1 / 10
1.男を拾った
しおりを挟む
寒い日の夜だった。
近所にある三つのコンビニを数日おきのローテーションで訪れる敬太がその日、一昨日も来た店を再び訪れたのは、気まぐれだった。
一昨日買った新作のレジ横チキンが美味しかったから、少し高いがもう一回くらい食べたい。その程度の理由。
だから、店の前の車止めに座っている男へ声を掛けたのも、気まぐれだ。
「寒くねーの?」
横に立って見下ろした男は、憔悴した様子を隠しもしていなかった。
肩を落とし背中を丸め、項垂れた頭は微動だにしない。風もないので乱れた黒髪が揺れることもない。
コートの裾がコンクリートの地面に広がっているのも頓着していなかった。
「……?」
横合いから突然かけられた声に、男は緩慢な動きで顔を上げはしたが、ぼんやりとしていて返事はない。
ぼさぼさの黒髪が重たく垂れた隙間から、暗く翳った瞳が見え隠れする。
その男はコンビニの建物の前、三台分ある駐車場の車止めコンクリートブロックのひとつに腰掛け、ぼうっとしていた。
比較的治安は良いとされるこの地域でも、夜になればだらしない格好の者たちがたむろする光景は珍しくない。だから敬太も最初はその横を素通りして店に入った。
無事目的のチキンを一つと、今夜の晩飯を調達して店を出る。
左腕に下げたコンビニ袋がガサガサ言うのも厭わず、外気で冷えそうになった手をジャケットのポケットに突っ込みながら一歩踏み出して、座り込む男が目に留まった。
男は店に背を向けたまま、さっき通り過ぎたとき見たのと全く同じ姿勢でそこにいた。
横に立ってみる。ぴくりとも反応しない。
この辺に群れをなすガラの悪い連中なら近づくだけでガンを飛ばされ、横に行こうものなら軽い恫喝を吐かれるものだが、この男は死んでいるのかと思うほど動かない。
そもそも一人きりで、こんなところで萎れている時点で変だ。
ちらりと首だけで後ろを伺うと、自動ドアのガラスの向こうで店員がレジから身を乗り出しているのが見えた。遠目にも、迷惑そうな顔をしているのが分かる。
もしかしたらこの男は、敬太が思うより前からずっとここにいるのかもしれない。このまま放置しておけば、店員に声を掛けられるなり通報されるなりで排除されるのだろう。
だから、というわけではない。
あくまで気まぐれだ。
もし危険な気配を感じたら、自慢の脚力で全力で逃げるつもりだった。
「こんなとこにいたら風邪ひくかもよ」
寒くないのかという問いにすら反応しない男に、なぜさらに構おうと思ったのかは後から考えても謎だ。
でもそのときは何も考えていなかったし、何も不思議に思わなかった。
そうするのが当然のような気がした。
男は、敬太の言葉が何秒も遅れて届いたような反応をした。
コートに包まれた腕を少し擦り、また俯く。返事をする気はやはりないらしい。
もしかしたら体調不良かなにかで動けなくなっているのかと思っていたが、その様子では緊急事態というほどではなさそうだった。
「なにがしたいの、あんた」
次の問いはとても抽象的になった。
敬太自身もなにか深く考えて言ったわけではない。だが、それには返事があった。
「……やさぐれて、みたくて」
「は?」
「コンビニの前でこうして、しゃがみこんで、タバコを吸ったり、大声で笑ったりしてみようと思って。でもタバコは、どれを買えばいいかわからなくて」
口がきけないかもしれないと思っていたとはおくびにも出さず、敬太は男の言葉を受けて考える。
タバコが買えず、一緒にたむろする相手もいないので、一人でここにいたのか。「やさぐれている」っぽい姿で。
それがおかしくて、敬太は吹き出すように少しだけ笑った。
「そういうことなら待ってろ」
さっき買い物をしたばかりのコンビニに取って返す。
