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第1章 星の巡礼から遠ざかって チェーザレ・ボルジア
中部攻略へ チェーザレの来た道5 1500~01年
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<チェーザレ・ボルジア、マンフレディ兄弟、アレクサンデル6世、ニッコロ・マキアヴェッリ、ジョヴァンニ・メディチ、ルイ12世、ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドーバ、ルクレツィア・ボルジア>
チェーザレ・ボルジアの16世紀はファンエンツァの攻略戦ではじまった。
前世紀からの持ち越しである。
この地は若き当主、アストール・マンフレディが治めており、弟のジョヴァンニもともに暮らしている。アストールはまだ15歳の少年であるが、摂政役がしっかり彼を支えており、ファエンツァの人びとからも大層慕われていた。チェーザレ・ボルジアが、リミニやペーザロをたやすく陥落させた報を聞いてもびくともせず、一丸となって徹底抗戦に出る構えである。前に出された教皇の破門も効果はなかった。
フォルリやイーモラのときは領主の苛烈な政治によって民心が離れていたために、比較的短期間で決着を付けることができた。しかし、今回はそうはいかない。チェーザレも腹を据えてかかることに決めている。
1500年11月19日、チェーザレの軍勢はファエンツァに到着した。さっそく砲撃が開始されたが城壁と人の備えは大層堅かった。10日あまりまったく状況は変わらず、冬の寒さも相まって、チェーザレ軍の士気も落ちてきた。ここで彼は持久戦に戦略を変えた。
ファエンツァに続く街道はすべて封鎖された。そのための人員だけ交替制で少数を配備し、あとの皆にクリスマス休暇を与えた。チェーザレ自身はこれまで攻略した都市を巡察し、直属の軍勢を率いて派手にクリスマスを祝うこととした。その場となったチェゼーナで、皆大いに飲んで踊って騒いだ。女性も引き連れられて、聖なる儀式とは程遠いパーティとなったのであるが。
15世紀最後のクリスマスである。もちろん、十分な資金あっての越冬だった。
これで再び活気を取り戻した兵士たちは、再びファエンツァの攻略に取りかかった。街道を閉鎖されて孤立した城郭都市は疲弊している。
攻撃は年明けから再開され、同時にヴェネツィアを仲裁役として講和の道が探られていた。投降するならば、民衆の信望の厚いマンフレディに枢機卿の地位を与え、年金を与えるとまで譲歩したが、ファエンツァは拒否した。
交渉は決裂し、チェーザレ軍による総攻撃がはじまった。砲撃が間断なく繰り返され、それは一カ月あまりにも及ぶ凄まじいものとなった。
1501年4月、ついにファエンツァは城門を開いた。城を明け渡すときの条件はたったひとつ、「領主マンフレディを自由の身にすること」だった。チェーザレはそれを了承した。
投降したマンフレディに対して、チェーザレは丁重な態度で接した。それがマンフレディには理想的な騎士の姿だと映ったようだ。周囲が止めるのも聞かず、領主はチェーザレのもとで働くことを望んだ。
人は何かを選択するとき、熟慮して決めることもあるし、直感的に決めることもある。どちらにしても、結果は本人が背負わなければならない。
加えるならば、通常ではない状態に置かれて、とっさに重要な件を決めてしまうこともある。その場合、ひとつの選択が取り返しのつかない結果を招くこともある。
これがこの話で取り上げるひとつめの典型的な例かもしれない。
さて、イーモラ、フォルリ、リミニ、ペーザロ、ファノ、ファエンツァを攻略して帰還した息子を父教皇は大喜びで出迎えた。すでに与えている教会軍総司令官に加えて息子にはロマーニャ公爵の称号が与えられた。教皇領の中で所領を得たのである。
チェーザレはどこまで父親に自身の望むことを語っていたのだろうか。語っていたとすれば、それは、「イタリア半島をすべて教皇領にする」ということだろう。あるいは、自身がイタリア半島の王になると。それを聞いたとき、父親は、あるいは神の代理人はどんな顔をしたのだろうか。
