吸血鬼様のごはん

キザキ ケイ

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02.伯爵の秘密

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 150年ぶりに目覚めた吸血鬼とその従者が、小さな町に根付いて数年。
 ウルリクの「自称吸血鬼」という話はもはや町民誰もが知っていたが、信じているものは一人もいなかった。
 確かに、おとぎ話の吸血鬼のように不老不死かのごとく、ウルリクは老いることなくずっと美しい。
 だから町民もふざけ半分に「本当に吸血鬼かも?」と疑うことはあったが、根拠はそれだけであった。
 なにしろウルリクは、誰の血も吸わない。
 吸血鬼が出現したとなれば、夜な夜な若い女が町から消えるはずである。もしくは、若くして死んだ娘の墓が暴かれ、見るも無惨な亡骸が発見されたりするはずである。
 しかしそんな事件は起こらず、丘の上の廃墟に野盗が入り込む心配が減って、むしろ治安が良くなったほどであった。

「本当に誰も、ウルリクさまが吸血鬼だと信じていないのですね」
「それはそうだろう。いい歳の男が吸血鬼を自称していたら、おれなら鼻で笑うか、事を荒立てないようなんとなく話を合わせつつ距離を取るぞ」
「ご自身のことなのにドン引きしないでくださいよ……」

 町から抱えて持ってきた小麦の袋を置き、クリスは苦笑する。
 まったく変わらない美しい伯爵、の従者は、数年で劇的に成長していた。
 長くなるたびナイフで切り落としていたざんばらの髪は、毎月町の床屋で手入れされるつやつやの金髪へ。
 細く頼りなく、栄養の足りていなかった体は、数年の良質な食生活と適切な運動によりすらりと背丈が伸び、全身にまんべんなく筋肉がついた。
 幼気でどこか影のあった欠食児童の細面は、笑顔を褒め称えられる甘い顔立ちへと成長した。
 まるで別人のようだ。
 ウルリクはまじまじとクリスを観察し、いつものようにグラスを傾ける。
 ワイングラスが空くと、クリスはさっとボトルを持つ。ウルリクがこれ以上は不要と首を振ると、すぐにボトルとグラスとつまみの皿が片付けられる。
 別人のように成長したクリスだが、ウルリクの忠実な従者であるという部分はちっとも変わらない。

「そろそろ町で暮らさないか」

 ウルリクの問いかけに、クリスはすぐさま「町に転居いたしますか? すぐにお屋敷を手配します」と答えたが、そういうことではない。

「いやおまえだけで」
「私だけ、ですか? なぜ……?」
「なぜって。おまえもそろそろいい歳だろう」
「何のでしょう?」
「だから、結婚とか」
「しませんよそんなの」
「良い娘がいないのか? パン屋の娘なんか年頃だろう。まだ少し幼いが、宿屋の次女がおまえに懸想していると子どもが噂していた。それから、」
「そういう問題ではありません」

 一刀両断にされ、ウルリクは黙った。
 そういう問題ではないのか。ではどういう問題だ?
 人間というものは、若いうちに伴侶を見つけ、子をなし、血をつなぐことが最大の生物的欲求ではないのだろうか。彼にはそれがないのだろうか。育て方を間違えたか? そういえばこいつ、全然女の影がない。町に行っても外泊の一つもしたことがない。まさか欲がないのか、いやそんなはずは。
 ぐるぐる考えだしてしまったウルリクに、クリスは「そんなことより」と身を乗り出した。

「ウルリクさま、いつになったら血を吸うのですか」
「ん?」
「吸血です。ウルリクさまはクリスが来てから一度も血を吸っていないでしょう。どうしてです? 本当に血を吸わずに、ワインだけで生きられるのですか?」
「そ、そうだ。おれはすごい吸血鬼であるから、ワインを血の代わりに糧とできるのだ」
「それじゃあ吸酒鬼じゃないですか。わざわざ吸血鬼を名乗っているのに血を吸わないで、本当に大丈夫なんですか? なによりウルリクさま、」

