16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第9章 手折られぬひとつの花 カトリーヌ・ド・メディシス

貴婦人の乗馬 1534年 パリ

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〈カトリーヌ・ド・メディシス、オルレアン公アンリ、ディアンヌ・ド・ポワティエ、フランソワ1世、マリア・サルヴィアーティ〉

 カトリーヌの実家、メディチ家の嵐の気配はフランスまで届かない。
 何より、カトリーヌには新しい環境に馴染むという大きな課題があった。

 夫アンリとの関係をほのめかすディアンヌもいる。まだ身体の関係はないというのがもっぱらの噂だが、その伝家の宝刀はいつか抜かれることになるだろう。その点について、マリアは牽制の手を緩めまい、カトリーヌを守るのだという使命に燃えていた。
 いくらか他にもカトリーヌを『イタリアの商人上がり』と見下している人間はいたが、それはまだ問題にはならなかった。
 パリに着いたときは冬が我がもの顔でのし歩いていたが、すぐに季節は変わりはじめた。枯れていた木々に、芝生に、緑はぽつりぽつりと表れる。カトリーヌの住む館にもヒバリの声がチチチチ……と響くようになった。

「ああ、もう春なのね」とカトリーヌは窓辺でつぶやく。春が来れば、もうすぐ15歳になる。
 そして彼女は、ふともの思いに耽る。

 14歳というくくりの1年は嫁ぐためにまるごと使うことになってしまった。自分が指一本動かさずに、これだけの大事がなされてしまった。あれだけの人が動き、私は結婚し女になった。カトリーヌにとって、男と女のすることだけは予習ができないことだった。朧気に手順は聞くにせよ、それを実際に経験するとまったく事前の知識が役に立つものではないと気づく。

 夫とはたくさん褥をともにしている。それがこの心細い冬の唯一のぬくもりだった。はじめの頃こそ、すぐ脇に控えて「ことが無事になされたか」を確かめる人が常駐しているのにおののいて、羞恥心しか感じなかった。

 そのうち外野は意識の外に追い出せるようになる。

 カトリーヌは夫の身体のぬくもりを控えめに求めるようになった。
 それはすなわち、愛するということなのだ。
 イッポーリトの面影はすでに、心のずっと奥にしまわれて鍵をかけられている。叶うことがないのだからそうするしかない。

 春になると、カトリーヌはマリアをはじめイタリアからの侍女たち、そして宮廷側の女官たちと外に散策に出るようになった。外といっても与えられた邸宅の庭とその周辺の小さな森ほどの範囲だった。

 モンマルトルの丘に上がったり、セーヌ川の左岸に足を伸ばせばパリ大学のフランシスコ・ザビエルに会えたかもしれないのだが、現実にはならなかったようだ。

「馬には乗らないの?」とカトリーヌは一同に尋ねる。
「男性がいないとわたくしどもは乗ることができませんの」とフランス人の女官が答える。
「え、どうして」とカトリーヌは尋ねる。
「それは、男性が手綱を取って女性はその後ろに座るものだからです」
 カトリーヌは女官の話を聞く。そして、
「そうなのね。マルセイユからここに来るときにも、女性がひとりで乗っているのは見なかったのはそういうわけなのね。二人用の鞍をよく使うのも合点がいったわ」とカトリーヌはうなずく。

 この頃は女性が馬に乗る場合、横向きに腰かけ両脚は揃えておくのが「しきたり」だった。もちろん、例外はあっただろう。甲冑を身につけて戦いに出る女性も少数ながらいたのだから(例えばジャンヌ・ダルクのような)。ただ、宮廷に仕えるような身分の女性が馬にまたがるようなことはまずなかったのだ。

 イタリア半島でもそれは同じだった。しかし、男性が常に前にいなければならないということではなかった。
「馬を一頭、連れてきてもらえないかしら。鞍は一人用で構わないわ」
 カトリーヌがそう頼むと、馬丁がすぐに馬を一頭引いてきた。
 カテリーナは手伝いを求めず、足を鐙(あぶみ)にかけてスッと腰かける。もちろん横向きにだ。周りのフランスの女官たちは目を丸くしてそれを見ている。一方、イタリアの女性たちはさほど驚いていない。カトリーヌが何をするか、もうわかっているからだ。
 カトリーヌはできるだけ鞍の前方に座り、両脚を組むほどに寄せて手綱を取った。そして軽く馬に合図を出し、ともに進んでいく。馬はギャロップで軽快に歩を重ねる。

