16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第1章 星の巡礼から遠ざかって チェーザレ・ボルジア

船出を待つ 1504年8月 ナポリ

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<キャラベル船の船長、クリストバル・コロン(クリストファー・コロンブス)>

 晩夏の空はどこまでも青く、風は凪いでいた。潮の香りはじっと止まったままだ。
 しかし、凪(なぎ)というのはたいへん厄介だった。特に船乗りにとっては。

 ナポリの港は漁師、船乗り、商人、貴族とそれにまつわる人々がごった返すように行きかい、常に賑やかな場所である。しかし、今は驚くほど人が少ない。8月、太陽が真上にありすべてに光と熱を惜しみなく与えている。すべての思考が奪われそうなほど暑い。皆それを避けて影のもとに去ったのだ。
 そんな中で、人待ち顔をしたひとりの男が立っていた。晴れた空とヴェスビオ山の美しい景色を見上げながら、シャツの袖を極限までまくりあげて、それでも汗をだらだらと流しながら、風と人を待っていた。

「もう少し風が出てくれないとどうしようもないな。この暑さに凪ではすぐにみんな干上がっちまう。3日ぐらいで何とかサルディーニャに出なければいかん。何しろグラン・カピターノ(総督)のお客さんを積むんだから」と人待ち顔の船長はつぶやいた。

 1504年8月20日、浅瀬から沖合まで、港には船が何隻も佇んでいる。小さな漁船が多いが、中型、大型の船も目立つ。

 石畳が広がる港にはオリーブ油で魚を焼く匂いが漂い、空腹の身を誘惑してくる。この強い日差しを避けながら、漁師たちが早い昼食を取るのだろう。こちらの腹時計が狂いそうだ、と船長は思う。脳に軽やかな刺激を与えるレモンの爽やかな香りがなければ、辟易するところだ。いや、レモンを絞った水が猛烈に欲しい。

「船長、整いました」
 港に立つ船長に、船の甲板から呼びかける声がする。自船に手を上げて応えてから、彼はまたつぶやく。
「今回の航海はまぁ、普通に行けば二週間というところか。しかし凪はいかん。サルディーニャから先の長丁場に船夫がばててしまうに決まっている。お客さんがいなければ日延べしたいが……」

 それから彼は、自船のさらに奥に鎮座する大型船を見た。マストがむき出しで帆を張る様子もない。人影もほとんど見えない。すなわち今日出航することはないということだ。調子を合わせて慌てることもない。

 船長が眺めている奥の大型帆船、正式には「キャラック船」だが、ナウ、あるいはナオという通称で広く呼ばれている。もともとナウもナオも「船」という意味で同源である。ナポリでも、ヴェネツィアでも、スペインでも、ポルトガルでも同じである。

 キャラック船は15世紀、ポルトガルによって開発された船で3本から4本のマストを備え、前と中心のマストに四角の横帆を張り、後方のマストに大三角の帆を張っている。横帆は風を受けて大きな推進力を生み出し、大三角帆は風上への航行を可能にする。船首と船尾にも小さめの帆が張られ、船の操舵性を高めていた。船体は深く作られ安定感がある。全長は30メートルから60メートルで排水量は200トン以上、1500トンの排水量を誇る巨大なものも登場している。大量の人と荷物を運んで外洋に出て行くための船であるとともに、安定した船体に砲台を据え付け、戦闘用の母艦としても使うことができる。ヴァスコ・ダ・ガマが最初のインド遠征のときに使ったサン・ガブリエル号もこのナウ船だった。この時期の遠洋航海の主力である。

 一方、船長の船はキャラベル船である。
 小型から大型のものまであるが、船体がキャラック船に比べて浅く、すっきりした外観である。3本から4本のマストを備えているのはキャラック船と同じだが、前にも後ろにも大三角帆を張っているのが特徴である。もっとも大三角帆を張る位置については変遷があり一様ではない。この三角帆が船の機動力を著しく高めていた。「速く進む」ことを第一の目的にしている船である。また、安定感ではキャラック船には劣るものの、浅い船体は地中海のような地形の複雑な海でも座礁することなく進めるという利点があった。このタイプの船は河を航行することもできたので、ナウ(キャラック)船に随行する船として、また沿岸の航行にたいへん重宝していたのだ。

 この時点よりさかのぼること12年前の1492年、スペイン・カスティーリャのイザベラ女王の命を受け航海に出たクリストバル・コロン(クリストファー・コロンブス)の一隊が使ったのは、本船(旗艦)がキャラック船の「サンタ・マリア号」、随行した船がキャラベル船の「ピンタ号」と「ニーニャ号」であった。
 その航海で、軽快なキャラベル船は本船を置いてきぼりにし先に寄港地で待つこともしばしばだったという。コロンはニーニャ号に好んで乗っており、そこで書いた報告も残っている。キャラベル船の乗り心地は決して悪くなかったようだ。

 ここで航海者コロンとその航海について簡単に触れておく。

 クリストバル・コロンはイタリア半島ジェノヴァで毛織物業を営んでいたドメニコの子として生まれた。
 家業に従事し船を使って商いをしていたこともあり、コロンは海に親しみを感じていた。しかし、この頃はまだ、大航海に出るという夢があったかは定かでない。明らかにその方向に舵を切ったと思われるのは、25歳のときにポルトガル沖で海賊の襲撃を受けて逃げ延び、板切れに掴まって九死に一生を得たことだった。
 それ以降ポルトガルに拠点を置くようになったコロンはマルコ・ポーロの旅の記録などを読んで、海路で東洋に向かうという夢を抱くようになった。
 マルコ・ポーロはイタリア半島の東の付け根にあるヴェネツィアの出身だったが、イタリア半島の西の付け根、ジェノヴァ育ちのコロンが共感を覚えたと想像するのは難しくない。いずれにしても、コロンは海路を使って東洋を旅するという計画を抱くのである。それは漠然とした夢ではなく、実現するために十分考えられたものであった。そのためには船や人、何より莫大な費用を捻出しなければいけないのだから。自力でそれができるはずはない。それを全面的に援助する存在が必要だった。最もよい方法は、他の有名な航海者と同様、国の代表として海に出ることに違いなかった。

 コロンはポルトガルで貴族の娘と結婚するが、ときの国王ジョアン2世にこの計画を請願するまでには十分な計画ができあがっていた。この時はそれを認められるに至らなかった。
 しかし、コロンはここで挫けることはなかった。スペインのイザベラ女王に直接請願することに方向を切り替えたのである。
 この狙いは当たった。はじめは興味を示さなかったイザベラ女王が、数年の働きかけの後ついに航海の全面的な援助をすることを約束したのである。イザベラ女王とコロンの間にサンタ・フェ協定が結ばれ、いよいよ1492年4月、初めての航海が実現したのである。

 この航海でコロンの3隻からなる船団は、西洋から見て未発見の島に到着する。そこはアメリカ大陸の中米にあたる地域になるが、彼らは現在のバハマ、キューバ、ハイチなどの島々に上陸を果たした。コロンがこの島々を東洋だと思っていたのは有名な話である。

 コロンの船団の帰還はスペインに熱狂を持って受け入れられた。金銀の鉱脈があるかもしれない、ということもその熱狂に拍車をかけた。イザベル女王はすぐさま次の船団を派遣することを約束した。次の航海は船が17隻、乗員1500人という、前とは比べ物にならない大規模なものとなった。コロンはふたたび大西洋を渡った。しかし、二度目の航海では期待されていた金の鉱脈を見つけることができず、初航海時に現地に駐在させていた39人のスペイン側の人間たちも全滅していた。二度目の航海では大量の人員を乗せていたので再度入植者を配置して戻ったが、初回の熱狂は急速にしぼんでいった。

 コロンを代表とした船団派遣は合計4回行われたが、世間の評判はそのたびに悪くなっていった。
 コロンは失意のまま隠退することとなる。1504年のこの頃、彼はスペインのセビーリャで病臥している。

 コロンの航海をスペインが全面的に支援したのは、1492年にナスル王朝グラナダが陥落し、イベリア半島からイスラム教国家がなくなったことが大きく影響している。
 このレコンキスタ(国土回復運動と訳される)が達成されるのにおよそ800年の歳月が費やされた。この大きな成果に新大陸の発見という目覚しいできごとが付け加えられればーーとイザベラ女王は思ったことだろう。この時期にスペインに働きかけたことが、コロンにとっての幸運であった。

 この頃スペインはまだ一つの国家ではなかった。イザベラ女王のカスティーリャ、その夫フェルナンドのアラゴン、カタローニャ、ヴァレンシアなどの王国からなる連合体であった。イザベラとフェルナンドの結婚によって、カスティーリャ=アラゴンという巨大な勢力ができたものの、この頃はまだ全土を統一しひとつの国家とするには至らず、ゆるやかな協力関係を保っていた。
 スペインのイザベラ女王、と書いているが便宜上のことで実際にはスペイン連合カスティーリャ王国の女王ということになる。

 イベリア半島がイスラム教国家から自由になったその年に、イザベラ女王はイベリア半島になされてきたことを他の地域に対してはじめたことになる。
 コンキスタ、レコンキスタ、そしてコンキスタである。
 後年アメリカでアステカ帝国、インカ帝国を滅ぼしたスペイン人は「コンキスタドレス」と呼ばれた。征服者ということである。

 コロンの初航海の帰途、「サンタ・マリア号」には6人、あるいは7人の人間が加わっていた。途中で一人亡くなったのかもしれない。コロンは自身が到達した土地をインドだと思い込んでいたので、彼らは「インディオ(インド人)」と呼ばれた。しかし、もちろんインド人ではない。カリブ海の人というのが適当だろうか。ちなみにカリブというのはこの辺りにもともと住んでいた民族をさしていると言われる。

 突然武器を持って現れ、言葉も意思も通じない人間たち。
 彼らに無理やり船に引き連れられ、暗い場所にひとまとめに閉じ込められたカリブの人びとは何を語り、何を考えただろうか。
 赤道の凪は蒸し焼きになるほどの暑さで、暴風となれば荒れ狂う波にごろごろと振り回され、柱を掴む力がなくなれば振り回されるままにしているしかない。食事が他の船員たちと同じだけ受けられたとは考えづらい。水はなおさらである。そして排泄も上品に甲板で済ませるわけにもいかなかっただろう。
 そのような日々を2ヶ月送った末に、乾いたイベリア半島の大地を目にした6人、あるいは7人はどのような感情を抱いただろう。

 クリストバル・コロンは失意のうち1506年にスペインのヴァリャドリードで世を去ることとなる。それは記録に残っている。
 カリブから来た6人、あるいは7人についてのその後は知るよしもない。

 新しい発見を目指して意気揚々と港を出る船と人たち、その晴れ晴れしい姿の別の一面である。
 新しい発見にも、栄光にも、故郷や懐かしい顔たちにも出会う希望のない旅もあるのである。
 ナポリの港を出ようとする旅人もまた、そのひとりだった。

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