Arrive 0

黒文鳥

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10章

0.5

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 耳が痛いほどに、静かだった。
 何年も旅をしてようやく足を止めたかのような酷い疲労が、全身に纏わり付いている。
 幸い平衡感覚は正常なようだった。
 ユーグレイは頭を振って、一歩を踏み出す。
 抜け落ちそうな木の床。
 外れかけた窓枠。
 どれくらい目を閉じていたのか。
 辿り着いた最果ては、小さな部屋の形をしている。
 それが崩れ去る寸前であることは、曖昧に溶け出した細部を見れば明らかだった。
 ここはどこだと問おうにも、ここまで手を引いてくれた誰かの気配は既に消失していた。
 0地点、なのだろうか。
 ここが?
 波のように侵食する暗闇の中、ユーグレイは古いベッドの傍に膝をつく。
 
「…………アトリ」

 膝を抱えて丸くなっていたのは、確かにアトリだった。
 頬にかかる癖のない黒髪。
 薄らと骨の浮いた項は、あまりに頼りなく見える。
 色のわからない布に包まった彼は、明らかに幼い。
 まだ十にも満たない年頃だろうか。
 それでも、間違いなくアトリだ。

「起きてくれ、アトリ」

 触れたら壊れてしまうのではないかと、怖くなる。
 この幻想と同じように、輪郭から曖昧になって溶けてしまいそうだ。
 ゆらゆらと風景が揺らぐ。
 ユーグレイはそっとアトリの肩に手を置いた。

「…………っ」

 ぎゅっと縮こまったアトリは、自身の腕に額を押し付けてからゆっくりと顔を上げた。
 濡れたような黒い瞳に、ユーグレイが映る。
 ずっと、こんなところにいたのか。
 ぱちりと瞬きをしたアトリは不思議そうな顔で首を傾げる。
 
「迎えに、来た。アトリ、帰ろう」

 促すように手を差し出すが、彼はその手を見ただけだった。
 どうするべきなのかわからないらしい。
 ユーグレイに向けられる視線に、いつもの親しみはなかった。
 そうか、とただそれを受け入れることが出来た。
 ユーグレイが目を閉じて落ちた虚無を、アトリは全て視たのだろう。
 本来の姿を保てないのは、ここに至るまでにあまりに多くを失ったからだ。
 
「……ここにいては、駄目だ。君にもわかるだろう?」

「………………」 
 
 返答はない。
 警戒はされていないようだが頷きもしないところを見ると、状況どころか自分が誰かも覚えていないようだ。
 窓枠が滲んで、歪む。
 薄らと空間を照らす灯りが弱くなった。
 もう時間がない。
 多少強引にでもと、ユーグレイはアトリの背に手を回す。
 抱え上げようと力を入れた瞬間、その小さな身体に指先が埋もれた。
 崩れる。
 
「……っ!」

 ユーグレイは咄嗟に手を離してアトリの様子を窺う。
 苦痛を感じているような素振りはない。
 膝を抱え直した彼は、少し怯えた表情でユーグレイを見上げる。
 突然の挙動に驚いたようだ。
 すまないと謝ると、すぐにその感情は消えたようだった。
 ただ真っ直ぐに、見つめられる。

「アトリ、頼む。帰ろう」

 意識の脆いところから、呑まれていく。
 伝わらない。
 手遅れなのだろうか。
 ユーグレイの焦燥を、アトリは敏感に察したようではあった。
 何か言おうとして、彼は唇を噛む。
 そんな顔をさせたい訳ではなかった。
 戻れなくても、良いのだ。
 君の隣にいられるのなら、それだけで良い。
 ユーグレイは静かに目を閉じてから、微笑んだ。
 
「君を置いては行かない」

「…………?」

 怪訝そうに眉を顰めた彼の隣に、腰を下ろす。
 傍にあったはずのベッドは、もうどこにもなかった。
 静かだ。
 きっともうすぐ、何も見えなくなるだろう。
 不意にアトリが身動ぎをして、ユーグレイの方に身体を向けた。
 包まっていた布を少し広げて、伸ばされる腕。
 
「入れてくれるのか?」

 寒いから早くしろと言わんばかりの視線が返って来る。
 ユーグレイは苦笑して、その小さな身体を優しく抱きしめた。
 抵抗もなく腕の中に収まる彼に、「こうしていた方があたたかいだろう」と囁く。
 ああ、全く、君は。
 そうだ。
 ペアになったのは偶然だった。
 彼がそう言ったように、恐らくユーグレイの傷に寄り添ってくれる誰かは他にもいたはずだ。
 それでも、アトリだった。
 こうやって手を伸ばしてくれたのは、彼だった。
 
「君が、好きだ。アトリ」

 そっと額を合わせて、その黒髪に指を通した。
 胸に残るのは後悔ではなく、ただ切ないほどの愛情だった。
 こうして愛おしい人を抱いて終わることが出来るのなら、悪くはない。
 腕の中にいるはずのアトリの顔は、もう見えなかった。
 指先でそっと辿った唇に触れる。
 アトリは何も憶えていないだろう。
 それでも最期なのだから、これくらいは許して欲しい。
 重ねた唇に、温度はなかった。
 細い腕が、縋るように肩の辺りを掴む。
 同時に意識を押し潰すような耳鳴りが襲って来た。

「   」

 唐突に、アトリが暴れ出す。
 苦しいのかとその身体を抱え込むが、抵抗は一層激しくなる。
 手放すのは怖かったが、それでもあまりの力に腕を緩めた。
 ここにいる。
 君を一人にはしないから。
 錯乱しているのだろうと、ゆっくりそう声をかけた。
 けれどアトリはユーグレイの手を掴んで、急に立ち上がる。

「アトリ?」

 幼い手の感触ではない。
 きっと今、目の前にいるのは。
 いつもの、彼だ。

「ユーグ!」

 響いた声。
 視界は一瞬で暗転して。
 泡のように儚く、幻想が弾けた。
 




 
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