男の視線を背中に感じながら店内を物色し、さっさと会計を済ませて品物を剥き出しで持ったまま外へ出た。
「これやるよ」
座り込んだままの男の顔の前にかざしたのは、店の棚にある中で一番安いカップ酒だった。
「……?」
男が両手で包むようにカップを受け取るのを見届け、開け方を指示する。プラスチックの上蓋を取って、プルタブを引っ張っぱる動きにも違和感はなかった。
「いいトシの男が一人でやさぐれたいんなら、カップ酒だろ」
敬太の偏見に満ちた言葉に反論することなく、男は小さく頷いてカップに口をつける。
「……」
「どうだ?」
「おいしい、というわけではない……」
苦いものが混じった男の声に、敬太は今度こそ遠慮なく声を上げて笑った。
「当たり前だろ、酔うためだけの酒なんだから」
その後もちびちびと美味くもない酒を舐める男に、うちに来るかなんて言ってしまったのも、気まぐれだ。
後先のことを考えないのは敬太の悪い癖であり、美徳でもあった。
ギシギシとやかましい音を毎段律儀に立てる安アパートの階段を、二人で上る。
敬太が男を家に招いたことに脈絡は全くなかった。敬太自身が、自分で言ったことに驚いたくらいだ。
だから敬太が歩きはじめた時、男が着いてこなかったらそれまでだと思った。
しかし男は敬太の後ろを追ってきた。スニーカーの踵を潰して引きずりながら歩く敬太のあとを、規則正しいコツコツという音がついてくる。
駅から遠く、大通りからは何本も小道を横切った先、築数十年のボロアパートの二階に敬太の部屋はある。
六畳一間に男の一人暮らし、当然部屋は口が裂けても綺麗とは言い難い状態だが、生ものやゴミが散乱していないだけマシだと思っている。
鍵を開けて中に入り、大きく玄関扉を開けてやると、戸惑ったように立ち尽くしていた男が慌てて入ってきた。ついてきてしまった以上、深夜に近いこんな時間に廊下で突っ立っていられても困る。
廊下に散らばる紙ゴミや散らかした衣類を足で端に寄せながら歩き、拡げた折りたたみテーブルにコンビニ袋を置く。
中から弁当とチキンを出して、温め直すほど冷めていないことに少しホッとした。
「座れよ」
またも部屋の入口に立って呆けている男に声を掛け、テーブルの反対側を顎で示す。
カーペットも座布団もないフローリングの上に男が正座したのを確認して、箸を袋から出し、弁当の蓋を開ける。
ゴマの掛かった白米を一口含んだところで、気の抜けたぐうという音が狭い室内に響いた。
男を見る。男も敬太を見ていた。
二人の視線が男の腹へ向かい、タイミングよくまたあの音が鳴った。
「なんだあんた、腹減ってたのか」
腹が鳴き出すまで放置するなんて、子供のようだ。
男は深く俯いてしまった。伏せられる前の顔は赤くなっていた気がする。
敬太は素早く自らの腹具合と食事量を計算し、ミニキッチンに伏せてあった滅多に使わない茶碗と皿を持ち出した。
弁当のご飯を茶碗に半分よそい、色とりどりのおかずからいくつかを皿に盛る。チキンを手に取ったときはかなり躊躇したが、紙袋の点線にあわせて柔らかい肉を割り裂いて皿に載せた。ちょうど二等分にはならなかったが、文句を言われる筋合いはない。
「ほら、食え」
皿と茶碗を押し出し、キッチンの端に転がっていた未使用の割り箸を渡す。
ついでに冷蔵庫から取り出したビールの缶を添えてやると、そちらは手のひらを見せて拒否されたので自分で開ける。
男の方を見ずに敬太は食べ始めた。
男はしばし箸袋を握ったまま動かなかったが、小さな声で「いただきます」とつぶやいて茶碗を手に取った。
少しずつゆっくり食べる姿が、いかにも久方ぶりの飯を噛み締めて味わっているようで、敬太の心になんとも言えない優越感を満たす。
この男を連れ帰ったことに、理由はないと思っていた。
