Arrive 0

黒文鳥

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10章

0.4

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 冷たい手に触れている。

 意識は半ば覚醒していたが、身体は強張ったまま動かなかった。
 何をしていたのだったか。
 ロッタと食事をしてアトリの元に戻って、それから。
 治療室は静かで、少女たちの気配は既にない。
 いつものように昏倒して、また数時間を無駄にしたのだろう。
 起きなくてはと思ったのに、椅子に腰掛けてベッドに突っ伏したまま指先一つ動かすことが出来ない。
 苦しいほどの脱力感。
 滅茶苦茶なことをしていると自覚はしなさい、と医者にも言われていた。
 本来セルであるユーグレイが、こんな頻度で魔術構築などしていればいずれ限界が来るとわかってはいる。
 ただ、それならそれで、良い。
 
「   」

 また意識が飛びそうだ。
 名前を呼びたかったが、喉は麻痺したように声を発することを拒む。
 辛うじて薄く開けた視界。
 アトリの白い指先に、少しだけ重なった自身の手が見えた。
 楽観的な思考は得意ではない。
 アトリは「死んでいない」だけだ。
 普通のやり方で、彼を取り戻すことなど出来るはずがないと知っている。
 だから、まだこれでは足りないのだ。
 彼がそうしたように、全て差し出さなければ。
 もしも。
 それでも手が届かないのならば、アトリがいるところまで堕ちて行きたかった。
 脳を締め付けるような耳鳴りがする。
 戻れなくて構わない。
 連れて行ってくれと言ったら、君は怒るのだろうか。
 ユーグレイは緩慢に瞬きをして、アトリの指先を見つめる。
 仕方がないだろう。
 こんなにも、ただ。
 
 愛おしいのだから。

 ぷつりと耳鳴りが止んだ。
 身体は制御を失ったまま、硬直している。
 何の音もしない。
 何の、音も?

「ーーーーーーーー」

 これは、夢だろうか。
 計測音がしない。
 それともユーグレイの聴覚がおかしいのだろうか。
 アトリの生命活動を計測しているはずの機器は、沈黙したままだ。
 何故。
 いや、異常があれば警報が鳴るはずだ。
 
「……ああ、そう。凄いね、君」

 囁くような声に、息を呑む。
 少し掠れてはいたが、それは間違いなくアトリの声だった。
 動かない視界の中、彼の手が不意に動いてユーグレイの手を握る。
 
「こんな無茶する人は、そうそういないよ。うん、まあ色々と手間が省けたけど、似たもの同士なのかな?」

 何の、話だ。
 心臓の音が煩くて、思考が安定しない。
 アトリ。
 目を覚ましたのか。
 
「都合の良い奇跡は用意してあげられないけれど、案内くらいはしてあげるよ。今回は、どうにも責任がありそうだしね」

「………だ、れだ」

 違う。
 話しているのはアトリではない。
 絞り出すように問いかけると、驚いたように誰かの気配が揺らぐ。
 夢にしてはやけに鮮明だ。
 顔を見たいと思ったが、頭を持ち上げる気力はなかった。
 身体が、重い。
 
「誰って、悪い魔法使いかな」

 面白がるような小さな笑い声に、悪意はない。
 何なんだ。
 本当に、何が起きている?

「覚悟がないならやめた方が良い。どうする?」

 一度は握ったユーグレイの手を離して、声は続ける。
 
「もう十分に手を尽くしたんじゃないかなぁ。これ以上は君の存在も危うくなる。ね、そこまでする必要はある?」

 所詮は他人でしょう、と優しく諭すように誰かが言う。
 明確に示された訳ではないが、それはアトリのことだろうと察せられた。
 悪い魔法使い、か。
 ユーグレイは強く奥歯を噛んだ。
 鉛のように重く強張った手を必死に持ち上げて、彼の手を掴む。
 声の主が何であっても構わない。
 その誘いが罠でも、別に良い。
 ただ、アトリのために出来ることがあるのなら。
 
「代償が、必要なら……、勝手に持って行ってくれ」

 惜しむものなど何もなかった。
 そう、と静かな返事がある。
 
「期待以上の言葉だね。大丈夫、対価は必要ないよ」

 ユーグレイの手を握り返して、誰かは「目を閉じて」と促した。
 言われた通りに目を閉じた瞬間。
 底のない暗闇を落ちて行くような感覚に襲われる。
 この苦痛は、何だろうか。
 命に形があるのなら、それを削ぎ落とされていくような。
 本能的な恐怖に開きかけた目を誰かが覆った。
 視たら危ないよ、と忠告される。
 
「ほら、ちゃんと握っていて。これは、アトリの手なんだから」

 柔らかく握られた手の感触。
 その触れ方は、他の誰でもなくアトリのものだった。


 
 
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