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黒文鳥

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終章

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 その後のラルフ・ノーマンの足取りは、今も掴めていない。
 皇国の研究院所属だというのは偽りだったようで、使節団の一員であることは確かだが動向については国としても組織としても関わりがないと主張されたそうだ。
 実際研究院乗り込みの手引きをしたのは使節団のイレーナだったらしく、何から何まで責任逃れの嘘という訳でもないだろう。
 表向きは、研究者個人が起こした誘拐事件。
 真相は不明だ。
 皇国でも行方を追ってくれているそうだが、カンディードとしてはもう動きようがないと言う。
 こちらは国でも何でもないからな、と悔しそうだったのは見舞いに来たベアだった。
 もっとも今回の一件で今後は防壁の出入りが厳しくなり、外部からの訪問は申請やら何やら面倒な手続きが倍増するらしい。
 今まで割と好き勝手に視察をしていた各国の使節団に関しても、制限がかけられるそうだ。
 手間を増やして申し訳ないような気もしたが、ベア曰く組織の性質上やりづらかっただけで本当は前々からそうしたかったのだとか。
 良い機会だと言うのも変だがな、と管理員は笑っていた。
 皇国の使節団は、結局この騒ぎで予定を繰り上げて帰国したそうだ。
 イレーナだけはこっそりと数日滞在を伸ばして観測実験を行ったようだが、大きな成果は得らなかったらしい。
 アトリが自室療養になる頃には、防壁はいつもの平穏を取り戻していた。
 さて一件落着だねと日常に戻れるかと言われると、まあそうではなかった訳なのだが。

「……しんどい」

 薄い毛布に包まったまま、アトリはぼやいた。
 丁度水を持って来てくれたユーグレイがベッドに腰掛けて、「そうか」と頷く。
 ぐしゃぐしゃになったシーツ。
 間接照明に照らされる寝室には熱っぽい空気が停滞している。

「水、浴びて来る」

 文字通り冷水に浸かりたい気分だ。
 ふわふわした身体を起こすと、呆れたような顔のユーグレイに肩を押された。
 
「何回目だ。いい加減風邪を引く」

 やめておけと言われて、アトリは仕方なくベッドに逆戻りする。
 わかってはいるが、でもだってと意味のない文句を口にしたくなるのは何故だろうか。
 駄目だ。
 思考まで馬鹿になっている気がする。
 苦笑したユーグレイから水を受け取って口に含む。
 やけに冷たい水が喉を滑り落ちていった。
 
「回復している証拠なんだろう? 寧ろそれくらいで済んで良かったと思うが」

「そーだけど、これいつ終わるんだって。本当、もう、おかしくなる!」

 ユーグレイは宥めるようにアトリの頭に手を置いて、「そうだな」と適当な返事をした。
 少し素っ気ない理由は問うまでもなく相応の我慢をさせているからだろう。
 アトリの不調は件のあれ、無茶な魔術行使に対する防衛反応だ。
 ただ普段のように強制的に絶頂するようなものではなく、ずっと纏わりつくような快感が続いていた。
 診察をしてくれたセナによれば、いつもの防衛反応を起こすほどの体力がないからだろうとのこと。
 けれど防衛反応が出たのは身体の機能が戻って来ている証でもある。
 出せる薬もないしパートナーもいるのだから適当に愉しめば良いじゃない、と半ば放置状態なのだ。
 確かに自分で触れば達することが出来る。
 ただ、執拗に欲が引かない。
 療養と言いつつ、自身を慰めるだけの生活をしている堕落ぶりだ。
 発情期の獣だってもう少しまともだろうに。

「まだ、駄目なのか?」

 ユーグレイの指先が、意図を持ってそっと項を撫でる。
 アトリは言葉に詰まって彼を見返した。
 今はしたくない、と言ったのはアトリだった。
 ペアで親友で、数日前にちゃんと恋人になったばかりのユーグレイを拒否する理由を説明するのは正直難しい。
 彼が少しでも踏み込んで来たら、流されてしまえば良いかと思っていたくらいだ。
 
「アトリ」

 涼しい顔をして意外と強引なユーグレイは、それでもここまでアトリの意思を尊重してくれた。
 曖昧にするのは限界だ。
 毛布を握りしめたまま、アトリは一瞬視線を落とした。
 
「君が嫌なのであれば、無理強いをするつもりはない」

「嫌な訳ないだろ。そうじゃ、なくて」

 何なら、壊れるくらいに滅茶苦茶にして欲しい。
 自分の手では物足りなくてずっと苦しいのだから、さっさと抱いて欲しいと言えば良い。
 でも。
 ようやくユーグレイの想いに応えることが出来たのだ。
 どんな刺激でも呆気なく果ててしまうような状態で彼を受け入れるのは、勿体ないと思ってしまった。
 ちゃんとユーグレイを感じて、その熱だけを味わいたい。
 要するにそれだけのことで。
 いや、うん、これ説明出来る気がしないんだが。

「……怖いのか?」

 ユーグレイの碧眼に何故か痛切な悔恨が滲んだ。
 何でお前がそんな顔すんの、と問う間もない。
 項に触れていた指先が離れて行く。

「触れることが出来なくても僕は構わない。君が隣にいてくれるのなら、それだけで十分だ」

「え゛、何で!?」

 ちょっと感動的な言葉だったのに、それどころじゃなくユーグレイの胸倉を掴んでしまった。
 アトリは勢いのまま首を振る。
 触れることが出来ないなんて、無理だ。
 そもそも何故「怖いのなら」なんて話になる?

「酷いことを、されただろう。アトリ」

「……っ」

 確信を持ったユーグレイの言い方に、アトリは小さく息を呑んだ。
 問い返すまでもない。
 あの時。
 連れ去られた研究院でラルフにされたことは、確かに拷問に等しかった。
 それが全く何の傷にもなっていないと言うのは流石に無理がある。
 ああ、だからユーグレイはずっと待っていてくれたのか。

「されたけど、そうじゃなくて」

「そうじゃなくて……、何だ?」

 優しく先を促す呼吸。
 駄目だ、これは。
 アトリは掴んでいた胸倉を引き寄せて、ユーグレイに抱き付いた。
 抱擁と言うよりは半ば捕獲に近いが、心地の良い彼の体温に身体の芯がじわりと溶けるのがわかった。
 もう、どうしようもない。

「だからぁ! 恋人になって初めてすんのに、防衛反応とかあったら邪魔だろ!?」
 
 これは一体何の罰ゲームなのか。
 言い切ったアトリに、ユーグレイは呆気に取られたような顔をして。
 それから堪え切れなかったのか、静かに笑った。
 安堵したようにその身体から力が抜けるのがわかる。
 ごめん、大丈夫と彼の背中を叩く。
 どれほどの暴虐に晒されたのだとしても、ユーグレイが手を離さないでいてくれるのなら。
 別に、何てことはないのだから。

「そうか。それならこれは必要な『治療』だ。初めては、まだ取っておけば良い」

 物は言い様か。
 その手の『治療』は得意だもんな、と言い返した口はあっという間に塞がれた。
 ユーグレイの手に後頭部を押さえられて、閉じた瞼の裏が白くなる。
 我慢した分だけ反動が大きく、酷く気持ちが良い。
 これもしかしてちょっとまずいのでは、と思った気はしたが今更だ。
 後はもう、夢中だった。


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