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六左衛門、勝成に駒を進める
大垣城落城 六左衛門、名刀正宗を受け取る
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関ヶ原の戦いと同時に火蓋が切られた、石田三成の拠点大垣城攻めに六左衛門は参陣している。彼ら東軍勢は一気に門を突き崩し、三の丸を落として、いったん引き上げた。
次の手はあらかじめ決めていた。三の丸が崩れたのだ。籠城する西軍方の諸将も激しく動揺している。
もとより、皆この城に在していたわけではない。ここはあくまでも一時的な詰所に過ぎないのだ。主の石田三成ですら、勝手をわかっていないだろう。もちろん城のことをよく知る者はいるが、攻め入られたときの戦術まで指南はできない。
関ヶ原で必ず家康を打ち倒し、一同が凱旋するのを待つ。そのための城なのだ。
もちろん、東軍方の六左衛門はじめ皆もその可能性があることを承知している。大垣城には七千の兵が詰めている。自勢が一万を超えているとはいっても、三の丸が落ちたからといっても、安心しているわけにはいかない。
何が起こるか分からないのが戦というものだ。
東軍が一気に打って出ても万全の勝機があるとは言えない。その場合総力戦となり、敵味方に被害が出る。一番怖いのは西軍方優勢となり、石田勢が大挙して押し寄せてきたときである。東軍勢は挟みうちにされ、一巻の終わりとなるだろう。
一兵たりとも無駄死にさせるは曲事なり。
無駄な犠牲を払うべきではない。
家康は常にそう言っている。あの古狸は――六左衛門は敬意も込めてそう言うのだが――常にどうすれば最小限の犠牲で済むかということを考えていた。ただし、あからさまに相手を騙し貶めることはしない。裏では分からないが。
こまめに方々に書状を出しておったのも、その一部に過ぎぬ。いとこはこの一連の流れを読んでおるんじゃ。あらゆる将がどう動くかも。いや、読んでおるのではなく、みずから仕掛けて作っておるんではないんかや……。
六左衛門はいとこが空恐ろしく思える。しかし、それぐらいのことができる者でなければ、天下は取れない。
そんなことを考えている六左衛門に西尾光教が話しかける。
「場内への将への調略はいかがする。時を待たずしてかかった方がええと思うで」
三の丸攻めはあくまでも威嚇だった。そこから先の展開、調略に進む段に来た。六左衛門は、関ヶ原の動静がもう少し明らかになるまで時を待ちたいと思った。しかし、先手は打っておかねばならない。
「城に矢文を放るんじゃ。われらは城内の者を皆殺めるつもりはない。われらとの話に応ずる将あらば、その場を設けたい、とな」
早速、矢文が大垣城内に放り込まれた。しかし、すぐに中からの返事が来るわけではない。東軍方もせっつくことはしない。
その時間が肝要じゃ。
六左衛門は単身で敵との話し合いの場に臨む、と告げた。この提案にも一同異論はなかった。
六左衛門が長く九州で鑓働きをしていたことはすっかり有名になった。何しろ、佐々、小西、加藤、立花、黒田と仕えた家もそうそうたるものである。他に適任者はいなかった。
これまでの彼を知る者なら、「あの六左が調略の使者に!?」と目を丸くしたことだろうが。
家康はそこまで考えて、六左衛門を九州勢の集まる大垣城に配置したのだ。もちろん、一番鑓以外の成果を期待しているのである。
家康が六左衛門に求めていたのは一段高い――軍の将としての力だった。
六左衛門はそれに気づいていたのだろうか。それは定かではない。
ただ、家康の考えに関係なく、六左衛門はみずからの信じる道を進むだけだった。
関ヶ原の戦いは誰もが想像していなかった展開を見せていた。
一日で終わったのである。
