ひとつ屋根の下

瑞原唯子

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第16話 温度差

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「どうぞ、こちらです」
 一通りのボディチェックを受けたあと、遥はスーツの乱れを直し、公安の男性に案内されてスイートルームに入った。
 落ち着いた色調でまとめられたゆとりのある空間が、目の前に広がる。華美な装飾はなく思ったよりもずっとシンプルだが、それでも床や調度品など至るところに上質さは感じられた。
 正面のリビングルームに足を進めると、金髪碧眼の男がソファで脚を組んでいるのが見えた。彼は新聞を広げていたが、遥が声を掛けるより先にこちらに気付き、きれいな顔をパッとかがやかせて立ち上がる。
「久しぶりだな」
「元気そうだね」
「ああ、おまえも」
 その男——武蔵はこの三年半ぶりの再会を心から喜んでいるようだ。無邪気なまでに気持ちを隠そうとしていない。座れよ、とブランクを感じさせない気安い口調で、向かいのソファを示す。
 しかし、遥はそれほど無邪気ではいられなかった。懐かしさよりも、緊張、嫌悪、不安などの暗い感情が胸に渦巻いている。それでも平然とした表情と態度を崩さず、促されるまま腰を下ろした。

 今日は七月二日である。
 交渉の結果、武蔵を橘の屋敷に迎え入れる日取りは、要望どおり七月三日の午後に決まった。ただ、七月一日に来日する予定は動かせなかったため、三日間だけホテルに滞在してもらっているのだ。
 遥は事前に会っておこうと考えて面会を申し入れた。特に話したいことがあるわけではないが、心の準備をしておきたかったのだ。七海の前でみっともない姿をさらすことのないように——。

「ちょっと大人びてきたな」
 武蔵はやわらかなソファにゆったりと身を預けると、遥を観察して目を細めた。まるで久々に会った息子の成長を喜ぶ父親のように。遥は内心でムッとしながらも眉ひとつ動かさず、ぶっきらぼうに言い返す。
「もう大人だけど」
「いくつになった?」
「二十二」
 そう答えると、まだまだ若いなと苦笑された。
 武蔵はもう三十代後半になっているはずだ。七海が幻滅するくらいくだびれていればよかったのに、いまも初めて会ったときと変わらない。まだ二十代といっても十分に通用するだろう。
 変わったのは髪と瞳くらいだろうか。当時は日本で逃亡生活を送っていたため、目立たないように髪も瞳も黒くしていたのだ。いまは華やかにきらめく金髪にサファイヤのような碧眼という、彼本来の姿をしている。
「みんなは元気にしてるか」
 彼は背もたれから体を起こして声をはずませる。
 だが、遥は素直に答える気にはなれなかった。
「みんなって誰のこと?」
「やけに突っかかるな」
「曖昧だから訊いただけ」
「いまごろ反抗期か?」
「かもね」
 投げやりに答えたあと、その大人げなさを自覚して溜息をついた。
「じいさんは元気すぎるくらい元気でバリバリ仕事してる。澪は誠一と別れる気配もなく第一子妊娠中。メルは中学三年生で友達もできて成績優秀。七海は高校一年生で僕の出身校に進学してる」
「そうか……澪が……」
 武蔵は何とも言えない複雑な面持ちでそうつぶやくと、口もとを押さえながらうつむいていく。澪のこと以外はまるで頭に入らなかったようだ。彼にとってはそれだけ衝撃だったのだろう。
「まだ澪のことが好きなんだ?」
「感傷にひたるくらい許せよ」
 以前の遥ならあきれていたと思うが、いまは彼の気持ちがわかるので何も言えない。たとえあきらめたとしても、そう簡単に想いを消すことはできない。自分ではどうしようもないのだ。
 故郷にいるあいだに結婚はしなかったのだろうか。恋人はいなかったのだろうか。気になったものの、藪蛇になりそうで尋ねることは躊躇われた。すこし思案をめぐらせてから口を開く。
「交渉が終わったら故郷に帰るの?」
「いや、できればこっちで暮らしたいと思ってる。姉にメルローズのことを頼まれてるしな。それにいまさらだけど七海との約束も守りたい。いつでも会えるし、相談にも乗る、遊びにも行こうって……あのとき言ったんだ」
 あのときというのは、三年半前、武蔵が故郷に帰ると決まる直前のことだろう。結果的に嘘をついたことになってしまい、七海にも号泣されて、いたたまれない思いをしたことはわかっている。だが——。
「七海はもう小さな子供じゃない」
 わずかに目を伏せて告げる。その声は自分でも驚くほど冷ややかだった。
 しかし、告げられた武蔵のほうがもっと驚いただろう。遥を見つめたまま暫しきょとんとしていたが、やがて困惑ぎみに顔を曇らせ、納得がいかないとばかりに口をとがらせる。
「俺はもう必要ないって?」
「それは七海に訊いて」
 現在の彼女が何を望むのかは遥にもわからない。ただ、幼かったあのころと同じでないのは確かだ。きっとそこまで考えが及んでいないのだろうが、わざわざここで教えてやることでもない。
 武蔵は眉をひそめるが、やがて気を取り直したように唇に笑みをのせる。
「そうだな、あした七海に会えるんだしな」
「…………」
 あしたなんか永遠に来なければいいのに——遥は素知らぬ顔を装ったままそんな乱暴なことを思う。もちろん実現不可能なことくらいわかっている。それでも何かに縋らなければ平静を保っていられなかった。

「まだテスト残ってるんだけど」
 家に戻り、七海の部屋に入れてもらおうとしたところ、怪訝な顔でそう言われてしまった。試験前は二人で過ごさないと決めたのは遥だ。だが、今日はそれを曲げてでも彼女と過ごしたかった。
「ちょっとだけだから」
「……わかった」
 彼女は渋々ながらも了承してくれた。
 遥は部屋の中に足を進める。学習机には教科書とノートが広げられていた。真面目にテスト勉強をしていたのだろう。すこし申し訳ない気持ちになりながらも、ベッドに腰を下ろす。
「何か話があるの?」
 七海は隣に座ると、答えを求めるようにじっと見つめてきた。その無防備な表情と仕草は自分にだけ向けられるものだ。他の誰にも許したくない——遥は横目で見つめ返したままふっと微笑む。
「七海、あした結婚しようか」
「……は?」
「十六歳になるだろう」
「無理に決まってんじゃん!」
「どうして?」
「だって……んっ……?!」
 混乱したようにあたふたとする彼女の後頭部に手を添えて、口づける。自分で理由を問いながら聞きたくないと思ってしまった。吐息ごと奪いながらベッドに押し倒し、長袖Tシャツの裾から手を差し入れて、なめらかな肌に這わせる。
「んんっ……ちょ、あしたテストあるんだって!」
 七海は身をよじりながら訴えた。
 彼女を困らせてしまうことは十分すぎるほどわかっているし、保護者の責任を放棄した行動であることも自覚しているが、どうしても彼女を全身で感じたかった。どうしても彼女に受け入れてほしかった。
「ごめん……やめられない……」
 口をついたのは、思いのほか情けない声だった。
 顔を見られたくなくて隠すように白い首もとにうずめ、愛撫を続ける。そのときにはもう彼女の抵抗はやんでいた。あきらめたのか、流されたのか、同情したのか——頭の片隅にちらりと疑問がよぎるが、すぐに熱い吐息まじりの声をもらし始めた彼女に夢中になり、それ以外のことは何も考えられなくなった。
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