しかし毎日生活に追われ、出口のないぎりぎりの暮らしをするうち、なにかを見下して心の安寧を得たいと思い始めていたのかもしれない。
途方に暮れた様子の男の存在は、敬太にとって都合がよかった。ただそれだけだ。
(これが偽善と呼ばれるものでも、誰にも文句は言えないはずだ)
きれいに箸を持つ整った手をした男を眺めながら、敬太はビール缶を傾ける。
「行くとこないのか、あんた」
一口分しかないきんぴらごぼうを摘んだ男が、はっと顔を上げる。
前髪で隠れた顔の色は確認できなかったが、彼の目が縋るように敬太を見つめている想像はかんたんにできた。
「しばらくここにいるか」
なにもかも気まぐれの夜。
ボロアパートの小さな部屋に、名も知らぬ男が居候することになった。
男は名をマツリといった。
漢字を説明されたが、見たこともない字で敬太には覚えられそうにない。苗字なのか名前なのかすら訊ねなかった。そんなことは重要ではないからだ。
マツリは陰鬱な表情と重たい前髪、猫背で言葉少なで、近寄りがたい雰囲気を持ってはいるが浮浪者には見えなかった。
嫌な匂いはないし、服もぼろではない。
「あんた、家は?」
「……」
自分のことを話そうとしないマツリには、なんらかの事情がありそうだった。
黙ったまま俯いているマツリの様子を注意深く観察する。
「帰れないのか。借金?」
マツリが首を振る。
「ヤクザとかケーサツに追われてる?」
気まぐれでこの男を家に置くことにしたが、さずがに警察沙汰や面倒ごとはごめんだ。
だがこれにも否定が返された。
「ふーん。じゃあいいや」
おもちゃをポイと手放すように敬太が質問をやめると、マツリがぱっと顔を上げた。
「聞かないの……?」
乱れた前髪の向こうに、不思議そうな表情が覗く。
「曰く付きは家に置けないけど、そうじゃないんならいいよ。今日のメシはおごってやるけど、明日からは折半な」
きれいになった皿と弁当箱、使った箸を回収して席を立つと、マツリの視線が追いかけてきた。
怯えた気配は消えていて、その様子がまるで野生動物を手懐けたかのようでなんだか面白い。
「とりあえずシャワー浴びてこい」
タオルを渡して浴室を指差すと、猫背の男は大人しく従った。
ボロアパートのシャワーはお湯のカランをひねっても妙にぬるくて、寒い冬は残念な気持ちになるが、いち入居者の敬太にはどうすることもできない。
もしマツリが文句を言ったら叩き出してやろうと思っていたが、出てきた男は不満を漏らすことはなかった。入れ違いにシャワーを浴びる。
烏の行水ですぐに出ると、マツリは先ほどと同じ場所にちょこんと座っていた。
心なしか戸惑った空気を感じる。
「服、やっぱ小さいな。……ムカつく」
マツリが着ていた服はまとめて洗濯機に入れてしまったあとだ。ワイシャツなんて洗ったことがないので作法はわからないが、汚れが落ちればなんでもいいだろう。
その代わりに、先日特売で買ったスウェット上下と新品の下着を出してやった。
特に指示しなかったが、ちゃんと着られたようだ。どう見ても肩が狭いし、手首と足首が丸出しになっているので着丈が合っていないのだろうが、これ以上大きい衣類はない。
「あんたはそこで寝ろ。寒ければこれかけとけ」
折りたたみテーブルを片付けたスペースに自分の布団を敷き、押し入れの奥に入れてあった予備の布団を窓の手前のフローリング部分へ押し込むように延べる。
しばらく日干ししていないので湿っぽい気はするが、カビてはいないはずだ。上掛けは夏用なのでブランケットを一枚放った。
相手の意見も聞かず電気を消すと、マツリは大人しく布団へ横になったようだった。しばらくゴソゴソと音がしていたが、そのうちそれも止んだ。
暗闇に自分以外の存在が感じられるのは、いつぶりのことだろう。
