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その先は聞かない
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しおりを挟む「朱音ちゃん、あんな男のために昨日から辛そうな顔してたんだ」
営業車に戻って助手席に乗り込んだ私の頬に伸びてくる大きな手。顔半分がすっぽりと包まれてしまう。炎天下に置かれていた車内はうだるほど暑く、友藤さんが乗ってすぐにエンジンをかけてエアコンを入れていたけど風は生ぬるい。
いつもなら「セクハラやめてください」なんて冷たく言って手を振り払えるのに、今日はなんだかそれが出来ない。
『朱音!これがお前の仕返しなのかよ!』
契約の解除通告書を送ると言って立ち上がった友藤さんに支えられるようにして、その場から立ち去ろうとした私に浴びせられた賢治の怒声。
――――――仕返し?
一体何の話か全くわからなかった。
『お前のせいで俺は営業から総務なんて地味な部署に飛ばされて、ヒステリックな女のお守りまでさせられるハメになったんだぞ! 三ヶ月も付き合って一度もヤらせなかったくせに寝取ったなんて噂を否定もせず逃げやがって! おまけに契約解除だと? ふざけんな!』
まだスパークルにいる時から、悪意のある噂を否定もせず私を助ける素振りすら見せなかった賢治に未練など微塵もなかった。
さらに噂のせいで異動になったことを私のせいにすることも、自分で止められない美香のことをヒステリック女呼ばわりすることも、付き合っていた当時の事情を他人の前で暴露することも、最低過ぎてなぜこの男の唯一になりたくて悩んでいたのか当時の自分に半日かけて説教したいくらいだった。
仲の良いイケメン同期に告白されて舞い上がって付き合い出した自分の見る目の無さを心から恥じた。
それでも、ただでさえ自分の独占欲の強さに悩んでいた私にとって、恋愛に若干二の足を踏む気持ちにさせた出来事だったのは事実。
しばらく恋愛はお休みでいいかもと思っていたところに転職してクズ男の友藤さんと出会い、女性と最低な付き合い方をしている彼を見ていたら、この人と真逆の未経験の人ならいいじゃないかと色々考えた末『Dの男』を探そうと決めた。
それなのに……。
『以前何があったのかは存じませんが、うちの大事な職員が不当に傷付けられた相手は信用出来かねます』
いつもチャラくてへらへら笑っている友藤さんが見せた、堪えきれないような怒りの顔。私を守るように抱き寄せてくれた力強い腕。
私のために怒ってくれた友藤さんに不覚にもドキドキしてしまった。こんなのずるい。
優秀な営業の友藤さんなら、もっと穏便に対処出来たはずなのに。ただの同僚を守ろうとしたにしては行き過ぎた行動に、疼いてはいけない何かがじくじくと痛みを覚える。
なぜか悔しそうにきゅっと引き結ばれた唇に、震えを抑え込むかのように握られた拳。
八階から下りるエレベーターの中で見た友藤さんは、私の知っている彼ではなかった。
さらに帰り際、ビルのエントランスにある総合受付の可愛い女性から連絡先を渡されていた時。
『ごめんね。俺好きな子いるから受け取れない』
爽やかな笑顔を見せつつも、彼女を断固拒絶した友藤さんが振り返って私を見つめた。
まさかお誘いを断ると思っていなかった私は腰が抜けるほど驚き、槍でも降ってくるのかと慌てて頭を庇いながら空を見上げた。そんな私を見て苦笑した友藤さんの背後にある空は、抜けるような夏の青空だった。
何かおかしなものでも食べたんだろうか。
さっきスパークルで出されたアイスコーヒーに毒でも入ってた?でも確か彼は一口も飲んでなかった気がする。
職場の同僚だろうと人妻ナースだろうと誘われればおいしく頂いてきた来る者拒まずでお馴染みの友藤さんが、あんな可愛い受付嬢のお誘いを断るなんて、天変地異の前触れか病気以外の何物でもない。
一体どうしたというんだろう。今私の頬に手を添えている男は、何を考えているんだろう。
元々何を考えているのか読めない男だったけど、『あんな男のために昨日から辛そうな顔してたんだ』と言う友藤さんのほうが酷く辛そうな顔をしている。
もしかして、同情してくれているんだろうか。
賢治と美香の発言を聞けば、私がなぜあの会社を辞めるに至ったのか全て理解出来ただろう。そんな場所にのこのこ仕事をしに行かざるを得なかった私を不憫に思っているんだろうか。
だとしたらいらぬ世話だと教えてあげたい。
元々賢治に未練はなかったのが今日でさらにキッパリ忘れることが出来そうだし、なんだかんだ美香もうまくいってなさそうだと思えばザマーミロと性格の悪いことを考える余裕がある。
私が一番心を痛めていた噂で信用を失った元同僚達との関係は、帰り際全てを聞いていた田町さんが私に『あんな噂に踊らされて嫌な態度取ってごめんね』と申し訳無さそうに謝ってきてくれたことで今後改善が見られるだろう。SNSのIDは変わっていないと言っておいたので、きっとこれから連絡を取ったりも出来るはず。
私は今となってはむしろここに来られて良かったとすら思っている。
契約については少し心配だけど、そこはさっき原田部長が『必ず悪いようにはしないから』と約束してくれたので信じて任せることにした。
だから友藤さんが私にそんな風に同情したり不憫に思って心を痛める必要はないのだ。
もしかしたらさっきの受付嬢からの誘いを断ったのも、私が惨めな思いをしている時に遊び相手とイチャイチャする予定を入れるのは申し訳ないと思ったから?
そうだとしたら逆に申し訳なくって、ぎゅっと胸が引き攣れるように痛んだ。
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