戦いが火蓋を切り、東軍・福島正則対西軍・宇喜多秀家、東軍・藤堂高虎と京極高知対大谷吉継(刑部)らをはじめとする諸勢が至る場で激突した。鉄砲の音が炸裂し辺り一面煙で白く曇る。兵は鑓刀を手にしての接近戦となり敵味方の区別も不明確になる中、数では劣る西軍がやや優勢の状態で東軍勢を押していた。開戦から一刻半ほど後、石田三成は一気に形勢を決めようと後方に控える西軍隊に狼煙(のろし)を上げ、進発するように命じた。
ここで異変が起こった。
西軍方に属して南宮山に配置された毛利勢の先頭に立つ吉川広家は狼煙を受けても動かなかった。このため後に続く毛利秀元隊も含め三万三〇〇〇人全体が動けなくなった。
「なぜ!?なぜ動かぬのじゃ。狼煙が見えぬはずはない」と石田三成が業を煮やして使者を走らせる中、別の方向から小早川秀秋が陣をおく松尾山に一斉射撃が加えられた。東軍勢からの銃撃である。これを合図にして、小早川秀秋は叫んだ。
「山を降りるんじゃあ!敵は大谷刑部なりっ!」
西軍方にある身で西軍の将を攻めろと命じたのだ。兵は一瞬怯んだが、「かかれえぇ、かかるんじゃあっ!」という秀秋の再度の怒声で一気に大谷隊の右翼に突っ込んでいった。
家康の命令である。吉川広家も、小早川秀秋も徳川家康と通じていたのだ。
内応していたのはそれだけではない。小早川に続く脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱らの諸将もしめし合わせたかのごとく、大谷勢に襲い掛かりなぎ倒した。その勢いは止まらず、小西行長、宇喜多秀家、大将の石田三成も一気に劣勢となり、敗走する。
九月十五日夕刻までには勝負が決した。東軍の圧勝だった。
この知らせは大垣城に籠城する西軍方、攻める機をうかがっている東軍方双方にただちに届いた。
そして、九月十六日、大垣城を守っていた相良頼房、秋月種長、高橋元種が東軍方に話し合いを申し込んだ。六左衛門は数名の従者のみを付け、夜半に大垣城の三の丸に踏み込んでいった。
「貴殿らが話し合いの場に出てきてくれたことに感謝する。他の者は最後まで戦うつもりなのかや」
六左衛門は単刀直入に三名に問うた。三名が言うには、垣見一直、熊谷直盛らの主たる将は恭順するつもりがまったくないであろうということであった。
「それならば、われらは総勢一万一千を持って、明日早暁から城に攻め入るしかあるまい。わしらも無益な犠牲は出しとうない。それにわしは九州の諸侯にさんざん世話になっとるんじゃ。皆殺しなんぞしとうはない。しかし、いたしかたないことでや、これで交渉は決裂ということでよろしいか」
六左衛門は静かに、しかし断固とした口調で言った。すると三名は顔を見合わせ、ひそひそと相談しはじめた。秋月が六左衛門に平伏した。
「恭順せん者はわしらが何とかしますけん、今しばらく時をもらいたかとです」
「もう関ヶ原の戦は終わってしもうた。一万一千が何倍にもなるじゃろう。ときはあまり待てぬ」
「承知、決してお待たせいたしませぬ」
三名は平伏して交渉の場を去った。
その夜、恭順の意を示していないと三名が言っていた垣見、熊谷、木村由信、木村豊統らは殺害された。三名は手勢を率いて直ちに大垣城を出た。
大垣城に残ったのは福原長堯の手勢だけとなった。
しかし、彼はしぶとかった。
彼は石田三成の妹を妻として娶っていた。何があろうと三成を裏切るわけにはいかなかったのである。
大垣城にはただちに威嚇のための鉄砲、大砲が大量に放たれ、耳をつんざくような轟音とともに地震のような地響きがズン、ズンと絶え間なく起こって城内の人々は生きた心地がしない。
城内には数日の間、女子や子供もいた。
大垣城の家臣の娘におあむという幼い女子がいた。おあむも数日の間籠城しその記憶を後に語っている。城内では鉄砲の弾を作ったり、討ち取った首の化粧をするなど女も子供もなく死を覚悟してつとめていたという。