敬太は今更ながら緊張と後悔に苛まれていた。
よく考えれば、名前すら曖昧な素性のよくわからない男を拾って家に上げ、寝床さえ与えるなんて正気の沙汰ではない。
もしマツリが犯罪に躊躇しない性質の男だったら、金目のものを奪われ命すら危ういかもしれない。
そこまで考えて、敬太は思い直した。
盗みをはたらくつもりなら、敬太がさっき風呂に入っている隙に逃げ出しているだろう。そもそも金目のものなどこの家にはない。いっそ悲しいほどに。
そしてマツリがもし敬太を殺すつもりなら───。
(そのときは、そのときか)
廊下の方へ寝返りを打つと、敬太の意識はすとんと落ちる。
なんの警戒もなく寝息を立て始めた家主を、鈍く光る瞳が暗闇の中からしばらく見つめていた。
近所にある三つのコンビニを数日おきのローテーションで訪れる敬太がその日、一昨日も来た店を再び訪れたのは、気まぐれだった。
一昨日買った新作のレジ横チキンが美味しかったから、少し高いがもう一回くらい食べたい。その程度の理由。
だから、店の前の車止めに座っている男へ声を掛けたのも、気まぐれだ。
「寒くねーの?」
横に立って見下ろした男は、憔悴した様子を隠しもしていなかった。
肩を落とし背中を丸め、項垂れた頭は微動だにしない。風もないので乱れた黒髪が揺れることもない。
コートの裾がコンクリートの地面に広がっているのも頓着していなかった。
「……?」
横合いから突然かけられた声に、男は緩慢な動きで顔を上げはしたが、ぼんやりとしていて返事はない。
ぼさぼさの黒髪が重たく垂れた隙間から、暗く翳った瞳が見え隠れする。
その男はコンビニの建物の前、三台分ある駐車場の車止めコンクリートブロックのひとつに腰掛け、ぼうっとしていた。
比較的治安は良いとされるこの地域でも、夜になればだらしない格好の者たちがたむろする光景は珍しくない。だから敬太も最初はその横を素通りして店に入った。
無事目的のチキンを一つと、今夜の晩飯を調達して店を出る。
左腕に下げたコンビニ袋がガサガサ言うのも厭わず、外気で冷えそうになった手をジャケットのポケットに突っ込みながら一歩踏み出して、座り込む男が目に留まった。
男は店に背を向けたまま、さっき通り過ぎたとき見たのと全く同じ姿勢でそこにいた。
横に立ってみる。ぴくりとも反応しない。
この辺に群れをなすガラの悪い連中なら近づくだけでガンを飛ばされ、横に行こうものなら軽い恫喝を吐かれるものだが、この男は死んでいるのかと思うほど動かない。
そもそも一人きりで、こんなところで萎れている時点で変だ。
ちらりと首だけで後ろを伺うと、自動ドアのガラスの向こうで店員がレジから身を乗り出しているのが見えた。遠目にも、迷惑そうな顔をしているのが分かる。
もしかしたらこの男は、敬太が思うより前からずっとここにいるのかもしれない。このまま放置しておけば、店員に声を掛けられるなり通報されるなりで排除されるのだろう。
だから、というわけではない。
あくまで気まぐれだ。
もし危険な気配を感じたら、自慢の脚力で全力で逃げるつもりだった。
「こんなとこにいたら風邪ひくかもよ」
寒くないのかという問いにすら反応しない男に、なぜさらに構おうと思ったのかは後から考えても謎だ。
でもそのときは何も考えていなかったし、何も不思議に思わなかった。
そうするのが当然のような気がした。
男は、敬太の言葉が何秒も遅れて届いたような反応をした。
コートに包まれた腕を少し擦り、また俯く。返事をする気はやはりないらしい。
もしかしたら体調不良かなにかで動けなくなっているのかと思っていたが、その様子では緊急事態というほどではなさそうだった。
「なにがしたいの、あんた」
次の問いはとても抽象的になった。
