勇者は体に悪い

キザキ ケイ

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08 名前で呼んでくれないか

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「……あの……」
「なんだ?」
「近くない?」

 今までは近いと思っても、拳一個分くらいの距離は空いていた勇者との物理的間隔。
 それが今や、体の側面がくっついていて肩を抱かれている。
 何が起こっているんだ。これほどの近さは家族でもなかなかない。恋人同士みたいだ。

「激しくしてしまったから、疲れたんだろう。フラついていた魔王を支えてるだけだ」
「あ、そ、そうだよね……?」

 妙に怪しげな言い草だが考えすぎだろうか。
 先程まで僕と勇者は戦闘訓練をしていた。
 腕輪の強化魔法を調整したり、新しい勇者を迎え打つ作戦を練ったりと僕らは日々忙しい。
 それでほんの少し、訓練を終えた直後にほんの少し足元が覚束なかっただけで、半ば抱えられて長椅子に座らされて今この体勢だ。
 勇者はずいぶん過保護なたちらしい。
 しかし何百歳も年下の勇者に、赤子のように甲斐甲斐しく抱えられて休憩するなんて恥ずかしい。側近に見られたらなんて言われるか。

「魔王」
「ハイッ」
「知っていると思うが、俺の名はリカルドだ」
「うん? 知ってるよ」

 歴代勇者のことは名前から姿から、詳細なデータを調べさせて把握してる。
 リカルドのことも同様に、まだ勇者候補でしかなかった頃から情報を追っていた。

「名前で呼んでくれないか」
「えっ」

 そっと手を取られて、懇願するように見つめられる。
 僕は固まって動けなくなった。
 もしかして気づいていたのだろうか。僕がわざと誰のことも名で呼ばないことを。

「もしかして魔族は、相手の名を呼ばない決まりでもあるのか?」
「いや、魔族がってことはない、けど……」
「では呼んでくれ。リカルド、と」
「う……」

 自分の顔が真っ赤になっていることなんてわかってる。
 でも、ダメなんだ。

「な、名でお互いを呼ぶのは伴侶だけって、うちの家系では決まってるんだ! だから、だめ……っ」
「伴侶?」

 必死の思いで拒絶して距離を取ろうとしたというのに、彼は肩を掴む手の力を強めて、離してくれない。

「名を教えるのもダメなのか? 伴侶だけ?」
「うん……」
「そうか。でも、魔王が俺の名を呼ぶだけなら良いんじゃないか? お互い、なんだろ。俺は魔王の名を知らないからお互いに呼ぶことは不可能だ」
「え、ど、どうだろ……」
「俺は呼べない。だから魔王から呼んでくれ、俺の名を」
「……」

 なんだか良いように丸め込まれている気がする。
 しかし一心に僕を見つめる、まるで今にも触れ合ってしまいそうなほど迫る黄金色の瞳は、誘惑の魔法でも発しているんじゃないかというくらい僕の心を引き寄せ、揺さぶってくる。

「り……リカルド……?」
「あぁ」
「ち、近すぎないか?」
「それは、もっと近づいてほしいという意味?」
「そんなことは、っん……」

 ふっと唇にあたたかい吐息が触れて、そのまま柔らかいものが押し付けられる。
 理由はまったくわからないが、現状はわかる。
 勇者とキスしてる。

「んん、ちょ、ぁ、ふぁ……っ」
「こうして触れ合うのも伴侶だけか?」
「それは、決まりはない、けど」

 ちょっと待って今のなし、嘘でもダメって言えば良かった。
 慌てて訂正しようとしたけど、口を塞がれてしまって成すすべがない。
 勇者に力で敵わないことは、さっきの手合わせで嫌というほどわからせられたばかり。

「ん、んっ……」
「魔王……」

 まるで愛しいものを呼ぶみたいに、どろどろに溶けた声色で僕を呼ぶ勇者の熱量に、僕まで溶かされてしまいそうだ。
 僕だって名前で呼んでほしい。
 反射的にそう叫びそうになって、言葉を飲み込む。流されてはダメだ。
 魔族の名はその者を表す記号以上の価値がある。
 力のある魔人であれば、名を知っているというだけで相手を縛り、好きに操ることすらできてしまう。
 まして僕は、魔法の腕が突出して強いだけの、本体はひ弱な最高権力者だ。
 下手な相手に真名を知られれば幻惑魔法を防がれる恐れがある。そうなれば僕は最強ではなくなり、皆を、城を、守れなくなってしまう。

 勇者は人間だ。
 今は僕に協力してくれているが、敵種族であることに変わりはない。
 完全に心を許すことはできない。
 たとえ僕が、この情熱的な男に今すぐ何もかも委ねてしまいたいと渇望しても、それはできないんだ。