いまや、イタリア半島全体がチェーザレの動きを知りたがっている。次の標的になるのではないかと恐れる小領主に加えて、ロマーニャ地方に接するフェラーラ、マントヴァ、ボローニャ、フィレンツェの各国大使もチェーザレに接触をはかり、その動きを探ろうとしていた。
フィレンツェから来た一人の官吏は、この前後からチェーザレの動向を誰よりも注意深く見守るようになる。
ニッコロ・マキアヴェッリである。このときはフィレンツェ共和国第二書記局書記官の職にある。ただ、彼の仕事はその肩書通りではない。フィレンツェの一官吏でありながら、彼の行動範囲は広かった。フランスへ、神聖ローマ帝国へ、イタリア半島の諸国へ。彼は自由な雰囲気に溢れるフィレンツェを愛していたし、その没落をなんとしても食い止めたいという使命に燃えていた。
フィレンツェは永く花の都と呼ばれてきた。15世紀には薬業から銀行家になって大成功を収めたメディチ家というパトロンが表舞台に現れ、ローマに負けず劣らず素晴らしい芸術作品や建築を産む母胎となっていた。
余談であるが、だいぶ後年、この美しい街で生まれた愛らしいイギリス人女性はあらゆる教養を身に付けながら、人の命を救う仕事に一生を費やすことになる。フィレンツェを冠するその人の名は、フローレンス・ナイチンゲールである。
しかし、この時期、フィレンツェは困難に直面している。
フランス侵攻と、ドミニコ修道会の僧サヴォナローラの台頭で民衆に愛想をつかされたメディチ家当主ピエロはフィレンツェを追放された。そして、過激な聖職者批判で人々の支持を受けたサヴォナローラも1497年、教皇アレクサンデル6世に破門された後は失墜した。翌年には裁判の結果、火刑に処された。
それ以降も屋台骨不在のフィレンツェは迷走を続けていた。この不安定な時期に、共和国はピサを併合しようとフランスに援助を得ていたが、その軍備のために国はいっそう傾いていた。マキアヴェッリが肩書きを越えて走り回らなければならない理由もそこにあった。
1499年にはピオンピーノとの折衝に。そして、カテリーナ・スフォルツァと会見。
1500年にはピストイア視察の後。フランスに特使として派遣される。
彼の仕事はこの後雪だるま式に増えていくが、それはチェーザレ・ボルジアの動向と無縁ではなかった。
メディチ家について補足しておこう。追放されたピエロの弟ジョヴァンニがフィレンツェに復帰するのはしばらく先、1512年のことになるが、もうそこに昔日の輝きはない。ちなみに、ジョヴァンニはチェーザレとピサで同級生だった。同じ年齢である。ジョヴァンニは枢機卿から後に教皇となるが、チェーザレほどの才覚を持ち合わせてはいなかった。
同級生のよしみで、もう少しだけ書いておこう。
この後メディチ家からはジョヴァンニはじめ枢機卿、教皇を輩出するが、その方面では、控えめに言っても芳しい業績は残せなかった。その名が残るのはいずれも、キリスト教の分裂を招き、イタリア半島の困難を助長する出来事を為したからである。それについては後に記していくことになるだろう。
悪名高い「聖バルテルミーの虐殺」も含まれる。
さて、チェーザレ・ボルジアは公言していないものの、次の照準はピオンピーノ、そしてボローニャ、フィレンツェに定められていた。それが成功すれば、イタリア半島中部攻略がほぼ達成される。
当然のことながら、チェーザレと同盟を組んでいるルイ12世はチェーザレの猛烈な侵攻ぶりに脅威を感じている。マキアヴェッリがフランスに向かったのも、チェーザレへの軍事支援を控えてほしいという嘆願が主目的だったのだ。どのようにチェーザレを牽制するべきか、直接手綱が引けるのは父教皇だけであった。
立場として、チェーザレはフランス王の臣下にある。不自由さは時を重ねるほど増していく。ボローニャとフィレンツェへの攻撃もルイ12世の意を受けた父法王に待ったをかけられていた。
それでもチェーザレは試し打ちの一手を放った。
1501年夏、チェーザレはフィレンツェ共和国政府に対して、進軍の際の領内通行を認めるように求めた。ピオンピーノ攻略準備の一手でもある。メディチ家不在、すなわち政治の巧者不在のフィレンツェは、チェーザレ・ボルジアの扱い方を知らないまま、最大の警戒心をあらわにし、いくつかの条件をつけた。チェーザレはその機を捉えて、自身からも条件を出し、フィレンツェのすぐ川向かいまで軍勢を進めた。自身の条件を飲まなければ、フィレンツェとて無傷では済まない、という脅しである。
