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7.もう一度
しおりを挟む敬太の身になにが起きようと、時間というものは等しく流れている。
眠れなくても日は昇るし、動く気力がなくても出勤しなくてはならない。
「行かなきゃな……」
全身が重く怠くて仕方がない。
しかし敬太は絶対に泣き言なんて言いたくなかった。
たかが居候を追い出しただけだ。恋人でも友人でもなかった。出ていった男に振り回されるなんてまっぴらごめんだった。
気力だけで体を奮い立たせ、無理やり体を動かす。
同じ要領でなんとか仕事もこなした。
客商売とはいえ、毎日の仕事は決まった動作の繰り返しだ。頭のどこかが動いていなくてもなんとかなった。
仕事を詰め込んで、なにも考えないようにする。
敬太はこれまでもそうして生きてきた。つらいこともあったが、苦難の過去や漠然と広がる未来を想像して恐怖するよりずっとマシだ。
洋食屋の夫妻が心配そうに敬太を伺う視線にも気づいていたが、無視を決め込んだ。
理由を問われたって話せるわけがない。誰かに吐き出す気もない。
あいつのことを忘れたように、マツリとの日々もいつか忘れることができる。
そう信じ込もうとしながら、がむしゃらに働いた。
いつも以上に働いて、隙間時間に短時間の派遣仕事を詰め込み、残業を自ら買って出て、疲れ切ったら帰宅する。
帰りたくなくても、金がなければ外で時間つぶしすらできない。それが都会というものだ。
まだ寒い夜風に吹かれながらアパートの足元に辿り着き、崩れそうになる膝を騙し騙し引き上げて部屋まで行く。
一瞬だけ、扉の向こうに光が溢れ、誰かの「おかえり」が聞こえる光景が脳裏をよぎることもある。
そんなときはぱさぱさと頭を振って妄想を掻き消す。
疲れ果てて買ってきた弁当すら食べられず、敷きっぱなしの布団に倒れ込んで眠った。
いつも使っていた敷布団はあの日々を嫌でも思い出す。だから多少湿っぽいのを我慢して、古い方を引っ張り出して使っていた。
こっちの布団も敬太にとっては嫌な記憶の残るものではあるが、なぜだか昔の友人の顔を思い出すことはなかった。
その日も敬太は疲労で霞む頭を抱えながら、コンビニ袋を片手に提げて帰宅した。
(……疲れた……)
いつも持ち歩いているはずのバッグが今日は特に重く感じる。
少し前ならぺろりと平らげられていた焼肉弁当などが今はまったく食べられなくて、苦し紛れにサラダを買ってきた。野菜なら肉よりは食べることができる。
しかしサラダは量が少ないのに高い。腹持ちも良くないので、図らずもダイエットをしているようなものだ。女子供ばかり好んで食べそうなパスタサラダなんてものに、この年で手が伸びることになろうとは。
延々と悲観的な方向に沈み込んでいきそうな気持ちに蓋をして、敬太はとぼとぼとコンクリートの道を歩いていた。
電球が切れかかって点滅している光が、ボロアパートを暗く照らしている。
その頃には敬太はなにも考えず、ただ転ばないように足を動かしているだけだった。
耳障りな金属音が鳴る階段を上る。
ついていないよりはマシ、という程度の灯りしかもたらさない廊下のライトの下で、なにかが蠢いた。
「……マツリ?」
敬太の部屋の前の扉にもたれ掛かってしゃがみ込んでいた影が、ゆっくりと立ち上がる。
背の高い黒い姿は逆光と闇に溶けて見えにくかったが、重たい前髪としょぼくれた猫背が表すのが、かつての同居人であることだけは判断できた。
マツリは見覚えのあるバッグを胸の前に抱えて、何も言わずに立っている。
「二度と顔見せるなっつったよな」
敬太は疲れ切っていて、面倒事に対処する気力が一ミリもなかった。
震えが来そうな指先を叱咤してポケットから鍵を取り出す。
「邪魔だ、どけ。あのご立派なマンションに帰れよ」
「あのマンションは引き払った」
「は?」
「だから今僕は家なしだ。敬太さんが望むなら仕事もやめる。お金も全部どこかに寄付する。だから……話をさせて」
俺には関係ない、そう怒鳴りつけようとして息を吸い込んだ敬太は、マツリの向こう側のドアから隣人が出てくるのを見た。
これから仕事らしい作業着姿の男が、マツリを邪魔そうに見る。
敬太は舌打ちした。
「ここじゃ迷惑になる。……入れ」
マツリを部屋に押し込んで自分も入ると、急いでドアを閉めた。
面識はほとんどないが、騒音に壁を叩かれたこともある隣人だ。揉め事になるのは避けたい。
