16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第3章 フィガロは広場に行く1 ニコラス・コレーリャ

マントヴァのアテナ 1511年頃 マントヴァとフィレンツェ

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〈マントヴァ侯爵妃イザベッラ・デステからフィレンツェの官吏ニッコロ・マキアヴェッリへの手紙〉
※中の見出しは筆者が付した。

拝啓 ニッコロ・マキアヴェッリさま


 フィレンツェにお戻りと伺いましたのでお便りさしあげたくペンを取りました。フランスにあなたがずいぶん長く逗留(とうりゅう)され、フィレンツェがこの危機にどう対処すべきか十分に当該国と話をし、調整されて来たことと存じます。遠路はるばる、おつかれさまでした。また、フランスのお話など教えていただけたら幸甚(こうじん)に思います。

 それにしても羨ましい。私は妃という立場上、ルイ12世やマクシミリアン帝、フェルナンド王に会いに行くなどということは叶わないのですから。

 そういえば、グイッチャルディーニから、あなたが彼に宛てた私信の話も耳にしましたよ。彼が、「マントヴァ候の奥方様にははなはだ不愉快な内容ですから」と著しくためらったことだけは付しておきましょう。私には愉快でしたけれど。
 殿方にはいろいろな楽しみがありますが、マントヴァにおいては情報が宝飾品より高価なのですから、くれぐれもお忘れなきよう。

(注:マキアヴェッリが出張中に、見目麗しくない豪傑といった容貌の売笑婦に出くわした件を指していると思われる。彼はそれを上品ではない類いの喜劇仕立てにして、グィッチャルディーニに送ったのだ)

 私どもの武器は情報と手紙と交渉、そして、それを描く頭です。


【マントヴァの苦境】

 さて、本題に移りましょう。

 私どもマントヴァ、そして弟アルフォンソが領するフェラーラもいまだかつてない危機に瀕していることを、あなたももちろん承知されておられるでしょう。ヴェネツィアを膝まずかせるのだと息巻いていた教皇猊下(げいか)が、今度はフランスとフェラーラを攻めるのだとおっしゃる。弟のところではもうそれを回避するのは難しいようです。

 私どもマントヴァでも、厳しい綱渡りが続いております。さきのパドヴァの戦いの前哨戦で、私の夫、フランチェスコ・ゴンザーガ(マントヴァ侯爵)があろうことかヴェネツィアの捕虜になりました。まったくわが夫ながら情けないことです。

 教皇猊下とヴェネツィアの和睦が成りましたので、すぐに夫が返されるものだと思っておりましたが、なかなか戻らない。そのうち、「マントヴァ侯をヴェネツィア軍の総司令官にする」などという風聞(ふうぶん)が聞こえてくる始末です。じきに正式に通達がきました。昨日までの捕虜を今日は総司令官にするとは笑止千万(しょうしせんばん)、ふざけた考えだと言わざるを得ません。

 ああ、もちろんあなたにはその趣旨が容易に分かるでしょう。フェラーラと繋がりの濃いマントヴァを引き離そうということですが、あまりにも稚拙な考えではありませんか。

 たいていの戦争がそのように稚拙な、幼児でも分かるような考えで為されているのには失笑を禁じ得ませんが、大変なのはそれをどううまく切り抜けるか、どう知恵を絞るかなのです。その点、あなたは私のしていることに、深い理解を示してくれる方であると存じます。

 なぜ、妃の私が知恵を絞らなければならないのかという点については、お答えするまでもないでしょう。弟アルフォンソの妻(ルクレツィア)のように何も案じることなく、悠々と育児をして過ごせたらどれほどよかったか!

 しかも、当のヴェネツィアも、マントヴァが教皇猊下に付くことを恐れたマクシミリアン1世からも、私の息子フェデリーコを人質として寄越せと言ってきたのです。息子を2つに分けることなどできませんし、どちらかに出すことはそちらに付くことを意味します。そんなことはできるはずがないでしょう。

 夫は、ヴェネツィアに私を人質に取れと進言したようです。 
 まぁ、「あんな妻はくれてやるから俺を解放しろ」ということですね。
 もう、文句を言う気にもなりません。妻へのあてこすりのような真似をしても、返ってヴェネツィア人の哄笑の的になるだけです。それがどうしてわからないのでしょう。私がしずしずと夫に従う女ならそんなことを言わないのでしょうが、そうしたらもうマントヴァはとっくにどこかのものになっていましたよ。