・フィレンツェはチェーザレを自国の傭兵とすること
・ピオンピーノを援助しないこと
・チェーザレに対して傭兵隊長ヴィテロッツオが選んだ6人の人質を差し出すこと
・メディチを国政に復帰させるか、チェーザレの認めうる政府を作るかを選ぶこと。
通行だけを望んでいたにも関わらず、これだけの追加要求を突きつけたのだから見事な切り返しである。フィレンツェがはじめに譲歩していたとしても結果は同じだったのかもしれないが、それも作戦だということである。
ともかく、軍勢を中心地のすぐ側まで配備されてはぐうの音も出ない。フィレンツェにはチェーザレ軍に対抗するだけの兵力がない。条件はすべて飲まれた。そして、チェーザレの傭兵隊長ヴィテロッツオがフィレンツェ郊外の町でほしいままに略奪を働くさまを眺めているしかなかったのである。ヴィテロッツオはフィレンツェに私怨を抱いていたのである。
チェーザレ自身、ルイ12世がどう出るか確かめたかったのかもしれない。じきにフランスからはそれなりの返答が命令として出される。どちらも狐と狸というところだ。チェーザレはこの時点でフィレンツェを手の内に収めてしまうほど愚かではない。当面の目標通りにピオンピーノ攻略に取りかかる。
フィレンツェという大国にあらかじめ無理難題を吹っ掛けたのが効を奏して、ピオンピーノの領主、ヤコボ・アッピアーノも弟を城代に残してジェノヴァに逃亡してしまった。もう裸になったようなものである。
しかしここで、チェーザレにローマから呼び出しがかかる。
すでに前年、フランスとスペインの間でナポリに対する新たな同盟が結成されていた。ナポリを2国で分割するという内容の「グラナダ協定」である。
フランスが侵攻するのは、教皇庁が手を出さないと約束しているのだから当然の成り行きであるが、スペインも加わった形である。当然スペインから教皇に強い働きかけがあっただろうし(繰り返しになるが教皇はスペインの出身である)、フランスも神聖ローマ帝国とスペインが結び付いて敵に回ることを避けたかったのだ。
すでにカスティーリャ・イザベラ女王とアラゴン・フェルナンド王夫妻の二女ファナは神聖ローマ帝国・マクシミリアン一世の長子フィリップと結婚していた。
ヨーロッパの強国も微妙なさじ加減で成り立っている。
それが及んでチェーザレにも派兵の要請が届くのである。ナポリから何の恩恵も受けられないチェーザレにとって、この要請は義務以外のなにものでもなかった。しかし、自軍にフランスから借りている兵がいる以上、選択の余地はなかった。ピオンピーノを本隊に任せて自身は一軍を率いてローマに戻った。任された本隊はフォルリやファアンツァで戦い方を習得済みであり、任せても問題はなかった。
ピオンピーノは3ヶ月に渡る籠城戦の末に陥落する。
1501年6月、再びフランスとスペインがローマに入る。フランス側はドゥービニィ総司令官、スペイン側の総司令官はゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドーバである。2国の軍勢は教皇に盛大な祝福を受けてナポリに送り出された。ナポリを征服することを認める教書も発出されている。
最初の激戦地はナポリのカプアだった。すでにフランス軍が城壁を破壊しており、到着したチェーザレ軍が後を任された。援軍として派遣されたチェーザレ軍だったが一切容赦はしなかった。
街はことごとく破壊され、火を放たれた。死体の山が積み重なり、逃げ惑う人々の阿鼻叫喚の図が広がっていく。捕らえられた男たちには死が与えられ、女たちはチェーザレから順に兵、すなわち男たちに与えられた。
この非道な振る舞いは敵だけでなく、フランスやスペインの同盟者らをも震え上がらせた。残忍な将としてのチェーザレ・ボルジア像が固まったのはこの時であったに違いない。それが彼の望んでいた姿でもあった。
すでに彼は聖職者だった過去を微塵も感じさせない征服者となっていたのである。
カプアが焼き討ちされた後、ナポリはフランスに制圧された。