八日間の籠城の後、福原長堯は九月二十三日に降伏し、城を明け渡すと申し出た。関ヶ原の合戦は一日で終わったが、その八日後のことである。六左衛門は姿を見せた福原に一礼した。籠城戦をたったひとり残った将として耐えたことに対する敬意である。
「貴殿はよう持ちこたえた」
福原はしばらく黙っていた。すでに諦念を得たようであった。
「わしはこの期に及んで命乞いはせぬ。ただ、六左衛門と申したか、貴殿は東西どちらからも一目置かれておるようじゃ。そこを見込んで一つだけ頼まれてくれぬか」
「何じゃ」と六左衛門は静かに問うた。
「わしにはようやく二歳を迎えた子がおる。年いってからの子でかわゆいてかわゆいてのう」と福原は辛そうな目をした。
六左衛門はふと、備中に残してきた長吉のことを思った。長吉と同じ歳ではないか。
福原は続ける。
「このような境遇になるのは全てわしの不徳の致すところ。しかしかわいい吾子が、まだひとり歩きも拙く、乳をせがんでおるのに、命を絶たれなければならぬとは……何とも耐えがたく」
六左衛門はつい身につまされて聞き入ってしまうが、相手は敵方の将である。それでも二歳の子供の首を刎ねるなどとは、やはり想像したくなかった。
「……わしの力など知れたもの。期待に応えられぬかもしれぬが……内府様に言上いたそう」と六左衛門は約束した。福原も心底安堵した顔になる。
「まことに、まことに感謝つかまつる。かように約してくださる御仁が一人でもおるなら、わしも心安らかに冥途に行ける。よろしく頼む」
「承知」と六左衛門はうなずく。
福原は従者に持たせた長持から短い刀を一振り取り出して、六左衛門に差し出した。
「これはわが妻の兄、石田治部少三成より賜りし名刀、正宗である。これと引き替えにわが子の命、救うてくれい。みっともないと思うておろうが、なにとぞ、後生じゃ」
おそらくは幾度も戦を経験した名刀であろう。三成より譲られた大切な宝を引き換えにするほどの最後の願いを聞き届けずにはいくまい。差し出された刀を握り、六左衛門は引き立てられていく福原の背中を見送った。
これが六左衛門の関ヶ原であった。
敵の願いごとと名刀正宗が、六左衛門の手に残った。
福原は敵の総大将石田三成の係累である。処断される他の途はない。
その子を救うなぞ、わしにできるんじゃろうか。どう考えても買いかぶりじゃ。
面倒なことを請け負ったと思う。しかし六左衛門は一人の父としての福原の子を救うようかけあってみよう、ともう決めていた。しかし家康が、あの古狸が聞く耳を持つだろうか。そこは大いに不安であった。
六左衛門は大坂城にいる家康に面会を申し出てことの子細を語り、福原の罪状が減免されるものかどうか、恐る恐る尋ねた。もちろん、否、と言われるのは分かっている。そこで子供の助命を嘆願すれば、譲歩を得られるかもしれない、そのような考えである。
家康はほう、とため息をついて、淡々と言った。
「敵方をいちいち助命しておっては、戦をする意味がなくなるわい」
「そんなことは承知、それでも申し上げつかまつる。ただただ忠義を果たし、主君の敗戦後も大垣城を守り抜いたその意気や、敵ながら天晴れではございませぬか」と六左衛門が必死に訴える。しかし、そこは家康である。微動だにしない。
「さよう、天晴れじゃ。その福原自身が潔く腹を切ると申しておる。切腹を許す。それでよかろう、何の問題がある」
今だ! 六左衛門はたたみこむように問う。
「子は何とされる」
家康は六左衛門の真意を理解したらしい。しかし、変わらず淡々と続ける。
「……こちらで沙汰はせぬ。ただ、九州では黒田が雑兵かき集め諸城を攻めとる。今、福原の子が無事という保証はないが……後はおぬしが何とかするがよい」
