ブリストルの兄弟ーThe Modern World Never Concerns

尾方佐羽

文字の大きさ
2 / 8

ワトソン君、ちょっと来たまえ

しおりを挟む

 編集主幹が一心不乱に原稿を叩き始めたので、私もタイプライターの前に座り手持ちのメモをくくったのだが、どうにも作業が進まない。とにかく必要な事柄を抜き出し組み立て、タイプをしはじめた。ことの展開にまだついていけなかった。

 私がこのなりゆきに戸惑った理由を述べてみよう。

 五〇年近く前、ジェイコブ・ブレットは兄とともに、通信ケーブルを携えてドーバー海峡に海の道を開いた。私もそれは知識として持っていた。

 ただ、今は一八九八年である。
 すでに大西洋には十五本の海底通信ケーブルが敷かれ、英国ー米国間通信は磐石なものになっていた。インド洋も大西洋も同様である。困難なのは太平洋だったが、試行錯誤の中、敷設工事が行われているところだった。じきに開通されることだろう。すでに英国ー米国だけではなく、フランスもロシアもケーブルを敷いている。
 これらは海底ケーブルの話で、陸の方はもっと速度が早かった。ヨーロッパ大陸はもとより、南北のアメリカ大陸、インド、中国、日本、アフリカの一部など主要都市を結ぶ通信網がすでに整備されている。

 これは最も強調したいが、五〇年前には電信で文字を伝えることしかできなかったのが、今は音声を伝えるのが日常となっている。
 グラハム・ベル博士が、
「ワトソンくん、用があるからちょっと来たまえ」と電話で助手を呼んでから、すでに二〇年以上経っている。(※1)それはベイカー街のシャーロック・ホームズ氏の台詞に継承されているのかもしれないが、すべては日進月歩なのである。
 そのような今、過去の人の訃報のために、短信ではなく一ページを丸々空けて、直近の号に入れようとする理由が分からなかった。

 そのように私が不思議がっている間も、主幹のレミントンはカタカタとリズムを刻み続けていた。私も急いで記事を仕上げ、デスクに持参した。
 彼は手を止めて原稿を見ると、「いいだろう。お疲れだったな」とだけ言ってまた原稿書きに戻った。いつもならば細かく修正の指示があり、打ち直しになることも珍しくない。一発で可が出るのは稀有なことだった。緊急に入れる記事なので、人の分まで細かく直している暇がないのだろう。

 てんやわんやだったが、『THE ELECTRICIAN』一月一五日号における私の担当部分は終了した。
 
 ジェイムス・グレイは一仕事を終えると首をあちこちにひねって肩を揉んでいた。一気呵成に作業したので身体が凝り固まったらしい。寒い冬だし、若くないのだから仕方のないことだ。マッサージが一通り済むと彼はいったん書庫に行ってすぐ戻ってきた。そして、他の編集部員の机に置いてある『ザ・ストランド・マガジン』(The Strand Magagine)を手に取ると、大きな声で言った。
「今日は二日分働いたようだ。これから食事をして、そのまま帰る。この雑誌を明日まで貸してくれないか」
「いいですよ。ボクシングの名手ホームズ氏の話も出ていたかと思います」と持ち主が答える。
「うん、ボクシングの名手か。なかなかよい視点だ」とウィンクをして、帽子を被り去っていこうとする主幹に向かって、私は声を掛ける。

「ん、スミス君、どうした? 君も疲れたか。この一報を知らせてくれただけでも金星だ。帰ってもいいぞ」と彼はにこやかに言う。
 私は一瞬ためらったが、言ってみることにした。
「いえ、疲れてはいません。記事は主幹がほとんど書かれましたし。ただ、不思議なのです。ジェイコブ・ブレット氏はそれほどの重要人物なのでしょうか。急遽ページを割くほどの……」

 主幹は目を丸くして私を見てから、その目を天井の方に向けた。少し考えているようだった。

「それはよい質問だ。できた記事を見てもらえば分かると思うが……それまで待てと言うのも野暮だ。何ならちょっと食事にでも行くか」
「はい」と私はただちに応じた。

 外に出ると、グレイト・ベルの正時を告げる鐘の音が一帯に響いていた。『ビッグ・ベン』と通称されるこの鐘は三時を告げていた。
「ビールを半パイントだ。それ以上はよろしくないな。ラム酒がいいって? まあ、少しならばいいだろう」

 ほどほどで切り上げるという趣旨だった。
 しかし、その発言は続く彼の行動で完膚なきまでに打ち消される。
 行きつけのパブに入ると、グレイは穴を開けた樽から迸るウィスキーのように喋り始めたのだ。食事も何もあったものではない。鰊の燻製ぐらいは頼んでくれてもよかっただろうと思う。もっとも、樽に穴を開けたのは他でもない私だったので、上司を責めるわけにもいかない。

 以下はほぼ、ほぼジェイムス・グレイの一人語りである。ときどき私に質問してきたので、手短に答えているが全体としては些末なものだろう。
 私はできるだけ正確に再現するだけである。

 そう、このときの自分を思い出すと、すっかり「ワトソン君」の体(てい)になっていたようだ。

※1 世界発の音声通信で交わされた言葉。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

 【最新版】  日月神示

蔵屋
歴史・時代
 最近日月神示の予言本に不安を抱いている方もあると思うがまったく心配いらない。  何故なら日月神示では「取り越し苦労や過ぎ越し苦労はするな!」 「今に生きよ!」  「善一筋で生きよ!」  「身魂磨きをせよ!」  「人間の正しい生き方」  「人間の正しい食生活」  「人間の正しい夫婦のあり方」  「身も心も神さまからお借りしているのじゃから夜になって寝る前に神さまに一旦お返しするのじゃ。そうしたら身と心をどのようにしたらよいか、分かるじゃろ!」  たったのこれだけを守れば良いということだ。  根拠のない書籍や情報源等に惑わされてはダメだ。  日月神示も出口王仁三郎もそのようなことは一切言っていない。  これらの書籍や情報源は「日月神示」が警告する「臣民を惑わすものが出てくるから気をつけよ!」 という言葉に注目して欲しい。  今回、私は読者の皆さんに間違った解釈をされている日月神示を分かりやすく解説していくことにしました。  どうか、最後までお読み下さい。  日月神示の予言については、私が執筆中の「神典日月神示の真実」をお読み下さい。    

日露戦争の真実

蔵屋
歴史・時代
 私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。 日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。  日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。  帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。  日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。 ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。  ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。  深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。  この物語の始まりです。 『神知りて 人の幸せ 祈るのみ 神の伝えし 愛善の道』 この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。 作家 蔵屋日唱

if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜

かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。 徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。 堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる…… 豊臣家に味方する者はいない。 西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。 しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。 全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。

ヤバイ秀吉

魚夢ゴールド
歴史・時代
題名通り、性格をヤバくした羽柴秀吉の伝記モノです。 【毎週木曜日に公開】

影武者の天下盗り

井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」 百姓の男が“信長”を演じ続けた。 やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。 貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。 戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。 炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。 家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。 偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。 「俺が、信長だ」 虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。 時は戦国。 貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。 そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。 その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。 歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。 (このドラマは史実を基にしたフィクションです)

処理中です...