「だめ、だよ、勇者くん……お願い、やめて……」

 呼吸を乱す僕をじっと見て、勇者は笑った。

「もっとしてって言ってるようにしか聞こえない」
「ちがっ、んっ、んぅー!」

 この勇者、僕の20分の1しか生きてないくせにキスが上手すぎる。
 酸欠に陥って腰砕けになった僕はろくな抵抗もできず、好き放題唇を貪られてしまった。
 訓練場からなかなか戻ってこない魔王を仕事へ駆り立てるため、やってきた側近が勇者を止めてくれなければ、僕は今頃どうなっていたんだろう。

「そりゃもう、ヤられちゃってたでしょうね」
「ちょっと。もっと言い方ってものがあるでしょ」
「ないですよ。いっそ意地はってないで一発ヤってみたらどうです? 伴侶にするなら体の相性も大切ですよ」
「は、は、伴侶!?」

 涼しい顔でとんでもないことを言い出す側近に、握っていた王印をつい投げてしまった。
 キャッチされて投げ返されたけど。

「そういうことじゃないんですか? だって魔王様、本気で嫌なら身体強化でも幻惑魔法でも使って逃げ出せるじゃないですか」
「あ……そっか、魔法で……」
「現魔王、色仕掛けが有効、と……」
「何メモしてんの! やめて!」

 側近は心の底から愉快でたまらないという邪悪な笑顔だ。
 僕はげっそりと落ち込みながらも、遅れを取り戻すために書類を片付け続けるほかない。
 魔法を使ってでも逃げるという手段を思いつかなかったのは、それはどうあっても暴力で、勇者を傷つける方法だからだと思う。
 勇者を傷つけてまで逃げたいと思わなかったのは……つまり……そういうことなんだろう。
 我ながら、やっぱり色仕掛けに弱いということなんだろうな、と納得してしまうくらいには。

(でも、今までだって色仕掛けみたいなことはされたけど、全部回避してきたし)

 いい年で恋人も伴侶もいない魔王に取り入ろうと、老若男女さまざまな魔族が僕にアプローチをしてきた時期があった。
 魔王に就任してすぐの頃だ。
 最初はモテ期到来かと嬉しかったけど、僕に媚びる彼らの瞳には打算ばかりが浮かんでいて、喜びはすぐ悲しみに変わった。
 魔王という地位がなければ誰も僕を欲しがったりしないんだ。
 僕が靡かないからと、色仕掛け勢力は人間や動物、果ては魔物まで献上してきたけど、僕が色っぽい意味で相手を受け入れることはなかった。
 ちなみに魔王への献上品として送られてきた可哀想な人間は故郷に送り返し、動物たちは庭に飼育小屋を作り、魔物は他害をしない個体だけ動物たちと一緒に庭で飼ってる。
 勇者のことも、いつかきちんと故郷へ送るつもりだったのに。

「あーあー色っぽい顔しちゃって。その顔のまま部下たちに会わないでくださいよ」
「えっ!」
「魔王様、強いけどガードゆるいし、トシいってるけど顔かわいいし、狙ってるやついるんですからね。敵は勇者だけじゃないんですから、ほら顔引き締めて」
「ひゃい……」

 側近に頬の皮をみょんと伸ばされて痛い。
 何度も頷いて、彼はようやく手を離してくれた。
 なんだか初めて知る情報が山盛りあった気がする。

「僕……狙われてるの?」
「そりゃあね。最強の魔人を屈服させたいってドS野郎から、本気で恋しちゃってるイタいやつまで選り取り見取り。魔王城は魑魅魍魎の跋扈する場所なんです」
「でもそれは、僕が魔王だからでしょ?」
「そういうやつもいますけど、そうじゃないやつもいるらしいです」
「そ、そうなの……」
「知らなかったんなら今日から注意してください。勇者と結ばれる前にモブどもに純潔散らされたくないでしょ」
「……」

 つっこみどころが多すぎてなんと言えばいいかわからない。
 というか僕が本当にそんなにモテるならもっとアプローチしてくれよ、政治的な意味のこもってないやり方で。
 僕はてっきり、この童顔とヘンテコな髪や目の色のせいで、幻惑という魔王らしくない魔法を使うせいで、モテないんだと思い込んでずっと諦めてきたのに。
 そういう意味では、勇者が初めてだった。
 初めて、他意も打算もなく僕に触れて、名を知りたいと言ってくれた。

「そういえばさっき、別れ際に勇者になんか言われてましたよね。なんて言われたんですか?」
「……」
「魔王様?」
「新しい勇者を無事追い返せたら、話したい、って……」

 こら側近、「なるほど~」みたいな顔で頷いてニヤケるな。
 僕だって何の話をされるのか察しないわけじゃない。
 新しい勇者は早ければ数日以内に魔王領にやってくるだろう。
 勇者迎撃の準備は着々と進んでる。
 でも僕の心の準備はまだ全然整いそうにない。
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