敬太自身もなにか深く考えて言ったわけではない。だが、それには返事があった。
「……やさぐれて、みたくて」
「は?」
「コンビニの前でこうして、しゃがみこんで、タバコを吸ったり、大声で笑ったりしてみようと思って。でもタバコは、どれを買えばいいかわからなくて」
口がきけないかもしれないと思っていたとはおくびにも出さず、敬太は男の言葉を受けて考える。
タバコが買えず、一緒にたむろする相手もいないので、一人でここにいたのか。「やさぐれている」っぽい姿で。
それがおかしくて、敬太は吹き出すように少しだけ笑った。
「そういうことなら待ってろ」
さっき買い物をしたばかりのコンビニに取って返す。
男の視線を背中に感じながら店内を物色し、さっさと会計を済ませて品物を剥き出しで持ったまま外へ出た。
「これやるよ」
座り込んだままの男の顔の前にかざしたのは、店の棚にある中で一番安いカップ酒だった。
「……?」
男が両手で包むようにカップを受け取るのを見届け、開け方を指示する。プラスチックの上蓋を取って、プルタブを引っ張っぱる動きにも違和感はなかった。
「いいトシの男が一人でやさぐれたいんなら、カップ酒だろ」
敬太の偏見に満ちた言葉に反論することなく、男は小さく頷いてカップに口をつける。
「……」
「どうだ?」
「おいしい、というわけではない……」
苦いものが混じった男の声に、敬太は今度こそ遠慮なく声を上げて笑った。
「当たり前だろ、酔うためだけの酒なんだから」
その後もちびちびと美味くもない酒を舐める男に、うちに来るかなんて言ってしまったのも、気まぐれだ。
後先のことを考えないのは敬太の悪い癖であり、美徳でもあった。
ギシギシとやかましい音を毎段律儀に立てる安アパートの階段を、二人で上る。
敬太が男を家に招いたことに脈絡は全くなかった。敬太自身が、自分で言ったことに驚いたくらいだ。
だから敬太が歩きはじめた時、男が着いてこなかったらそれまでだと思った。
しかし男は敬太の後ろを追ってきた。スニーカーの踵を潰して引きずりながら歩く敬太のあとを、規則正しいコツコツという音がついてくる。
駅から遠く、大通りからは何本も小道を横切った先、築数十年のボロアパートの二階に敬太の部屋はある。
六畳一間に男の一人暮らし、当然部屋は口が裂けても綺麗とは言い難い状態だが、生ものやゴミが散乱していないだけマシだと思っている。
鍵を開けて中に入り、大きく玄関扉を開けてやると、戸惑ったように立ち尽くしていた男が慌てて入ってきた。ついてきてしまった以上、深夜に近いこんな時間に廊下で突っ立っていられても困る。
廊下に散らばる紙ゴミや散らかした衣類を足で端に寄せながら歩き、拡げた折りたたみテーブルにコンビニ袋を置く。
中から弁当とチキンを出して、温め直すほど冷めていないことに少しホッとした。
「座れよ」
またも部屋の入口に立って呆けている男に声を掛け、テーブルの反対側を顎で示す。
カーペットも座布団もないフローリングの上に男が正座したのを確認して、箸を袋から出し、弁当の蓋を開ける。
ゴマの掛かった白米を一口含んだところで、気の抜けたぐうという音が狭い室内に響いた。
男を見る。男も敬太を見ていた。
二人の視線が男の腹へ向かい、タイミングよくまたあの音が鳴った。
「なんだあんた、腹減ってたのか」
腹が鳴き出すまで放置するなんて、子供のようだ。
男は深く俯いてしまった。伏せられる前の顔は赤くなっていた気がする。
敬太は素早く自らの腹具合と食事量を計算し、ミニキッチンに伏せてあった滅多に使わない茶碗と皿を持ち出した。
弁当のご飯を茶碗に半分よそい、色とりどりのおかずからいくつかを皿に盛る。チキンを手に取ったときはかなり躊躇したが、紙袋の点線にあわせて柔らかい肉を割り裂いて皿に載せた。ちょうど二等分にはならなかったが、文句を言われる筋合いはない。
