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9章
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しおりを挟むヴィオルム・ハーケンがノティスに帰ることになったのは、それから二日後のことだった。
内々に進行しているらしい観測実験は形を変えてじわりと噂になり始めていたが、幸い青年の耳にはまだ入っていないらしい。
ノティスの聖女がどうやら正式にカンディードに入るらしい、とか。
ユーグレイが研修に付き合っていてどうやら二人はペアになるようだ、とか。
他にもまあ、色々。
アトリとしても決して楽しい噂ではないが、それこそヴィオルムが聞いたらまた一騒動あるところだった。
だから彼が「ノティスに帰ろうと思う」と声をかけて来た時、申し訳ないがほんの少しだけほっとしたのだ。
あれから、ユーグレイと話は出来ていない。
勝手に何してんだと殴り込みに行きたい気持ちはあれ、不用意な行動はするべきじゃないんだろうという諦観の方が強かった。
クレハも巻き込んでいるというのに、出来ることと言えばユーグレイの言いつけ通り大人しくしていることくらいだ。
意味があるかはともかく、単独行動はなるべく控えているしそれとなく誰かに行き先を伝えている。
それでユーグレイが安心するのならと思うが、無論アトリとしても何もかも納得した訳でなかった。
正直なところヴィオルムに問い詰められたとて、きちんと説明をするだけの心の余裕がない。
結局一番大切なことを言わずに別れる罪悪感が、喉の奥を締め付けた。
「君、大丈夫かい? 元気がなさそうに見えるけど」
防壁に遮られることのない海風が、髪を吹き払って行く。
広い桟橋に荷物を置いて、ヴィオルムは怪訝そうな顔をした。
正午発の定期船はまもなく出発の時刻だ。
これを逃すと次は夕方の船になる。
長話をしている時間は、もうなかった。
「どっちかっていうとそれは俺の台詞だな。ヴィオが納得してんなら良いけど、随分急な帰郷じゃん。あんま自棄になんなよ?」
「私が帰ると寂しいなら、そう言って欲しいな」
「…………いっそ清々しいんだよ、お前は」
今からでも一緒に行くと言ってくれても構わないよ、とヴィオルムは笑う。
本気なのか巫山戯ているのか、全くわからない。
でもまあ、見送りには来て良かった。
ユーグレイには渋い顔をされそうだが、これくらいはしてやらないと。
桟橋に波が打ちかかる音がする。
青年は定期船を振り返った。
薄水色の船体は陽光を浴びながら揺れている。
運航に問題はなさそうだが、今日は少し波が高そうだ。
「アトリ」
小麦色の髪が舞い上がる。
ヴィオルムはアトリに向き直ると、軽く開いた手を差し伸べた。
求められるままその手を握ると、彼は確かに苦い顔をする。
僅かに下がった青年の視線の先。
手首に残る鬱血痕に気付いて、アトリは慌てて手を離した。
「私は、自棄になって帰るのではないよ。今は誘いを断られたとしても、今後どうなるかなんてわからない。君が来るのにもっと良い環境を整えておかないといけないしね。クレハも一緒に帰って来るなら尚更だ」
当然のことだろうと自信満々で言われて、色々突っ込む気力は失せてしまった。
まあ万が一どうしようもなくなったら、ヴィオルムのところで働くのも良いかもしれない。
彼の言う通り先のことなんて何一つわからないのだから。
「ま、無理せず頑張れよ」
「君もね。彼に愛想を尽かしたらいつでもおいで」
「…………ヴィオ」
急かすようなブザーの音。
定期船の窓から船員が手を振っている。
ごめん、と思わず口にしていた言葉は、ヴィオルムには届かなかったようだ。
彼は荷物を持つと、一瞬口篭った。
躊躇うように彷徨う視線は、意を決したようにアトリに向けられる。
何だろう。
「その、アトリ。君に手紙を送っても?」
「は?」
予想外の申し出に、呆気に取られたような声が出てしまう。
手紙?
外に身寄りのないアトリには縁のないものでいまいちピンと来ない。
それでも別に嫌な訳ではなかった。
単純に、わざわざ手紙なんて書いてくれるのかと思っただけだ。
ヴィオルムは子供のように不貞腐れた表情で、「それくらいは良いだろう!」と押し付けるように言い切る。
「君は、私の『友人』だよね? 友人に手紙を送るのは、別におかしいことじゃない。そうだろう?」
「ああ、うん。別におかしくない。いや、ヴィオが書いてくれんなら嬉しいよ」
存外可愛いことを言うものだと、アトリは笑う。
ヴィオルムは何故か言葉に詰まって唾を飲み込んだようだった。
彼はそのままふいと顔を逸らして歩き出す。
定期船に乗り込む青年にアトリは軽く手を振った。
いつか、ちゃんと謝んなきゃなと思う。
少なくとも、クレハのことは責任を取らなくては。
「……………………」
桟橋を離れて行った定期船は濃紺の波の中、あっという間に遠くなって行く。
海の匂いを吸い込んで、アトリは緩く首を振った。
やはりユーグレイともう一度話をしよう。
観測実験の終了まで待っていることはない。
大体ここまで彼の要望を聞き入れたのだから、多少はアトリの話を聞いてもらわなければ公平でないだろう。
風に遊ばれた髪を適当に直して踵を返す。
白い防壁。
閉じられていた門から人影が飛び出して来て、アトリは足を止めた。
「ああ、もう行ってしまいましたか……!」
人が入りそうなほどの大きさのキャリーケースをずるずると引き摺りながら、その人は諦め切れないように桟橋を見渡す。
いつも丁寧にセットされていた鳶色の髪は焦って来たからか、風に吹かれる前から乱れていた。
見慣れた白衣。
眼鏡のズレを直した彼は、アトリに気付くと何度か瞬きをした。
アトリさんと遠慮がちに名前を呼ばれる。
「ラルフさん、お久しぶりです」
皇国の研究員ではあるが、彼とは交流の機会があったお陰でそう悪い印象は抱いていない。
ラルフ・ノーマンはどこかほっとしたような表情で、「そうですね」と微笑んだ。
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