 さて、このようなとき、フィレンツェの有能な外交官さまならどうされますか。
 ひとつ忠告申し上げますわ。奥さまを決して軽々しく扱ってはなりませんよ。


【どう切り抜けるか】

 教皇猊下はたいへんに感情的でした。
 フェデリーコを早く寄越せと、それはもう矢のような催促。それはできないと、私は突っぱねたのです。ここで、「考えるから時間がほしい」などという曖昧な返答をしても、こちらに有利な結果は引き出せませんでしょう。表現はもっと柔らかくいたしましたよ。「母親としてその条件にお応えするのはこの身を切られるように辛く……」というように。

 そのうちに、猊下の態度が少しずつ変わってきたのです。フェデリーコはテコでも動かさないという趣旨が伝わったのでしょう。初めはヴェネツィアの夫と引き換えだったのが、次はウルビーノ公国へと。

 教皇猊下は条件を緩くするときに、「あのブッターナ(売女)め!」と呪いの言葉を吐いていたそうですが、猊下がそんな言葉をお使いになってはいけません。

 私が国を売ることは決してありませんけれど。

 教皇猊下にはーー忍耐心というものが欠けているのです。いいえ、熟考することかしら。枢機卿の時代にさんざん堪え忍んでこられたはずですから。戦いに勝つには、武力のあるなしに関わらず、熟考し、決定したら果断に実行すること。方向をくるくると変えてはならないのです。
 教皇猊下にはそれがない。

 だから私どもやあなたのフィレンツェが難渋(なんじゅう)するのです。一番大変なのは弟のフェラーラですが。

 ルクレツィアの兄、チェーザレ・ボルジアにはそれがありました。彼の野望は果てしなく大きなものでしたが、常に現実に目を向けており目的がはっきりしておりました。交渉相手としてはなかなか好敵手だったと思っております。

 あなたもそうお考えでしょう。

 教皇猊下とやりとりをしている間、私が途方に暮れているわけにはいきませんでした。もちろんあなたなら、私が(神聖ローマ帝国の)マクシミリアン1世とも、フランスともやりとりをしていたことは、容易に想像できるでしょう。
 特にマクシミリアン1世はこの戦争をだいぶ客観的にお考えでしたから、話がしやすかった。かの皇帝は生え抜きの自軍、ランツクネヒトに実戦の場を与えたいと強くお考えでしたから、小競り合いごときで引っ張り出されたくはなかったのですよ。かの国の威厳を示すことが一番だったとわたしは思います。それは、アニャネッロの戦いの様子を見ても分かりました。
 ですから、こちらの方が交渉の余地が大いにあると思いましたの。

 私、マクシミリアン陛下の特使にお伝えしたのですよ。
「このままでは、私の息子は無理やり連れ去られてしまうでしょう。夫も戻ってはきますまい。抵抗することもなく、同盟軍に協力してきたこの小さな国がどうしてこんな目に合わなければいけないのでしょう……」
 そう言って特使の前でさめざめと泣きました。特使も同情的で、「これは教皇軍を牽制(けんせい)するための方策なのです」と逆に慰めてくるほどで。

 私は申しました。もし教皇猊下にフェデリーコを渡したくないということであれば、神聖ローマ帝国が本気なのだと広くお示しいただきたい。そして、いざというときに使う手段が貴国にはおありでしょう、と。

 特使にはその意味がよく伝わったようです。それを皇帝陛下にはかることをお約束して下さったのです。

 どんな手段かって? もう聞いておられると思います。


【現実を見なければいけない】

 でも念のため書き綴っておきましょう。

 神聖ローマ帝国のマクシミリアン1世は私どもの立場を汲んで下さり、このような布告を打ってくださいました。

「マントヴァ侯爵の令息フェデリーコを、教皇猊下に恭順したヴェネツィアに人質として渡すのであれば、わが軍は南下を開始し、イタリア半島に進出するであろう」

 これは一見私どもへの脅しですけれども、ローマに対して神聖ローマ帝国が本格的に侵入するという、本気の、宣戦布告に等しいものなのです。さすがに教皇猊下も慌てられました。フランスとフェラーラを相手にする算段はしていたけれど、神聖ローマ帝国が本格的に軍勢を半島に進めたらどのようなことになるか。いくら何でも想像できるでしょう。