「ほら、食え」
皿と茶碗を押し出し、キッチンの端に転がっていた未使用の割り箸を渡す。
ついでに冷蔵庫から取り出したビールの缶を添えてやると、そちらは手のひらを見せて拒否されたので自分で開ける。
男の方を見ずに敬太は食べ始めた。
男はしばし箸袋を握ったまま動かなかったが、小さな声で「いただきます」とつぶやいて茶碗を手に取った。
少しずつゆっくり食べる姿が、いかにも久方ぶりの飯を噛み締めて味わっているようで、敬太の心になんとも言えない優越感を満たす。
この男を連れ帰ったことに、理由はないと思っていた。
しかし毎日生活に追われ、出口のないぎりぎりの暮らしをするうち、なにかを見下して心の安寧を得たいと思い始めていたのかもしれない。
途方に暮れた様子の男の存在は、敬太にとって都合がよかった。ただそれだけだ。
(これが偽善と呼ばれるものでも、誰にも文句は言えないはずだ)
きれいに箸を持つ整った手をした男を眺めながら、敬太はビール缶を傾ける。
「行くとこないのか、あんた」
一口分しかないきんぴらごぼうを摘んだ男が、はっと顔を上げる。
前髪で隠れた顔の色は確認できなかったが、彼の目が縋るように敬太を見つめている想像はかんたんにできた。
「しばらくここにいるか」
なにもかも気まぐれの夜。
ボロアパートの小さな部屋に、名も知らぬ男が居候することになった。
男は名をマツリといった。
漢字を説明されたが、見たこともない字で敬太には覚えられそうにない。苗字なのか名前なのかすら訊ねなかった。そんなことは重要ではないからだ。
マツリは陰鬱な表情と重たい前髪、猫背で言葉少なで、近寄りがたい雰囲気を持ってはいるが浮浪者には見えなかった。
嫌な匂いはないし、服もぼろではない。
「あんた、家は?」
「……」
自分のことを話そうとしないマツリには、なんらかの事情がありそうだった。
黙ったまま俯いているマツリの様子を注意深く観察する。
「帰れないのか。借金?」
マツリが首を振る。
「ヤクザとかケーサツに追われてる?」
気まぐれでこの男を家に置くことにしたが、さずがに警察沙汰や面倒ごとはごめんだ。
だがこれにも否定が返された。
「ふーん。じゃあいいや」
おもちゃをポイと手放すように敬太が質問をやめると、マツリがぱっと顔を上げた。
「聞かないの……?」
乱れた前髪の向こうに、不思議そうな表情が覗く。
「曰く付きは家に置けないけど、そうじゃないんならいいよ。今日のメシはおごってやるけど、明日からは折半な」
きれいになった皿と弁当箱、使った箸を回収して席を立つと、マツリの視線が追いかけてきた。
怯えた気配は消えていて、その様子がまるで野生動物を手懐けたかのようでなんだか面白い。
「とりあえずシャワー浴びてこい」
タオルを渡して浴室を指差すと、猫背の男は大人しく従った。
ボロアパートのシャワーはお湯のカランをひねっても妙にぬるくて、寒い冬は残念な気持ちになるが、いち入居者の敬太にはどうすることもできない。
もしマツリが文句を言ったら叩き出してやろうと思っていたが、出てきた男は不満を漏らすことはなかった。入れ違いにシャワーを浴びる。
烏の行水ですぐに出ると、マツリは先ほどと同じ場所にちょこんと座っていた。
心なしか戸惑った空気を感じる。
「服、やっぱ小さいな。……ムカつく」
マツリが着ていた服はまとめて洗濯機に入れてしまったあとだ。ワイシャツなんて洗ったことがないので作法はわからないが、汚れが落ちればなんでもいいだろう。
その代わりに、先日特売で買ったスウェット上下と新品の下着を出してやった。