また黒田か、こたびは父親の方だが……と六左衛門は苦笑した。ここまでくれば、切っても切れない腐れ縁じゃのう。
「まず福原の子が無事か探索せねばなるまい」と家康のもとを退出した六左衛門はつぶやいた。
戦の前、福原長堯の子は豊前臼杵城にあった。庇護していた城主大田一吉は長堯と同じく三成に近い存在だったため、早くから子を連れて落ち延びるよう長堯の妻に勧めていた。しかし、妻女は石田三成の妹であり逃げることなどはなから考えていなかった。それでも、黒田勢が迫ってくるに及び、乳母に子を託し因幡に逃がすことにした。
六左衛門がそれを知ったのは、臼杵城が開城した後だったが、たまたま家康に拝謁するため大坂にいた吉川広家に話をして彼の領地で子を預かってもらう約束をとりつけた。子が落ち延びた地にほど近かったからである。家康は承知していたが、何も言わなかった。
その話が済むと、広家はいきなり名刀正宗の話を切り出した。
「おぬしが福原の名刀を奪ったと噂になっておるぞ」
六左衛門はやれやれとばかり、首を横に振る。
「奪ったか預かったかなど、わしと福原が知っておればよいこと。わしはただ約束を守るだけじゃ」
「つくづく、素直な男じゃのう。それが六左衛門という奴じゃ。毛利もこの先どうなるか分からぬが、福原の子は大事にお預かりできるよう手はずを整えよう」
広家の言葉に六左衛門は驚いた。毛利がどうなるかわからない……。
この関ヶ原の戦いにおいて、吉川はじめ毛利の働きは甚大であった。吉川が動かず、小早川秀秋が翻意したことで西軍は態勢をガタガタに崩し、東軍の勝利を決したのである。
「広家殿の功は大なり。なにを」と六左衛門は広家を見つめた。
広家は寂しそうに笑った。
「祖父は天下を望むなと申した。謀りごともようしたが、そこは筋が通っておった。父は武辺者じゃが、一族の結束や義を大事にしておった。わしは何があろうかのう」
「広家殿が毛利を救うたのじゃ。西軍大将の輝元殿は今回のことで言いにくきことなれど、領地没収は免れぬ。しかしおぬしがおらんかったら、もっと」と必死に六左衛門が訴える。
広家はその必死さを見て笑った。
「おぬしに慰められるとはな。のう、なぜわしが内府殿についたか分かるか」
「黒田の呼びかけと聞いたが」と六左衛門が自身の聞いた話を言う。
「ああ、直接にはそういうことじゃが、わしと黒田はさほど昵懇ではない。それだけなら断っておるわ。真の理由はふたつある。一つは秀吉に最期までなびかなかった父の思い。二つは三村殿の強き願いにほだされたからじゃ」
「親父殿の願い?」と六左衛門は聞き返した。広家はまだ微笑んだままである。
「ああ、おぬしは知らぬじゃろう。おぬしが上洛する前、懇ろに頼まれたのじゃ。六左は徳川の家臣になる。長年西国に在った身じゃ、容易には信用されぬ。しかも、黒田家とは一悶着あり、いかに内府殿の縁者とはいえ、いやだからこそ、讒言もあるだろう、と。じゃけ、土産を持たせてやりたいと申された」
「土産?」
「いざと言う時に家康に付くちゅう密約じゃ」
密約?親父殿が家康に付くと、広家殿にもそれを呼びかけたと……。
「そんな……それでは成羽は毛利本家に逆らうことになる」と六左衛門が目を見開いて言う。
毛利輝元は西軍の要だったのだ。三村がそれを違えることは許されない。
「そうさな、わしが内応しなければ、そうなった」と広家がうなずく。
「……そんな危ない橋を」
「三村親成はおぬしをまことの息子と同じに思っとるんじゃ。それに、おぬしがわしの父を小倉まで運んでくれたことを忘れるはずがない。じゃけ、これはして当然のことよ。それに、そのおかげでわが毛利一族も生き残る道を作れたんじゃ。まぁどうなるかはわからんが」と広家は微笑んだ。
人の心というものは、わしごとき、こんな小さな男ひとりによって動くものなのか、と六左衛門は思う。しかし、それに対する感謝の言葉はたったひとつしか出てこなかった。