 一同から、ほぅというため息がわき上がる。

「少し腰をひねらなければいけないけれど、こうすれば女性ひとりでも十分馬に乗れるのよ。鞍は少し改良した方がいいかもしれないし、バランスを取る練習が必要。ドレスの裾も長めの方がエレガンテね。でも、それだけ気をつければ自由に馬に乗ることができるの」

 さっそくフランスの女官たちが寄ってきて、にわかの乗馬教室がはじまった。さすがに最初からカトリーヌのようにできるはずはなく、鐙に脚をかけるところから大騒ぎになったが、飲み込みの早い女官が一人、早くも手綱を操ってはしゃいでいる。
「わあ、本当に乗れましたわ!」

 マリア・サルヴィアーティはその様子を微笑んで眺めている。
 このようにカトリーヌのよい性質、気さくで知的な部分がうまく宮廷の人々に受け入れられれば、彼女はもっと水を得た魚のように生き生きとできるだろう。
 そう考えていたのだ。
 
 一方、女官たちの先生役をしながらも、カトリーヌはフィレンツェのアレッサンドロのことを思い出していた。
 物心ついた頃から、彼女が馬に乗るときはいつもアレッサンドロが付き添ってくれた。二人乗りをしたこともあったが、たいていはカトリーヌがひとりで乗って、アレッサンドロが馬を引く役をしていた。アレッサンドロは長身で大人と同じように馬を扱えたので、適役だっただろう。

 あの頃はアレッサンドロを本当の兄だと、たったひとりの家族だと信じて疑わなかった。

 カトリーヌはそれを思い出して一瞬だけ表情を曇らせた。あの頃は、フィレンツェが平和だった頃は、こんな風になるなんて思いもしなかった。
 できることなら、小さかったあの頃に戻りたい……。

 それが遠い日の蜃気楼のように思えて、彼女は涙がこぼれそうになる目を袖でそっとぬぐった。

 誰もそのことに気がつかない。

 カトリーヌの「貴婦人の乗馬法」はあっという間にフランス宮廷じゅうに広がった。多少不自由な体勢にはなるが、パーリオ(イタリアの競馬)のように馬を駆けさせて競うのでなければ、問題のない方法だ。

 国王のフランソワ1世もその話に大いに興味を示した。もともと賢い娘だと思っているのだが、乗馬も達者だと知ってまたカトリーヌの評価が一段上がったのだ。

「これは頼もしい。この先フランス軍にアマゾネス団(女軍)を創設してもよいかもしれない。カトリーヌには司令官として存分に活躍してもらおう。何しろメディチの係累には黒隊のジョヴァンニという勇者がいるのだから」
 まじめにそう考えて言っているかはわからないが、側に付く愛妾は眉をひそめる。
「ははは、そなたにはもう無理だろう」
 軽口を叩いたフランソワ1世は腕をつねられて、「痛っ」と顔をしかめた。

 このように、カトリーヌはイタリア半島の風を少しずつフランスに吹かせるようになっていた。

 さて、この話にはひとつ後日談がある。
 カトリーヌの「貴婦人の乗馬」の話を聞いて、地団駄を踏んだ人がいるのだ。
 何を隠そう、ディアンヌ・ド・ポワティエである。
 いつの世でも、一方的に敵がい心を持って張り合おうとする人が現れるのは、しばしば見られる事象だ。

「フン、私だって馬ぐらいひとりで乗れましてよ!」

 そう言い捨てて、ディアンヌは何とかひとりで馬に乗った。ただ、彼女はカトリーヌの指導を受けていなかったので、うまく横座りでの体勢を保つことができなかった。そこで仕方なくドレスの裾が絡まるのを無理やりに振りさばき、またがって事態を収拾するしかなかった。

「ほら、乗れましてよ。イタリアの小娘よりわたくしの方がよほど勇気があろうというものですわ」

 勇気というよりは、男気に見えたかもしれない。エレガンテ(優雅さ)には欠けていたようだ。
 結局、ディアンヌの乗馬法に追随する女性はいなかった。

 それを聞いたマリアは冷笑するわけにもいかず、ため息をついて苦笑いするしかない。自分と同じ年齢の、いわば「成熟した女性」が20も年下の娘に対抗するさまに、うら哀しいものを感じたのだ。

「これがずっと続いたら、カトリーヌも困るわね……」
 マリアはぽつりとつぶやいた。
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