特に指示しなかったが、ちゃんと着られたようだ。どう見ても肩が狭いし、手首と足首が丸出しになっているので着丈が合っていないのだろうが、これ以上大きい衣類はない。
「あんたはそこで寝ろ。寒ければこれかけとけ」
折りたたみテーブルを片付けたスペースに自分の布団を敷き、押し入れの奥に入れてあった予備の布団を窓の手前のフローリング部分へ押し込むように延べる。
しばらく日干ししていないので湿っぽい気はするが、カビてはいないはずだ。上掛けは夏用なのでブランケットを一枚放った。
相手の意見も聞かず電気を消すと、マツリは大人しく布団へ横になったようだった。しばらくゴソゴソと音がしていたが、そのうちそれも止んだ。
暗闇に自分以外の存在が感じられるのは、いつぶりのことだろう。
敬太は今更ながら緊張と後悔に苛まれていた。
よく考えれば、名前すら曖昧な素性のよくわからない男を拾って家に上げ、寝床さえ与えるなんて正気の沙汰ではない。
もしマツリが犯罪に躊躇しない性質の男だったら、金目のものを奪われ命すら危ういかもしれない。
そこまで考えて、敬太は思い直した。
盗みをはたらくつもりなら、敬太がさっき風呂に入っている隙に逃げ出しているだろう。そもそも金目のものなどこの家にはない。いっそ悲しいほどに。
そしてマツリがもし敬太を殺すつもりなら───。
(そのときは、そのときか)
廊下の方へ寝返りを打つと、敬太の意識はすとんと落ちる。
なんの警戒もなく寝息を立て始めた家主を、鈍く光る瞳が暗闇の中からしばらく見つめていた。
12
あなたにおすすめの小説
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
完結|好きから一番遠いはずだった
七角@書籍化進行中!
BL
大学生の石田陽は、石ころみたいな自分に自信がない。酒の力を借りて恋愛のきっかけをつかもうと意気込む。
しかしサークル歴代最高イケメン・星川叶斗が邪魔してくる。恋愛なんて簡単そうなこの後輩、ずるいし、好きじゃない。
なのにあれこれ世話を焼かれる。いや利用されてるだけだ。恋愛相手として最も遠い後輩に、勘違いしない。
…はずだった。
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
オッサン課長のくせに、無自覚に色気がありすぎる~ヨレヨレ上司とエリート部下、恋は仕事の延長ですか?
中岡 始
BL
「新しい営業課長は、超敏腕らしい」
そんな噂を聞いて、期待していた橘陽翔(28)。
しかし、本社に異動してきた榊圭吾(42)は――
ヨレヨレのスーツ、だるそうな関西弁、ネクタイはゆるゆる。
(……いやいや、これがウワサの敏腕課長⁉ 絶対ハズレ上司だろ)
ところが、初めての商談でその評価は一変する。
榊は巧みな話術と冷静な判断で、取引先をあっさり落としにかかる。
(仕事できる……! でも、普段がズボラすぎるんだよな)
ネクタイを締め直したり、書類のコーヒー染みを指摘したり――
なぜか陽翔は、榊の世話を焼くようになっていく。
そして気づく。
「この人、仕事中はめちゃくちゃデキるのに……なんでこんなに色気ダダ漏れなんだ?」
煙草をくゆらせる仕草。
ネクタイを緩める無防備な姿。
そのたびに、陽翔の理性は削られていく。
「俺、もう待てないんで……」
ついに陽翔は榊を追い詰めるが――
「……お前、ほんまに俺のこと好きなんか?」
攻めるエリート部下 × 無自覚な色気ダダ漏れのオッサン上司。
じわじわ迫る恋の攻防戦、始まります。
【最新話:主任補佐のくせに、年下部下に見透かされている(気がする)ー関西弁とミルクティーと、春のすこし前に恋が始まった話】
主任補佐として、ちゃんとせなあかん──
そう思っていたのに、君はなぜか、俺の“弱いとこ”ばっかり見抜いてくる。