 クリスの手のひらがそっとウルリクの頬に触れる。
 大きな手だった。
 労働を知っている、成熟しつつある男の手。
 それが壊れものを扱うようにウルリクの肌に触れ、そっと撫でる。

「初めてお会いした頃より、ウルリクさま、痩せましたよね。顔色もあまり良くない」
「それは、そうだろう。吸血鬼というのは痩せていて顔色が悪いものだ」
「いえ、少しずつ悪くなっています。目元もほら、こんなに青白く」
「あぁもう、やめろ! おれは血を吸わずともよいのだ! この話は終わりだ!」

 クリスの手を振り払い、地下室へ逃げ込む。
 ここも、地上の家屋部分も、クリスがせっせと手を入れるからどんどん快適になりつつある。
 もう廃墟などとは呼ばれていないが、それもクリスが嫁を取り、町に居を移すまでのわずかな間だけだ。

「血を吸わずとも、か」

 妙に強情な従者の顔を思い浮かべ、ウルリクは少し笑ってから、静かに寝床へ身を横たえる。
 クリスが独り立ちをして、ウルリクの庇護が必要なくなれば、そのときは。
 その先をかき消すように、暗闇のなかで吸血鬼は赤い目を閉じ眠りについた。



 その日クリスは町の入口近くで、大工仕事に精を出していた。
 獣よけの柵が壊れてしまい、その修理を自ら買って出た。鍛冶屋と家具屋の若衆は各々道具を持って、他の箇所の修繕点検に繰り出している。
 そんな町境でぽつんと作業中のクリスに、「こんにちは」と声をかけるものがいた。

「こちらにミルヴェーデン伯爵はいらっしゃるかな」
「え……ウルリクさまに御用ですか?」
「あぁ。……ん? きみは……」

 日除けのフードをおろしてクリスを見つめる男に、クリスのほうも見覚えがあった。

「あ、もしかしてシャオ、さん? 人買い商人の」
「その称号は甚だ遺憾ですねぇ。人間を取引したのはあなたが最初で最後ですよ、クリスくん」

 かつてクリスを「血液袋」としてウルリクに売りつけた商人、シャオが、かつてと変わらぬ胡散臭い立ち姿でそこにいた。
 シャオはクリスの作業を興味深げに見学し、道案内を頼んできた。
 今の時間、ウルリクは青空教室の真っ最中だ。帰り道の途中にある食堂で待つこととなった。
 昼時を過ぎ、どこかのんびりした雰囲気の食堂のおかみに飲み物を注文し、通りを見渡せるテラス席へ座る。

「もう五年も経つのですか。お元気そうでなによりです」
「シャオさんもお変わりなく……全然老けてないように見えるんですが、もしかしてシャオさんも吸血鬼ですか?」
「いえいえ、こう見えて相応に年を取っていますよ。……伯爵は見た目もお変わりないようですね」
「はい……」

 運ばれてきたカップを両手で包みうつむく青年に、シャオは「おや」と思った。
 ずいぶんと色気のある顔で憂うものだ。

「伯爵のことで、なにか悩んでいるのですか?」

 言い当てられ、クリスはびくりと肩を揺らす。
 シャオはすかさず我が意を得たりと身を乗り出し、細い目をさらに細めた。

「たしかにあなたは我々が買い取り、伯爵にお売りした商品ものですが、こうなったからには、わたくしはあなたにもなるべく平穏に生きてほしいと思っているのです。なにか悩みがあるのなら、わたくしの及ぶ範囲でお助けできるかもしれませんよ」
「……商人が人助けですか?」
「もちろん対価はいただきますが」
「はは、なるほど」

 抜け目ない商人に笑い、クリスは肩の力を抜いた。
 シャオは、クリスが知るより以前のウルリクのことを知っているはずだ。だが彼のいないところで、彼のことを誰かに尋ねていいのだろうか。しかしウルリク本人に直接聞いたところで、またはぐらかされてしまうだけだろう。
 握った手がぎゅっと音を立てる。

