに大量の魔力を渡し、同時にセルは魔術を構築する。
後はエルが魔術を使うだけで良い。
セルがそこまで担っても良いが、魔術を「外に生み出す」という行為は概念的にもエルの方が適している。
それが正しく暴発すれば相当な威力になるとラルフは言う。
そう聞いて思い出したのは魔術を暴発させたロッタの姿だった。
あのカウンセリングすら、観測のためのテストだったのだろうか。
「そうしろと言われたところで、ユーグがその通りにするとは思えない」
アトリはそう言い切った。
ユーグレイがクレハの側にいるのなら、そんなことはさせないだろうという確信はある。
ラルフも否定はしない。
椅子に腰を下ろした彼は、自身のティーカップにも紅茶を注ぐとそれを一口飲んだ。
「アトリさんもどうぞ。落ち着きますよ」
「………………」
宥めるようにそう言われて、アトリは持ち上げたカップに口をつけた。
ユーグレイがその思惑に乗るはずはないし、そうでなくとも管理員たちの目がある。
何よりこうして聞いた話を相棒に伝えれば、少なくともクレハに魔術暴発を起こさせるなんて馬鹿な真似はさせられないはずだ。
あたたかな紅茶はほんの微かに甘かった。
高い紅茶だからだろうか。
でも、似たような味のものをどこかで飲んだ気もする。
つい、最近。
ユーグレイの故郷で。
「ええ、イレーナさんのやり方はそれなりに計算されたものではありますが、それだけでは到底0地点には届かない」
ラルフは眼鏡を外して目頭を押さえる。
鳶色の髪が、視線を落とす僅かな動きで揺れた。
アトリはティーカップをテーブルに置く。
無意識に口元を押さえて、目の前の研究員を見た。
「あれは、旧時代から今に至るまで紡がれ続ける唯一の禁呪。セルとエルなどという魔術師の成り損ない程度では、視ることの叶わないものです」
向けられる瞳は、今までと変わらず穏やかで優しい。
そうだ。
この人に是非にとせがまれて、その視力を強化した。
二度目はあの人魚侵入騒動の直前だ。
何故か開いていた門。
偶然居合わせた研究員。
結果として観測実験は始まって、アトリは今ここにいる。
待て、そんなこと。
「私なら、貴方に協力をお願いします。アトリさん。本当に0地点に至るのであれば、貴方に」
差し伸べられる手。
抜き身の刃を喉元に突き付けられたような恐怖。
咄嗟にその手を跳ね除けると、動揺の欠片も浮かべない瞳に判断が正しかったことを確信する。
わからない。
それでも、ここにいるべきではない。
椅子を蹴って立ち上がった瞬間、僅かに脚から力が抜けるような感覚があった。
散々ユーグレイに気を付けろと言われていて、何故ここまで彼について来て警戒もせずに出されたものを口にしたのか。
違和感を無理やり意識外へと押しやって踵を返す。
「不思議ですね。ここまでして落ちないとは思いませんでした。手荒なことはなるべくしたくはなかったんですが」
ラルフが椅子に腰掛けたまま首を傾げて、指先をこちらに向けるのが見えた。
それは、エルが魔術を放つ時の所作に似ている。
思考は追いつかない。
ただ本能的に、「やられた」と思った。
「ーーーーーーーーっ、ぁ」
何の音もしなかった。
多分、たった数秒の出来事だ。
暗転した視界がふわりと戻って来た。
ひんやりとした床の温度。
力の入らない手の先に、テーブルと椅子の足が見える。
自分が倒れていると理解出来るまで時間がかかった。
呼吸が止まっていたらしい。
苦しくて息を吸った瞬間、アトリは激しく咳き込んだ。
「おや、まだ意識があります? 駄目ですね、どうしても加減が上手く行かなくて」
のんびりとした声。
ラルフはようやく立ち上がって、アトリの傍に膝を付いた。
白衣の裾が腕に触れる。
心配そうにこちらを見下ろす視線に、偽りはないように感じられた。
けれどこの人は、今。
確かに、魔術を行使した。
どれほどの才能を有していても、一人で魔術を構築して放つことは出来ないはずなのに。
何故。
ラルフの手が苦痛を和らげようとするように、アトリの胸元を優しく叩く。
得体の知れないものに触れられた恐怖で身体が強張るのがわかった。
「逆にうっかり撃ち抜いてしまわなくて良かった。やっと手に入ったものを壊してしまう訳にはいきませんからね」
大丈夫ですかと顔を覗き込まれて、アトリは目の前の人を睨んだ。
しっかりしろと自身を叱咤するが、身体は到底動きそうもない。
悪戯に成功した子どものようにラルフはにこりと笑った。
「お気付きにならなかったとは思いますが、あれこれ仕掛けてはいたんですよ。疑われないように、好意的に見て頂けるように。普通であれば、一番最初に部屋にお誘いした時に断られるはずはなかったのですが。エルは魔術に耐性がありますから、どうにも効きが良くなかったようで」
くるくるとラルフは指先で宙に円を描く。
それから「だからアトリさんが悪い訳ではないんですよ」と穏やかに言う。
「確実に捕らえられるように、糸を張り巡らせたのは私です。ユーグレイさんには申し訳ありませんが、蜘蛛の巣にかかった貴方は貰って行きます」
「…………ど、いう」
アトリは頭を起こそうと床に爪を立てた。
脱力した身体は泥のように重く不確かだった。
切迫感がすり抜けて、視界がぼやける。
このまま意識を失う訳にはいかないのに。
ラルフの手が労わるように額に触れた。
それを、振り払うことさえ出来ない。
相手が悪かったですね、と本気で惜しむように彼は瞳を閉じる。
「聞いたことはありませんか? 皇国には、旧時代の本物の魔術師が今も生きているって」
「ーーーーーー」
目の前の光景が真っ白に塗り潰された。
痙攣した身体の感覚が一瞬で消えて行く。
抗いようもない。
ああ、でも。
自分には避けようのなかった罠が仕掛けられていたのだとしても、ユーグレイには謝りたかったなとアトリは思った。
それだけじゃ、なくて。
やっぱりちょっと助けて欲しいな、なんて。
どうしようもない時、誰かに助けを求めたって無駄だと思い知っていたはずなのに。
ユーグ。
喉から漏れた微かな悲鳴を、アトリはどこか他人事のように聴いた。
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