そのせいで今まさに揉め事の種を家の中に入れてしまったことに敬太は気づいて、うんざりした溜息を吐き出した。
玄関から一歩進んで部屋の奥へバッグを放り、ドアの前で立ち竦むマツリを睨みあげる。
「で、話ってなんだよ。俺はもう話すことなんてないけど」
「……まずは謝りたい、ごめんなさい。僕はもっとちゃんと、自分のことを話すべきだった」
マツリは猫背をさらに丸めて頭を下げた。敬太はそれを冷ややかに見つめる。
寒い玄関先に立ったまま、マツリは自らのことを語った。
やはり彼は年下だった。
大学卒業後すぐ、跡取りとして親の会社に入った。それなりにはやってこれたが、周囲の期待からくる重圧に耐えかねて、なにも持たず家を飛び出して項垂れていたのがあのコンビニ駐車場だった。
そのうち誰か、両親の手の者が探しに来るだろう。それまでぼうっと過ごしていたいと思っていただけだったのに、敬太が現れた。
親から与えられたマンションに帰るのが嫌で、敬太について行った。
「何も聞かずに受け入れてくれる敬太さんの元は居心地が良くて……つい甘えてしまった。毎日必死に働いて生きている敬太さんに、自分の甘ったれた生き方を知られたら軽蔑されると思って……言えなかった」
否定の言葉が口を突きそうになって、敬太は押し黙る。
マツリの悩みを甘いと言って切り捨てる、いかにも自分がやりそうなことだ。
彼が自分の話をしなかったのは敬太の頑なな態度にも問題があったのかもしれない。
「でも、敬太さんは僕が飾らずにいても追い出したりしなかった。お金がなくても、見た目を装ってなくても、笑って受け入れてくれた……嬉しかった」
「……」
「ねぇ、敬太さん。僕たちはお互いになにも持っていなくて良かった。お互いの心に惹かれた……僕はそう思ってる。都合の良いことを言ってるのは分かってる。でも僕は、ありのままの姿を見てほしい」
「マツリ……」
「後付けの要素で嫌ってしまわないで。僕を見て……」
悲しげに懇願する声と、前髪から覗く泣きそうな瞳に、なにも感じないはずがなかった。
大きな図体で泣き出しそうな子供のように頼りない雰囲気のマツリを、軽く引き寄せて抱き締める。
敬太からそんな風に振る舞ったのは初めてだったかもしれない。腰の辺りに回した腕でぎゅっと締め付ける。
案の定、身を離して覗き込んだマツリの顔は驚きに固まっていた。
「口説き文句すらナヨナヨしてんの、マツリらしくて嫌いじゃない」
「えっ……」
「あの日マツリを拾ったのは、確かに同情とか憐れみとか、そういう感情からだった。でもそれだけで何ヶ月も、得体のしれない男を住まわせてやるなんてことしない」
目が潰れそうなほど明るい光に背を向けて、呆然と地べたに座り込んでいる男。
普通なら声を掛けたりしない。面倒ごとになど巻き込まれたくないはずだった。
つい手を伸ばしたのは気まぐれの産物で、マツリのか細い存在感を見下していたのは事実だ。
いつしか───それだけではなくなった。
一緒に暮らし続けて、体まで許したのは醜い優越感だけのせいではない。
マツリに恋なんてしていないと何度も言い聞かせたのは、自分の心がすでに傾いてしまっていたからだった。
それなのに要素やレッテルだけで他人を判断してしまっていた。住む世界の違いを目の当たりにして、すべてを拒絶した。
そんな見方をされたくないと、敬太自身が思っていたはずなのに。
「ごめんな、マツリ」
日々の生活に追い詰められるあまり、大事なものを見失ってしまうところだった。
敬太が頭を下げると、感極まったマツリに強く抱擁される。
首を折り曲げていたために頭頂部がマツリの胸に勢いよくぶつかり、頭上から「ぐえ」という声が落ちてきた。向かい合って顔を見合わせ、笑い合う。
「なんだ今の、変な声出すなよ」
「だって……敬太さん石頭なんだもん」
「俺のせいかよ生意気な」
ひとしきり笑って、敬太は二人がまだ玄関の狭く寒い場所でやりとりしていたことを思い出した。
「とりあえず上がれよ。で、家なしってどういうことなんだ」
「そのままの意味。だからまた、ここに住んでいい?」
「押しかけといてそりゃないだろ。あんた、意外と強かだよなぁ……」
仕方ないというポーズを見せながら部屋に上げてやると、マツリはにっこりと笑った。
これからもこの年下の同居人には振り回されるのだろう。
楽しいような、こそばゆいような予感に敬太は苦笑するしかなかった。
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