Arrive 0

黒文鳥

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9章

16

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 今回のことは本当に申し訳なく思っています、とラルフは謝罪を口にした。
 例の観測実験を押し通すために、「カンディード側の不手際で危険に晒された研究員」として名前が挙げられたことに責任を感じているようだ。
 防壁内に人魚が侵入したのもたまたまそれに襲われかけたのも、別にラルフが悪い訳ではない。
 イレーナが怪しげなカウンセリングを行なっていた時も、彼はどちらかといえばアトリたちの味方をしてくれた。
 ラルフが彼女たちと同じ意見だったとは思っていない。
 
「そういう信頼を損なうようなやり方は避けるべきだとイレーナさんには再三忠告をしたのですが、逆に研究院に戻るように指示を受けてしまいまして……。全く、力不足でした」

 下っ端は辛いですね、とラルフは自嘲気味に笑う。
 せめて世話になった人に挨拶くらいはと思ったそうだが、どの面下げてと諦めてこっそり定期船に乗るところだったと言う。
 気にすることはないのに。
 これまでと変わらない様子のアトリに安堵したらしい彼は、捲し立てるように経緯を語った後少し言い辛そうに声を落とした。
 
「こうしてお会い出来たのですから、やはりお話ししておくべきなのでしょうね。ユーグレイさんが関わっているのであれば、アトリさんは尚更知っておくべきでしょうし」

「…………観測実験のことですか?」

 良い話じゃないだろうという予感はあった。
 ラルフは頷いてそれから空元気を出すように、「ここでは何ですから、部屋でお茶でも飲みながら」と明るくアトリを促す。
 望ましい形ではないけれど約束通りお茶会が出来て嬉しいです、と微笑まれてしまうとユーグレイが怒りそうだからとは言い出しにくかった。
 内容的にも他人に聞かれる可能性のあるところでは、ということなのだろう。
 そもそも観測実験に関することであるのなら、聞かないという選択肢はなかった。
 ラルフが使っていた私室は、第五防壁の客室の一つ。
 門から廊下へと出て、二つ上の階に上がるとすぐだった。
 皇国の使節団に貸し出しているからか、フロア一帯はしんとして人気がない。
 皆、観測実験で忙しいのだろう。

「どうぞ。せっかくですのでリンさんもお誘いしたいところでしたが、楽しいお話ではありませんしね」

 踏み込んだ部屋は、客室というだけあって広い。
 ちょっと高いホテルの一室くらいはありそうだ。
 壁際のベッドに大きめのソファ。
 部屋の中央には白いクロスのかけられたテーブルと、向かい合うように椅子が二脚置かれている。
 備え付けの家具は十分に揃っているのに生活感は酷く希薄だ。
 客人が既にここを去ると決めているからだろうか。
 ラルフは扉を閉めると、アトリに座っていて下さいと勧める。
 静かだ。
 入ってすぐの調理スペースでお茶の準備をするラルフは、楽しげに小さく鼻歌を歌っているというのに。
 棚から取り出されたティーカップ。
 纏めた手荷物の中の紅茶缶。
 アトリはふと背後を振り返った。
 閉ざされた扉には鍵はかかっていない。
 緊張しているのだろうか。
 この冷たい静寂は、雪の日のそれに似ている。

「アトリさん、気にせずおかけになっていて下さい」

 どうぞ、と再度促されてアトリは頷いた。
 何故扉を振り返ったのかよく理解出来ないまま、部屋の中央の椅子に腰掛ける。
 一瞬耳鳴りがした気がして、アトリは軽く頭を振った。
 
「観測実験に参加されているのはユーグレイさんと、クレハさんでしたか。イレーナさんが選出したのであれば素養持ちの中でもトップクラスの能力をお持ちなのでしょう。とはいえどうなるか」

「…………ユーグは、普段の哨戒任務より危険が少ないって言ってたけど」

 何があると言うのか。
 不安を煽るような言い方をした自覚はないらしい。
 ラルフは手元に視線を落としたまま、「ええ、勿論」とあっさり答える。

「これまでのやり方であれば、別段危険はないと思います。けれどイレーナさんは、この観測に賭けている。セルとエルの基本的な魔術行使の在り方を変えようとしているのはお話しした通りですが、それだけではないのでしょう」

 本来はエルが魔術を構築して外に放っているがそれをセルが担うことでより強い魔術行使が出来る、というやつだ。
 実際アトリとユーグレイも試しはしてみたが、結論としてはあまり上手くいっていない。
 
「戦争利用くらいの目的であれば十分でしょうが、0地点の観測は難度が桁違いです。本気でやるのなら、もう少し違ったやり方を予定していると思います」

 ラルフは運んで来た茶器をテーブルの上に並べる。
 白磁のティーカップをぼんやりと見ながら、アトリは「違ったやり方」と繰り返す。
 すぐ傍で彼がため息を吐くのが聞こえた。

「銃に高威力の弾丸を装填して撃つよりも、ありったけ弾丸を詰め込んで暴発してもらった方が威力が高いと思いませんか?」

「そ、れは」

 ぱっと顔を上げると、ティーポットを手にしていたラルフが目の前のカップに紅茶を注いでくれる。
 澄んだ赤い液体からは、微かに甘い花の匂いがした。
 
「すみません。気分の良いお話でないことは承知の上です。けれど0地点観測を果たそうと考えるのなら、それくらいはするでしょう」



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