 これで教皇猊下は最終的な譲歩案を出されたのです。
 夫フランチェスコ・ゴンザーガをマントヴァに戻すこと、息子フェデリーコをローマに人質として出すこと。その2つが示されました。他でもない、教皇庁での人質と言うことであればこちらも譲らざるを得ません。私の弟イッポーリト(アルフォンソの次男とは別)が枢機卿をしていますからね。その点で連絡が密に取れると考えました。それに、フェデリーコをカスタル・サンタンジェロの地下牢に放り込むなどということになれば、マクシミリアン1世にまた進軍の口実を与えることになる。

 こうして、息子はしばらく留学させるつもりでローマに出し、夫はマントヴァに戻ってくることになりました。まずまずの結果だと私は思っています。

 本当のところを申し上げれば、マクシミリアン1世がマントヴァを絡め手で助けて下さったのは、私のもうひとつの提案に感謝されてのことだったでしょう。相手にとって何の得もなければ、動くことはありません。それはあなたもよくお分かりのはず。

 ええ、そうです。
 公会議の召集を呼びかけたらいかがでしょうと申し上げたのです。マクシミリアン1世とルイ12世が共同で呼びかければ、公会議を召集せざるを得ない。ルイ12世はイタリア半島に対する戦略を建て直せるし、マクシミリアン1世の発言力は増す。教皇猊下もその間に指導力を示す機会を作れる。
 この場合、戦争はお預けになりますから、教皇猊下にとってはあまり喜ばしいことではないかもしれません。

 さっそく、神聖ローマ帝国とフランスで調整が始まったようです。


 ずいぶんと長く書いてしまいました。

 いずれにしても、現実というものをよくよく見ないといけません。戦争ならば、どの国に影響力があるのか、自国にはどのような手段が取れるのか、現実を見て、粘って粘って考えなければなりません。特に私どものような小国はそうしなければ生き残っていけないのです。

 今回、マントヴァは中立的な立場でひとまず落ち着くこととなりました。これからはフェラーラを、弟のことを考えなければなりません。お互い別の国であるとは言っても、やはり血を分けた兄弟のことですから。

 最後にひとつだけお知らせしておきましょう。あなたがフィレンツェ市民軍の司令官として招いたことのある、ミケーレ・ダ・コレーリアの子がいまフェラーラにいます。あなたの名前にちなんで、ニコラスと付けたようですよ。ミケーレの妻ともども元気で過ごしているようです。
 そのような事情もございますので、ぜひ、フィレンツェというよりあなたにもフェラーラの安寧を祈っていただきたいと存じます。

 それだけ申し添えてペンを置くこととします。

 なお、この手紙は極秘文書ですので、マントヴァの名馬の鞍の下に、厳重に封かんをして従者に持たせます。返信も同様にしてくださいますよう。

 教皇猊下がミサを外して戦場の最前線に向かおうとする限り、戦争はまだ続くでしょう。フィレンツェに幸多からんことを。

  マントヴァ侯爵妃 イザベッラ・デステ


◆ー◆ー◆


「こんなに長い手紙に、どう返信しろというのだ。もうマントヴァの馬も去っていってしまった」

 イザベッラ・デステからの手紙を折り畳みながら、ニッコロ・マキアヴェッリはため息をついた。
 彼女の知略にはマキアヴェッリもかねがね敬意を抱いていた。戦争を仕掛けて勝利するのが「政治」ならば、それを上手に回避するのもまた、「政治」なのだ。その点、彼とマントヴァ侯爵妃には相通じるものがある。

 それにしても、今回の件について、彼女の手際は本当に見事だった。彼女ぐらいの知力、交渉能力を皆が持っていたなら、戦争など起こらないのかもしれないが。

「しかし、これは私にとっても極秘文書だ……墓まで持っていこうと思っているのに……私の秘密まで握っているとは、まったくあなどれない。しかし、マントヴァのアテナ(知恵の女神)には敬服するしかない。私ももう少し粘らなければな……」

 マキアヴェッリは苦笑いしつつ、感服して手紙をまた取り出す。そしてまた、じっくりと読む。

「ニコラスか……あの鍛冶屋の娘が産んだのか……会ってみたいものだ」

 疲れきった旅人が温かい食事を前にしたときのように、マキアヴェッリはにっこりと微笑んでいた。

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