「かたじけない」
六左衛門はうつむいた。これほどまでに三村親成が、吉川広家が自分の力になってくれていたことを改めて、痛いほど感じたのだ。
次の手はあらかじめ決めていた。三の丸が崩れたのだ。籠城する西軍方の諸将も激しく動揺している。
もとより、皆この城に在していたわけではない。ここはあくまでも一時的な詰所に過ぎないのだ。主の石田三成ですら、勝手をわかっていないだろう。もちろん城のことをよく知る者はいるが、攻め入られたときの戦術まで指南はできない。
関ヶ原で必ず家康を打ち倒し、一同が凱旋するのを待つ。そのための城なのだ。
もちろん、東軍方の六左衛門はじめ皆もその可能性があることを承知している。大垣城には七千の兵が詰めている。自勢が一万を超えているとはいっても、三の丸が落ちたからといっても、安心しているわけにはいかない。
何が起こるか分からないのが戦というものだ。
東軍が一気に打って出ても万全の勝機があるとは言えない。その場合総力戦となり、敵味方に被害が出る。一番怖いのは西軍方優勢となり、石田勢が大挙して押し寄せてきたときである。東軍勢は挟みうちにされ、一巻の終わりとなるだろう。
一兵たりとも無駄死にさせるは曲事なり。
無駄な犠牲を払うべきではない。
家康は常にそう言っている。あの古狸は――六左衛門は敬意も込めてそう言うのだが――常にどうすれば最小限の犠牲で済むかということを考えていた。ただし、あからさまに相手を騙し貶めることはしない。裏では分からないが。
こまめに方々に書状を出しておったのも、その一部に過ぎぬ。いとこはこの一連の流れを読んでおるんじゃ。あらゆる将がどう動くかも。いや、読んでおるのではなく、みずから仕掛けて作っておるんではないんかや……。
六左衛門はいとこが空恐ろしく思える。しかし、それぐらいのことができる者でなければ、天下は取れない。
そんなことを考えている六左衛門に西尾光教が話しかける。
「場内への将への調略はいかがする。時を待たずしてかかった方がええと思うで」
三の丸攻めはあくまでも威嚇だった。そこから先の展開、調略に進む段に来た。六左衛門は、関ヶ原の動静がもう少し明らかになるまで時を待ちたいと思った。しかし、先手は打っておかねばならない。
「城に矢文を放るんじゃ。われらは城内の者を皆殺めるつもりはない。われらとの話に応ずる将あらば、その場を設けたい、とな」
早速、矢文が大垣城内に放り込まれた。しかし、すぐに中からの返事が来るわけではない。東軍方もせっつくことはしない。
その時間が肝要じゃ。
六左衛門は単身で敵との話し合いの場に臨む、と告げた。この提案にも一同異論はなかった。
六左衛門が長く九州で鑓働きをしていたことはすっかり有名になった。何しろ、佐々、小西、加藤、立花、黒田と仕えた家もそうそうたるものである。他に適任者はいなかった。
これまでの彼を知る者なら、「あの六左が調略の使者に!?」と目を丸くしたことだろうが。
家康はそこまで考えて、六左衛門を九州勢の集まる大垣城に配置したのだ。もちろん、一番鑓以外の成果を期待しているのである。
家康が六左衛門に求めていたのは一段高い――軍の将としての力だった。
六左衛門はそれに気づいていたのだろうか。それは定かではない。
ただ、家康の考えに関係なく、六左衛門はみずからの信じる道を進むだけだった。
関ヶ原の戦いは誰もが想像していなかった展開を見せていた。
一日で終わったのである。
戦いが火蓋を切り、東軍・福島正則対西軍・宇喜多秀家、東軍・藤堂高虎と京極高知対大谷吉継(刑部)らをはじめとする諸勢が至る場で激突した。鉄砲の音が炸裂し辺り一面煙で白く曇る。兵は鑓刀を手にしての接近戦となり敵味方の区別も不明確になる中、数では劣る西軍がやや優勢の状態で東軍勢を押していた。開戦から一刻半ほど後、石田三成は一気に形勢を決めようと後方に控える西軍隊に狼煙(のろし)を上げ、進発するように命じた。
ここで異変が起こった。
西軍方に属して南宮山に配置された毛利勢の先頭に立つ吉川広家は狼煙を受けても動かなかった。このため後に続く毛利秀元隊も含め三万三〇〇〇人全体が動けなくなった。
「なぜ!?なぜ動かぬのじゃ。狼煙が見えぬはずはない」と石田三成が業を煮やして使者を走らせる中、別の方向から小早川秀秋が陣をおく松尾山に一斉射撃が加えられた。東軍勢からの銃撃である。これを合図にして、小早川秀秋は叫んだ。
「山を降りるんじゃあ!敵は大谷刑部なりっ!」
西軍方にある身で西軍の将を攻めろと命じたのだ。兵は一瞬怯んだが、「かかれえぇ、かかるんじゃあっ!」という秀秋の再度の怒声で一気に大谷隊の右翼に突っ込んでいった。
家康の命令である。吉川広家も、小早川秀秋も徳川家康と通じていたのだ。
内応していたのはそれだけではない。小早川に続く脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱らの諸将もしめし合わせたかのごとく、大谷勢に襲い掛かりなぎ倒した。その勢いは止まらず、小西行長、宇喜多秀家、大将の石田三成も一気に劣勢となり、敗走する。
九月十五日夕刻までには勝負が決した。東軍の圧勝だった。
この知らせは大垣城に籠城する西軍方、攻める機をうかがっている東軍方双方にただちに届いた。
そして、九月十六日、大垣城を守っていた相良頼房、秋月種長、高橋元種が東軍方に話し合いを申し込んだ。六左衛門は数名の従者のみを付け、夜半に大垣城の三の丸に踏み込んでいった。
「貴殿らが話し合いの場に出てきてくれたことに感謝する。他の者は最後まで戦うつもりなのかや」
六左衛門は単刀直入に三名に問うた。三名が言うには、垣見一直、熊谷直盛らの主たる将は恭順するつもりがまったくないであろうということであった。
「それならば、われらは総勢一万一千を持って、明日早暁から城に攻め入るしかあるまい。わしらも無益な犠牲は出しとうない。それにわしは九州の諸侯にさんざん世話になっとるんじゃ。皆殺しなんぞしとうはない。しかし、いたしかたないことでや、これで交渉は決裂ということでよろしいか」
六左衛門は静かに、しかし断固とした口調で言った。すると三名は顔を見合わせ、ひそひそと相談しはじめた。秋月が六左衛門に平伏した。
「恭順せん者はわしらが何とかしますけん、今しばらく時をもらいたかとです」
「もう関ヶ原の戦は終わってしもうた。一万一千が何倍にもなるじゃろう。ときはあまり待てぬ」
「承知、決してお待たせいたしませぬ」
三名は平伏して交渉の場を去った。
その夜、恭順の意を示していないと三名が言っていた垣見、熊谷、木村由信、木村豊統らは殺害された。三名は手勢を率いて直ちに大垣城を出た。
大垣城に残ったのは福原長堯の手勢だけとなった。
しかし、彼はしぶとかった。
彼は石田三成の妹を妻として娶っていた。何があろうと三成を裏切るわけにはいかなかったのである。
大垣城にはただちに威嚇のための鉄砲、大砲が大量に放たれ、耳をつんざくような轟音とともに地震のような地響きがズン、ズンと絶え間なく起こって城内の人々は生きた心地がしない。
城内には数日の間、女子や子供もいた。
大垣城の家臣の娘におあむという幼い女子がいた。おあむも数日の間籠城しその記憶を後に語っている。城内では鉄砲の弾を作ったり、討ち取った首の化粧をするなど女も子供もなく死を覚悟してつとめていたという。
八日間の籠城の後、福原長堯は九月二十三日に降伏し、城を明け渡すと申し出た。関ヶ原の合戦は一日で終わったが、その八日後のことである。六左衛門は姿を見せた福原に一礼した。籠城戦をたったひとり残った将として耐えたことに対する敬意である。
「貴殿はよう持ちこたえた」
福原はしばらく黙っていた。すでに諦念を得たようであった。
「わしはこの期に及んで命乞いはせぬ。ただ、六左衛門と申したか、貴殿は東西どちらからも一目置かれておるようじゃ。そこを見込んで一つだけ頼まれてくれぬか」
「何じゃ」と六左衛門は静かに問うた。
「わしにはようやく二歳を迎えた子がおる。年いってからの子でかわゆいてかわゆいてのう」と福原は辛そうな目をした。
六左衛門はふと、備中に残してきた長吉のことを思った。長吉と同じ歳ではないか。
福原は続ける。
「このような境遇になるのは全てわしの不徳の致すところ。しかしかわいい吾子が、まだひとり歩きも拙く、乳をせがんでおるのに、命を絶たれなければならぬとは……何とも耐えがたく」
六左衛門はつい身につまされて聞き入ってしまうが、相手は敵方の将である。それでも二歳の子供の首を刎ねるなどとは、やはり想像したくなかった。
「……わしの力など知れたもの。期待に応えられぬかもしれぬが……内府様に言上いたそう」と六左衛門は約束した。福原も心底安堵した顔になる。
「まことに、まことに感謝つかまつる。かように約してくださる御仁が一人でもおるなら、わしも心安らかに冥途に行ける。よろしく頼む」
「承知」と六左衛門はうなずく。
福原は従者に持たせた長持から短い刀を一振り取り出して、六左衛門に差し出した。
「これはわが妻の兄、石田治部少三成より賜りし名刀、正宗である。これと引き替えにわが子の命、救うてくれい。みっともないと思うておろうが、なにとぞ、後生じゃ」
おそらくは幾度も戦を経験した名刀であろう。三成より譲られた大切な宝を引き換えにするほどの最後の願いを聞き届けずにはいくまい。差し出された刀を握り、六左衛門は引き立てられていく福原の背中を見送った。
これが六左衛門の関ヶ原であった。
敵の願いごとと名刀正宗が、六左衛門の手に残った。
福原は敵の総大将石田三成の係累である。処断される他の途はない。
その子を救うなぞ、わしにできるんじゃろうか。どう考えても買いかぶりじゃ。
面倒なことを請け負ったと思う。しかし六左衛門は一人の父としての福原の子を救うようかけあってみよう、ともう決めていた。しかし家康が、あの古狸が聞く耳を持つだろうか。そこは大いに不安であった。
六左衛門は大坂城にいる家康に面会を申し出てことの子細を語り、福原の罪状が減免されるものかどうか、恐る恐る尋ねた。もちろん、否、と言われるのは分かっている。そこで子供の助命を嘆願すれば、譲歩を得られるかもしれない、そのような考えである。
家康はほう、とため息をついて、淡々と言った。
「敵方をいちいち助命しておっては、戦をする意味がなくなるわい」
「そんなことは承知、それでも申し上げつかまつる。ただただ忠義を果たし、主君の敗戦後も大垣城を守り抜いたその意気や、敵ながら天晴れではございませぬか」と六左衛門が必死に訴える。しかし、そこは家康である。微動だにしない。
「さよう、天晴れじゃ。その福原自身が潔く腹を切ると申しておる。切腹を許す。それでよかろう、何の問題がある」
今だ! 六左衛門はたたみこむように問う。
「子は何とされる」
家康は六左衛門の真意を理解したらしい。しかし、変わらず淡々と続ける。
「……こちらで沙汰はせぬ。ただ、九州では黒田が雑兵かき集め諸城を攻めとる。今、福原の子が無事という保証はないが……後はおぬしが何とかするがよい」
また黒田か、こたびは父親の方だが……と六左衛門は苦笑した。ここまでくれば、切っても切れない腐れ縁じゃのう。
「まず福原の子が無事か探索せねばなるまい」と家康のもとを退出した六左衛門はつぶやいた。
戦の前、福原長堯の子は豊前臼杵城にあった。庇護していた城主大田一吉は長堯と同じく三成に近い存在だったため、早くから子を連れて落ち延びるよう長堯の妻に勧めていた。しかし、妻女は石田三成の妹であり逃げることなどはなから考えていなかった。それでも、黒田勢が迫ってくるに及び、乳母に子を託し因幡に逃がすことにした。
六左衛門がそれを知ったのは、臼杵城が開城した後だったが、たまたま家康に拝謁するため大坂にいた吉川広家に話をして彼の領地で子を預かってもらう約束をとりつけた。子が落ち延びた地にほど近かったからである。家康は承知していたが、何も言わなかった。
その話が済むと、広家はいきなり名刀正宗の話を切り出した。
「おぬしが福原の名刀を奪ったと噂になっておるぞ」
六左衛門はやれやれとばかり、首を横に振る。
「奪ったか預かったかなど、わしと福原が知っておればよいこと。わしはただ約束を守るだけじゃ」
「つくづく、素直な男じゃのう。それが六左衛門という奴じゃ。毛利もこの先どうなるか分からぬが、福原の子は大事にお預かりできるよう手はずを整えよう」
広家の言葉に六左衛門は驚いた。毛利がどうなるかわからない……。
この関ヶ原の戦いにおいて、吉川はじめ毛利の働きは甚大であった。吉川が動かず、小早川秀秋が翻意したことで西軍は態勢をガタガタに崩し、東軍の勝利を決したのである。
「広家殿の功は大なり。なにを」と六左衛門は広家を見つめた。
広家は寂しそうに笑った。
「祖父は天下を望むなと申した。謀りごともようしたが、そこは筋が通っておった。父は武辺者じゃが、一族の結束や義を大事にしておった。わしは何があろうかのう」
「広家殿が毛利を救うたのじゃ。西軍大将の輝元殿は今回のことで言いにくきことなれど、領地没収は免れぬ。しかしおぬしがおらんかったら、もっと」と必死に六左衛門が訴える。
広家はその必死さを見て笑った。
「おぬしに慰められるとはな。のう、なぜわしが内府殿についたか分かるか」
「黒田の呼びかけと聞いたが」と六左衛門が自身の聞いた話を言う。
「ああ、直接にはそういうことじゃが、わしと黒田はさほど昵懇ではない。それだけなら断っておるわ。真の理由はふたつある。一つは秀吉に最期までなびかなかった父の思い。二つは三村殿の強き願いにほだされたからじゃ」
「親父殿の願い?」と六左衛門は聞き返した。広家はまだ微笑んだままである。
「ああ、おぬしは知らぬじゃろう。おぬしが上洛する前、懇ろに頼まれたのじゃ。六左は徳川の家臣になる。長年西国に在った身じゃ、容易には信用されぬ。しかも、黒田家とは一悶着あり、いかに内府殿の縁者とはいえ、いやだからこそ、讒言もあるだろう、と。じゃけ、土産を持たせてやりたいと申された」
「土産?」
「いざと言う時に家康に付くちゅう密約じゃ」
密約?親父殿が家康に付くと、広家殿にもそれを呼びかけたと……。
「そんな……それでは成羽は毛利本家に逆らうことになる」と六左衛門が目を見開いて言う。
毛利輝元は西軍の要だったのだ。三村がそれを違えることは許されない。
「そうさな、わしが内応しなければ、そうなった」と広家がうなずく。
「……そんな危ない橋を」
「三村親成はおぬしをまことの息子と同じに思っとるんじゃ。それに、おぬしがわしの父を小倉まで運んでくれたことを忘れるはずがない。じゃけ、これはして当然のことよ。それに、そのおかげでわが毛利一族も生き残る道を作れたんじゃ。まぁどうなるかはわからんが」と広家は微笑んだ。
人の心というものは、わしごとき、こんな小さな男ひとりによって動くものなのか、と六左衛門は思う。しかし、それに対する感謝の言葉はたったひとつしか出てこなかった。
「かたじけない」
六左衛門はうつむいた。これほどまでに三村親成が、吉川広家が自分の力になってくれていたことを改めて、痛いほど感じたのだ。
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