「シャオさんは、私を、その、ウルリクさまの『食糧』として売ったのですよね。私の血を、吸わせるために」
「えぇまぁ。ただ伯爵はお食事をされない吸血鬼だと祖先から聞いておりましたので、いらないと突っぱねられる可能性は高かった。しかし伯爵は、不要と言いつつあなたを返品してはこなかった」
「……でもウルリクさまは、私のことは、一度も……」

 シャオは思わず「おや」と口に出した。仮面のようにいつも装っている笑顔が崩れ、本当の笑みが覗きそうになり、慌てて仮面を被りなおす。

「血を吸われていないのですか。この五年、一度も?」
「……はい」
「それであなたのその憂い顔……どうして血を吸ってくれないのか、といったところかな」
「……」

 幼心に、いつ命を終えるのだろう、と思っていた。
 死ぬことは怖くなかった。両親に売られた時点で、長生きできないだろうと思っていた。
 まさか人外の食糧として売られるとは思っていなかったが、死に様が想像と違うだけだろうと諦観が覆ることはなかった。
 商人の手から引き渡された雇い主は、クリスが高額だったことに文句を垂れ、金額分働けと命じてきた。
 子どもの手にも全くつらくない労働を行いながら、主人のために用意した食事を自分で食べ、故郷の家よりよほど快適な綿のたっぷり詰まったベッドと毛布で眠る。どんなに寝坊してもクリスより早起きすることがない主人を世話し、ただ生き、ただ尽くした。
 そんな日々の中で、死の予感は遠ざかっていったが、代わりに本来の自分の「存在意義」が気にかかるようになっていった。
 従者としては尽くせているが、食糧としては未だ一度も本懐を遂げていない。
 主人の好みが幼い自分にない、と知ったとき胸に沸き起こったのは、安堵ではなく失望だった。

 そんなことを途切れ途切れに吐き出し、クリスは再び黙り込む。
 シャオは内心「おもしろいことになってるなぁ」とニヤニヤしていたが、今度は口にも顔にも出さなかった。

「状況はわかりました。さてクリスくん、商談といきましょうか」
「え?」
「わたくしは、あなたが知らない伯爵の秘密を知っています」

 はっとして顔を上げたクリスは、何かを考える前に「知りたい」と言っていた。
 ウルリクが、おそらく意図して隠している何かを他者から聞いていいのか。主人に対する裏切りではないのか。そんなことを考える余裕がなかった。
 シャオはにっこりと商人らしい笑みを浮かべ、きっちりとクリスから対価を受け取る算段をつけてから、そっと耳元に口を寄せ、吸血鬼伯爵の秘密を明かした。



 ウルリクが帰宅すると、家に明かりが灯っていなかった。
 珍しいことだ。クリスはだいたいウルリクより先に帰宅して、主人を迎える準備をしている。遅くなるときは教会に顔を出すか、誰かに言伝を頼む。
 それが何も言わず遅くなるとは、もしや夜遊びを覚えたのだろうか。
 不思議な気分になりながら玄関扉を押し開けると、夕暮れに沈みつつある室内にはクリスがいた。
 長椅子にうつむいて座る姿はまるで幽鬼のようで、吸血鬼は思わず「うわっ」と叫んだ。

「クリス、いたのか。もう暗いぞ、明かりくらいつけろ」
「ウルリク、さま……」
「ランプは、と……おっと、油が切れているのか」

 手探りで油を足そうとしたウルリクの手が掴まれる。
 クリスは静かに佇んでいた。室内は急速に暗くなりつつあり、クリスの表情が見えない。

「ウルリクさま」
「どうしたクリス、なんだか様子が……町で嫌なことでもあったか?」

 誰かになにか嫌味でも言われたか。もしくは嫌がらせでもされたか。うちのクリスにどこの不届き者がそんなことを。
 町に取って返して犯人を捕まえてやる、などと息巻くウルリクは、クリスにそっと両手を持ち上げられ、ゆるく、しかし絶対に離さないという意志を持って拘束されたことに気づかなかった。

「ウルリクさま、正直におっしゃってください」
「お、おう?」
「私以外の誰かの血を、吸っているのですか?」
「はぁ?」

 なにを不思議なことを言うのか。吸っていないに決まっている。
 クリスは何がそんなに気になるのか、たまにウルリクが吸血行為をしているのか、したくならないのかと尋ねてくるが、すべて答えは否だ。

「そうですよね。ウルリクさま、こっちが心配になるくらい毎日ワインを召し上がられてますからね」
「そうだ。おれくらいの吸血鬼ともなると、」
「血を吸わなくてもいい……ですか?」

 クリスの手がウルリクの手首を掴んだまま、痛くはないが有無を言わさぬ力を発揮し、ウルリクの体を傾けさせる。
 ウルリクは背後のソファにぽすんと落下した。
 覆いかぶさるように、もはや暗がりで黒い影のようにしか見えないクリスがのしかかっている。

「今日、町にシャオさんが来たんです」
「シャオ? ……あぁ、商人か。久しく聞かん名だ」
「ウルリクさまがまたなにか注文してくれるんじゃないかと、営業に来たらしいですが……彼に、聞いたんです」
「何を?」
「吸血鬼は、血を吸わずとも生きていける。ただしそれは、力の強い吸血鬼であっても、長くて十年ほどが限界であると」

 ウルリクは思わず舌打ちしていた。
 大昔ならいざ知らず、吸血鬼がめっきり姿を消した現代でなら、不都合な吸血鬼の性質を誰にも知られずいられるだろうと高をくくっていた。
 まさかかの商人の家に、吸血鬼の生態が伝わっていようとは。
 いつものようにすぐさま否定してこないウルリクに、クリスは息を呑んだ。

「事実なんですか……?」
「ふん、まぁそういう説もある。だが別に構わないだろう」
「かまわ、ない?」
「十年だ。それだけあれば幼子も立派に成人する。現におまえは大きく育った。町の者たちにも受け入れられている。やがてこんな不便なボロ屋を出て、好いた娘と町で暮らすだろう」
「だから……あと五年足らずで、あなたが死んでもいい、と……?」
「死ぬのではない。おれは特別に強い吸血鬼だからな、せいぜいが砂になって、また眠るだけだ。きちんと元に戻れる」
「……いつ、ですか。砂から元に戻るのは」
「さぁな、前回150年かかったし、次もそれくらいであろうよ」

 ウルリクもようやく、クリスの様子が尋常でないことが察せられてきた。
 拘束する手がぶるぶる震えている。どうかしたのかと問う前に、暗闇の中でクリスの両目が光った。

「どうして、どうしてそんなに平然としていられるのですか! 私のことはどうでもいいと!?」

 まるで親に捨てられた子どものようだ。
 そういえば彼は親に捨てられたのだったな、とウルリクは、未だ自身の上から退かない従者に優しい目を向けた。

「どうでもいいわけないだろう」

 本当に大きくなったものだ。
 身長はウルリクをとっくに追い越しているし、手も足も大きくて長い。
 声は低くなり、頬や首筋には丸みがほとんどなく、いつの間にこんなにも育っていたのかと驚く。

「これほど長く人間と共に過ごしたのも、人間を慈しんだのも初めてだ。だから早くおれを安心させてくれ」

 微笑むウルリクとは対照的に、クリスは顔色をなくす。

「町へ住むとか、結婚しろとか、そういうつもりで言っていたのですか……」
「そうだ。まぁおまえは男前だからな、五年もかからないだろうが」

 教会の学校に通っている女子にも人気のクリスであるが、町娘たちには絶大な人気を誇る。
 ろくに民と交流しないウルリクさえ知っているのだ。クリス本人も承知のはずだろう。その中の誰か、相性のいいものを選べばいい。
 そうして家庭を築くクリスに、ウルリクは祝福を贈り、新生活を手助けしてやって、もしかしたら彼の子を見ることができるかもしれない。
 そんな光景を見届けてから、ウルリクは再び地下に設えたベッドで永い眠りにつき、時代を超えるのだろう。
 夢とも言えない願望を抱いていたウルリクの、闇に慣れ始めた目が、どんどんと泣きそうに歪んでいくクリスの表情を見た。

「お、おいクリス……?」
「あなたは、ずっと、そんなことを……っ」

 ずっと一緒にいられるのだと思っていた。
 人に混じらず生きる、美しく孤高のひと。
 出会った経緯はあれど、この高貴な御方のそばにずっといられるならどんな努力も厭わないと、努力すればそばにいられると、心から信じて疑わなかった。
 憧れて、慕わしく焦がれて。それ以上の情が育ってたとしても秘めるつもりでいた。
 それなのに。
 砂になんてなってしまったら、仕えられない。二度と会えない。もうなにも伝えられない。
 それは一生の奉仕を捧げるつもりだったクリスにとって、裏切りのように思えた。

「ウルリクさま……」

 指の腹を噛みちぎる。
 クリスの分厚くなり始めていた親指の皮膚から血が滲み、したたる。
 それを目の前の薄い唇へと押し付けた。

「飲んでください、ウルリクさま」
「ちょっ、んぐ……やめ、」
「飲んで」
「やめろっ! なにをしている! 止血しなければ……」
「……私の血じゃ、だめなんですか……」

 力ずくで押しのけられ、クリスはよろめき項垂れた。
 ウルリクはクリスの指を端切れ布でぐるぐる巻きにして、それから座り直し、しかとクリスを見据えた。

「クリス、聞け。吸血鬼が血を吸うというのは、おまえが考えるより重い行為なのだ」
「……」
「いいか、我々吸血鬼は、生き血を啜って永らえる醜いいきものだ。血を吸われたものは、血の味に我を忘れた吸血鬼に一滴残らず吸い尽くされる。もし運良く生き延びられたとしても、その身は吸血鬼の眷属けんぞくに堕ち、永い孤独を生きねばならなくなるのだ」
「……眷属……」
「そうだ。眷属と化せば、吸血鬼がごとく楽に死ぬことができなくなり、血を啜らねば生きられない。渇きを癒そうとすれば殺してしまう、それを防ぐには同じ眷属や憎き吸血鬼から血を得るしかしかなくなる。人でなくなるのだ。恐ろしいだろう?」

 子どもらに言い聞かせるように話し、ウルリクはクリスの反応を窺う。
 何もかもなげうって自棄にでもなりそうだったクリスの気配は鳴りを潜め、暗く沈んだ空色の瞳と視線が絡んだ。

「私のことを嫌って、血を吸わないのではないのですよね」
「嫌いなものか。愛しい我が従者よ」
「じゃあ、飲んでください」
「ん゛っ!?」

 せっかく巻いた布がはらりと落ち、未だ血の流れるクリスの指が、今度は口腔内に突っ込まれた。
 押しても叩いても、今や立派に成長したクリスを退かすことができない。
 首を振っても顎を押さえられて、口を開くよう強要される。
 吸血鬼の身が本気を出せばクリスを吹き飛ばすことなど造作もない。それでなくとも、この指を思い切り噛めば退けられるかもしれなかった。だが、クリスが傷つくようなことをウルリクができるはずもなかった。
 結果ウルリクはろくな抵抗ができず、かろうじてゆるゆると首を振ることしかできなくなった。
 口の中に血の味が広がる。
 唾液に混じって芳醇な死の香りが充満し、嚥下しそうになる。
 ウルリクは涙目になりながら、必死に舌で指を押し返した。
 その仕草が、彼を組み敷く青年の目にどれほど扇状的に映るかなど、わかるはずもなかった。

「飲んで」

 指が口から出ていく。
 咄嗟に口内の血液を吐き出そうとして────唇を塞がれた。
 目の前に若者の顔がある。吸血鬼が柄にもなく、丹精込めて育て上げた、我が子のように愛おしい青年の顔が、唇が、舌がウルリクを蹂躙する。
 思わず飲み下してしまった。
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