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ワトソン君、ちょっと来たまえ
しおりを挟む編集主幹が一心不乱に原稿を叩き始めたので、私もタイプライターの前に座り手持ちのメモをくくったのだが、どうにも作業が進まない。とにかく必要な事柄を抜き出し組み立て、タイプをしはじめた。ことの展開にまだついていけなかった。
私がこのなりゆきに戸惑った理由を述べてみよう。
五〇年近く前、ジェイコブ・ブレットは兄とともに、通信ケーブルを携えてドーバー海峡に海の道を開いた。私もそれは知識として持っていた。
ただ、今は一八九八年である。
すでに大西洋には十五本の海底通信ケーブルが敷かれ、英国ー米国間通信は磐石なものになっていた。インド洋も大西洋も同様である。困難なのは太平洋だったが、試行錯誤の中、敷設工事が行われているところだった。じきに開通されることだろう。すでに英国ー米国だけではなく、フランスもロシアもケーブルを敷いている。
これらは海底ケーブルの話で、陸の方はもっと速度が早かった。ヨーロッパ大陸はもとより、南北のアメリカ大陸、インド、中国、日本、アフリカの一部など主要都市を結ぶ通信網がすでに整備されている。
これは最も強調したいが、五〇年前には電信で文字を伝えることしかできなかったのが、今は音声を伝えるのが日常となっている。
グラハム・ベル博士が、
「ワトソンくん、用があるからちょっと来たまえ」と電話で助手を呼んでから、すでに二〇年以上経っている。(※1)それはベイカー街のシャーロック・ホームズ氏の台詞に継承されているのかもしれないが、すべては日進月歩なのである。
そのような今、過去の人の訃報のために、短信ではなく一ページを丸々空けて、直近の号に入れようとする理由が分からなかった。
そのように私が不思議がっている間も、主幹のレミントンはカタカタとリズムを刻み続けていた。私も急いで記事を仕上げ、デスクに持参した。
彼は手を止めて原稿を見ると、「いいだろう。お疲れだったな」とだけ言ってまた原稿書きに戻った。いつもならば細かく修正の指示があり、打ち直しになることも珍しくない。一発で可が出るのは稀有なことだった。緊急に入れる記事なので、人の分まで細かく直している暇がないのだろう。
てんやわんやだったが、『THE ELECTRICIAN』一月一五日号における私の担当部分は終了した。
ジェイムス・グレイは一仕事を終えると首をあちこちにひねって肩を揉んでいた。一気呵成に作業したので身体が凝り固まったらしい。寒い冬だし、若くないのだから仕方のないことだ。マッサージが一通り済むと彼はいったん書庫に行ってすぐ戻ってきた。そして、他の編集部員の机に置いてある『ザ・ストランド・マガジン』(The Strand Magagine)を手に取ると、大きな声で言った。
「今日は二日分働いたようだ。これから食事をして、そのまま帰る。この雑誌を明日まで貸してくれないか」
「いいですよ。ボクシングの名手ホームズ氏の話も出ていたかと思います」と持ち主が答える。
「うん、ボクシングの名手か。なかなかよい視点だ」とウィンクをして、帽子を被り去っていこうとする主幹に向かって、私は声を掛ける。
「ん、スミス君、どうした? 君も疲れたか。この一報を知らせてくれただけでも金星だ。帰ってもいいぞ」と彼はにこやかに言う。
私は一瞬ためらったが、言ってみることにした。
「いえ、疲れてはいません。記事は主幹がほとんど書かれましたし。ただ、不思議なのです。ジェイコブ・ブレット氏はそれほどの重要人物なのでしょうか。急遽ページを割くほどの……」
主幹は目を丸くして私を見てから、その目を天井の方に向けた。少し考えているようだった。
「それはよい質問だ。できた記事を見てもらえば分かると思うが……それまで待てと言うのも野暮だ。何ならちょっと食事にでも行くか」
「はい」と私はただちに応じた。
外に出ると、グレイト・ベルの正時を告げる鐘の音が一帯に響いていた。『ビッグ・ベン』と通称されるこの鐘は三時を告げていた。
「ビールを半パイントだ。それ以上はよろしくないな。ラム酒がいいって? まあ、少しならばいいだろう」
ほどほどで切り上げるという趣旨だった。
しかし、その発言は続く彼の行動で完膚なきまでに打ち消される。
行きつけのパブに入ると、グレイは穴を開けた樽から迸るウィスキーのように喋り始めたのだ。食事も何もあったものではない。鰊の燻製ぐらいは頼んでくれてもよかっただろうと思う。もっとも、樽に穴を開けたのは他でもない私だったので、上司を責めるわけにもいかない。
以下はほぼ、ほぼジェイムス・グレイの一人語りである。ときどき私に質問してきたので、手短に答えているが全体としては些末なものだろう。
私はできるだけ正確に再現するだけである。
そう、このときの自分を思い出すと、すっかり「ワトソン君」の体(てい)になっていたようだ。
※1 世界発の音声通信で交わされた言葉。
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