春のすこし手前、まだ肌寒い季節。
新卒配属された年下部下・瀬戸 悠貴は、無表情で口数も少ないけれど、妙に人の感情に鋭い。
風邪気味で声がかすれた朝、佐倉 奏太は、彼にそっと差し出された「ミルクティー」に言葉を失う。
何も言わないのに、なぜか伝わってしまう。
拒むでも、求めるでもなく、ただそばにいようとするその距離感に──佐倉の心は少しずつ、ほどけていく。
年上なのに、守られるみたいで、悔しいけどうれしい。
これはまだ、恋になる“少し前”の物語。
関西弁とミルクティーに包まれた、ふたりだけの静かな始まり。
(5月14日より連載開始)
アプリで都合のいい男になろうとした結果、彼氏がバグりました
あと
BL
「目指せ!都合のいい男!」
穏やか完璧モテ男(理性で執着を押さえつけてる)×親しみやすい人たらし可愛い系イケメン
攻めの両親からの別れろと圧力をかけられた受け。関係は秘密なので、友達に相談もできない。悩んでいる中、どうしても別れたくないため、愛人として、「都合のいい男」になることを決意。人生相談アプリを手に入れ、努力することにする。しかし、攻めに約束を破ったと言われ……?
攻め:深海霧矢
受け:清水奏
前にアンケート取ったら、すれ違い・勘違いものが1位だったのでそれ系です。
ハピエンです。
ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
また、内容もサイレント修正する時もあります。
定期的にタグも整理します。
批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。
自己判断で消しますので、悪しからず。
経理部の美人チーフは、イケメン新人営業に口説かれています――「凛さん、俺だけに甘くないですか?」年下の猛攻にツンデレ先輩が陥落寸前!
中岡 始
BL
社内一の“整いすぎた男”、阿波座凛(あわざりん)は経理部のチーフ。
無表情・無駄のない所作・隙のない資料――
完璧主義で知られる凛に、誰もが一歩距離を置いている。
けれど、新卒営業の谷町光だけは違った。
イケメン・人懐こい・書類はギリギリ不備、でも笑顔は無敵。
毎日のように経費精算の修正を理由に現れる彼は、
凛にだけ距離感がおかしい――そしてやたら甘い。
「また会えて嬉しいです。…書類ミスった甲斐ありました」
戸惑う凛をよそに、光の“攻略”は着実に進行中。
けれど凛は、自分だけに見せる光の視線に、
どこか“計算”を感じ始めていて……?
狙って懐くイケメン新人営業×こじらせツンデレ美人経理チーフ
業務上のやりとりから始まる、じわじわ甘くてときどき切ない“再計算不能”なオフィスラブ!
地味メガネだと思ってた同僚が、眼鏡を外したら国宝級でした~無愛想な美人と、チャラ営業のすれ違い恋愛
中岡 始
BL
誰にも気づかれたくない。
誰の心にも触れたくない。
無表情と無関心を盾に、オフィスの隅で静かに生きる天王寺悠(てんのうじ・ゆう)。
その存在に、誰も興味を持たなかった――彼を除いて。
明るく人懐こい営業マン・梅田隼人(うめだ・はやと)は、
偶然見た「眼鏡を外した天王寺」の姿に、衝撃を受ける。
無機質な顔の奥に隠れていたのは、
誰よりも美しく、誰よりも脆い、ひとりの青年だった。
気づいてしまったから、もう目を逸らせない。
知りたくなったから、もう引き返せない。
すれ違いと無関心、
優しさと孤独、
微かな笑顔と、隠された心。
これは、
触れれば壊れそうな彼に、
それでも手を伸ばしてしまった、
不器用な男たちの恋のはなし。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる