16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第1章 星の巡礼から遠ざかって チェーザレ・ボルジア

空高く飛ぶミサゴと地上の囚われ人 1504年8月 ナポリ

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<ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドーバ、チェーザレ・ボルジア>


 クリストバル・コロンの話で道草をしたが、ナポリの港に戻る。

 1504年8月20日、スペイン人のナポリ総督からの依頼でキャラベル船は出航する。
 船長が気にかけているグラン・カピターノとはナポリ総督コルドーバのことである。

 彼についても少しばかり知ってもらう必要がある。彼はスペイン最高位にある軍人、いやこの時代に合わせて表現するならば「最高の騎士」と評してもいい男だからだ。

 ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドーバ、彼はカスティーリヤの騎士団の勇士、長じてイタリア戦争におけるスペイン軍司令官である。

 彼は1453年生まれであるから、この時51歳である。
 カスティーリャ王家とも縁のあるスペイン貴族の家に生まれたゴンサロは王の弟、アルフォンソに仕えたのちイザベラ王女(のちの女王)に忠誠を誓うことになった。
 1474年、イザベラ1世がカスティーリャ女王に即位すると、ポルトガル王が自身の妻(カスティーリャの先王の娘)の継承権を主張して、カスティーリャに侵攻を始めた。この争いでゴンサロはアロンソ・デ・カルデナスが指揮を取っていたサンティアゴ騎士団の一員として戦い、常に前線で戦った。その勇敢さが賞賛されて褒美を受けたのである。彼の輝かしい初陣である。
 1482年から92年まで続いたナスル朝グラナダとのレコンキスタで、ゴンサロはサンティアゴ騎士団の一員として参戦した。この時は実兄のアロンソが指揮を取っていたので意思疎通が図りやすく、ゴンサロは思う存分その力を発揮することができた。これらの戦いではまだ銃器大砲が実戦であまり使われておらず、兵士らの接近戦が中心だった。

 この二つだけでも経歴に出すには十分であるが、まだ終わらない。
 グラナダの戦いの最中、勇敢にも戦地イリョラへ現状視察に出たイザベラ女王にグラナダの兵が襲いかかろうとした。ゴンサロはとっさに女王の前に飛び出し、味方とともにあっという間に撃退した。
 女王を直接守るという殊勲をあげたのである。
 騎士道という言葉がこの頃には形骸化していたが、この一件にはイザベラもたいそう感激したらしい。その後ゴンサロへの信任は磐石のものとなった。グラナダ陥落、開城の際にゴンサロはグラナダ側と協定を結ぶ使者の一員に加わったほか、多くの褒賞を得た。
 「女王の騎士」とでもいうべき栄誉を得たゴンサロは息をつく間もなく、イタリアに侵攻を始めたフランスに対抗するためスペイン軍の司令官としてイタリア半島に進軍することになった。ナポリ王国は古くからスペイン・アラゴン王国の領土となっていたため、堂々と軍隊を派遣することができるのである。この「イタリア戦争」については、苦戦した場面もあったものの、結果としてはフランスが撤退することで終了する。
 ゴンサロ司令官率いるスペイン軍は1504年にナポリを制圧した。
 その成果がナポリ総督、実質的なナポリの支配者という立場に結実したのである。

 このキャラベル船に乗るのはナポリ総督コルドーバではない。船長が言うところの「お客さん」、一人の男を護送するのだ。

 この船はナポリからサルディーニャ島を経由して、スペインのアリカンテまで進むだろう。天候によってはマヨルカ島に寄港するが、おおむね一週間から十日ほどの行程になる。ナポリからサルディーニャまではおよそ100レグワである。
 この頃ラテン世界の距離の単位はレグワで、1レグワはおよそ5キロ強、当時の日本で使われた一里と大きく変わらない。どちらも、ひとつの時間単位で人間が歩く距離、というのが基礎にある。もっとも時間単位すらまだ世界で統一されているわけではない。それでも似た数字になるのだから興味深い。

 人には共通の、普遍的なものさしがある。
 そのような前提に立つものでは決してなかったが、あらゆる差異を包含していた世界は、線でつなげられようとしていた。
 船と人によって。

 風がようやく吹き始めた。

 ミサゴが流れに乗って滑空している。ミサゴは鷹や鳶と同じ猛禽類で海を中心に生息している。大きな翼を広げて悠々と、どこまでも上昇していく。この低き地上では魚が焼かれているし、転がっている生のものもいくらかあるのだが、それには見向きもしない。
「自身の糧は自身で確保できるのだ、低きおまえたちの情けには預からぬ」
 そう主張しているようだ。
 誇り高い被造物よ。

 キャラベル船の船長はそんなことを考えながら、客人が到着するのを待っていた。
 そして風が吹き始めてほどなく、数人の男とともに彼は現れた。その手は縄でゆるく結ばれている。黒い長髪が肩まで届いている。髭が無造作に覆っているものの、その顔は精悍で身体も常に戦う軍人のように引き締まっている。身にまとった黒いマントがナポリの陽光を跳ね返すように輝き、その精悍さを一層引き立てていた。汗をかいている様子もない。
 客人とそれに付き添うグラン・カピターノの姿を見て、船長は姿勢を正した。
 グラン・カピターノは憂鬱な表情をしていた。
 これまで船長も散々耳にしてきた数々の剛勇ぶりからすれば、ライオンが猫になったかのようなありさまである。どちらかと言えば、罪人として護送される彼のほうが堂々としている。無表情ではあったが、その目は鋭く、冷たく光っていた。
 先ほど見たミサゴの姿が彼と重なった。
 船長は圧倒された。
 グラン・カピターノは船長に話しかけ、アリカンテまでよろしく頼むと告げた。脇に付く従者が荷物を預けている。その様子を脇に見やって罪人は突然口を開いた。

「私はどこに行く?」

 グラン・カピターノが目を見開いて疲れたような声で言う。
「アリカンテに向かうと伝えたはずだが……」
 罪人は空を見上げてから、グラン・カピターノを見て冷笑するように言った。
「総督に聞いたわけではない。私を見捨てた幸運の女神に問うたのだ。私はどこに行くのかと」
 グラン・カピターノ、即ち総督は太い眉をひそめて名残を惜しむように言う。
「チェーザレ、あなたに相応しい役割を与えられず、本当に残念だ。教皇とわが祖国が手を組んでしまった以上、私にできることは何もないのだ」
 チェーザレと呼びかけられた男は黙っている。
 船長は固唾を飲んで見守った。

 チェーザレ、と言われた男には慰めの言葉が聞こえていただろうが、その目はもうグラン・カピターノを映していなかった。
「気に病むことはない。総督も完全な自由を持っているわけではない。それに、ひとつだけ教えてやろう。私はこれまで誰も信用したことがない。忠実なミケロットと妹ルクレツィアを除いては」
つぶやくような、吐き捨てるような口調だった。

 グラン・カピターノが寂しそうな表情になる。そして言葉の主は続ける。
「信用していない人間に何をされても、痛痒(つうよう)はない。ただ、今日まで篤い待遇を与えてもらった。世話になった。礼を言う」
 そう言うと、手を結ばれた罪人はマントを翻して船の方向に向かっていった。

 出航のときが来た。
 帆がするすると張られて、勢いよく吹く風に押し出される。錨が船夫たちの勇ましい掛け声とともに引き上げられる。
 船長は甲板に立っている。
右舷にヴェスビオ山を眺める。隣には罪人、いや、罪人とされた男が監視役として付けられた数名の者とともに立っている。
 早々に船倉に閉じ込めなかったのは船長の好意だった。
 彼がイタリア半島の土を踏むことは、もう二度とないだろう。
 イタリア半島がだんだん遠ざかっていく。

 ミサゴが風に乗って、高く高く上昇していく。悠々と、翼をいっぱいに広げて。
 手を結ばれたチェーザレ・ボルジアは、陸地には目をくれずただ黙って高い空を飛ぶミサゴを見ていた。そして、ふっと目を反らすとひと言だけ発した。
「休むので寝台に連れていけ」
 船長は少し慌てて言った。
「サルディーニャのカリアリに着くまで陸地はない。そして後はアリカンテまで……」
 だから今のうちに陸地を見ておくほうがよいのではないか、と言おうとした船長だったが、当の相手はもう彼から離れていた。

 一方、陸地に残るグラン・カピターノは、去っていく船をただ眺めていた。その元に馬に乗った急使がやって来て告げた。

「申し上げます。フェラーラ公国のルクレツィア・デステ様よりチェーザレ・ボルジア様への書状をお届けに……」
 グラン・カピターノは遠ざかるキャラベル船を見やって首を横に振った。
「もう遅い。賽は投げられた」
 かつて、ユリウス・カエサルが口にしたセリフをグラン・カピターノはつぶやいた。カエサルはこの地ではチェーザレと発音される。それに掛けていたのだ。

 しかしこの場合、賽を投げたのは女神などではなく、他の人間である。
 幸運の女神というのが本当にいるのなら、と総督は考える。
 おそらく彼女はチェーザレから離れたのだ。しかし、それが未来永劫なのかは分からない。女と言うものは気まぐれな生き物だから。この失墜に再度飛翔の機を見いだすことは難しい。しかし、彼はまだ若い。30にもなっていない。時を待てば新たな運命が訪れ、再起をはかることができるもしれない。私とは違う。
 彼の資質が求められる機は必ず巡ってくるはずなのだ。

 グラン・カピターノはチェーザレ・ボルジアがどんな人間か知っていたので、そう感じていた。彼は急使に告げた。

「この書状はアリカンテに、その先の彼のいる場所に送ってくれ」
 そして、一通の手紙が彼を追うことになった。


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