しかし、スペイン軍ははなから分割統治にはなからなかった。コルドーバ総司令官はフェルナンド王から内々に指示を受けていた。それはグラナダ協定などどこかに吹き飛ぶような内容であった。
ナポリはスペインのものである。駐留中に機を見てナポリを奪回せよ。
7年前のフランスによる侵攻に対する屈辱をスペインは忘れていなかった。ここから、スペインの反撃が始まるのである。コルドーバは全精力を傾けてこの事業に取り組むだろう。
ナポリの陥落を受けて、チェーザレはすぐさまローマに取って返した。自分の仕事は終わったのだから長居する必要もない。
ローマでは、ルクレツィアの3度目の結婚が決まった。
相手はフェラーラの公子アルフォンソ・デステである。フェラーラは白羽の矢を立てられたことに当惑した。あからさまに狙いを定められたようなものだからである。アルフォンソは妻を少し前に喪ったばかりだったし、縁談としては申し分なかったのだが、ルクレツィアの前夫2人の顛末もある上に、チェーザレの動きが読めないため警戒を解けずにいた。
しかし、父教皇は娘の幸せを一番に考えている。これまでの2度の結婚が、いかに愛娘を傷つけたか、よく分かっていたからである。破格の持参金を提示されてもそのまま了承した。結婚は正式にすすめられることとなった。
ルクレツィアはずっと、教皇庁のボルジアの部屋(アパートメント)に住んでいた。この結婚で彼女は初めてローマから遠く離れることになる。父教皇は娘の旅立ちを心から祝福した。彼にとっては、この別れがいちばん寂しいものだったかもしれない。
おそらく、チェーザレにとってもそうだっただろう。ルクレツィアは彼の側にいちばん長くいた女性だからである。妻のシャルロットですら、数ヶ月しかともに過ごせなかったのである。
1501年10月、ルクレツィアはフェラーラに発つ。チェーザレは領内を出るまで馬を駆って彼女を見送った。
寂しい秋だった。
チェーザレ・ボルジアの16世紀はファンエンツァの攻略戦ではじまった。
前世紀からの持ち越しである。
この地は若き当主、アストール・マンフレディが治めており、弟のジョヴァンニもともに暮らしている。アストールはまだ15歳の少年であるが、摂政役がしっかり彼を支えており、ファエンツァの人びとからも大層慕われていた。チェーザレ・ボルジアが、リミニやペーザロをたやすく陥落させた報を聞いてもびくともせず、一丸となって徹底抗戦に出る構えである。前に出された教皇の破門も効果はなかった。
フォルリやイーモラのときは領主の苛烈な政治によって民心が離れていたために、比較的短期間で決着を付けることができた。しかし、今回はそうはいかない。チェーザレも腹を据えてかかることに決めている。
1500年11月19日、チェーザレの軍勢はファエンツァに到着した。さっそく砲撃が開始されたが城壁と人の備えは大層堅かった。10日あまりまったく状況は変わらず、冬の寒さも相まって、チェーザレ軍の士気も落ちてきた。ここで彼は持久戦に戦略を変えた。
ファエンツァに続く街道はすべて封鎖された。そのための人員だけ交替制で少数を配備し、あとの皆にクリスマス休暇を与えた。チェーザレ自身はこれまで攻略した都市を巡察し、直属の軍勢を率いて派手にクリスマスを祝うこととした。その場となったチェゼーナで、皆大いに飲んで踊って騒いだ。女性も引き連れられて、聖なる儀式とは程遠いパーティとなったのであるが。
15世紀最後のクリスマスである。もちろん、十分な資金あっての越冬だった。
これで再び活気を取り戻した兵士たちは、再びファエンツァの攻略に取りかかった。街道を閉鎖されて孤立した城郭都市は疲弊している。
攻撃は年明けから再開され、同時にヴェネツィアを仲裁役として講和の道が探られていた。投降するならば、民衆の信望の厚いマンフレディに枢機卿の地位を与え、年金を与えるとまで譲歩したが、ファエンツァは拒否した。
交渉は決裂し、チェーザレ軍による総攻撃がはじまった。砲撃が間断なく繰り返され、それは一カ月あまりにも及ぶ凄まじいものとなった。
1501年4月、ついにファエンツァは城門を開いた。城を明け渡すときの条件はたったひとつ、「領主マンフレディを自由の身にすること」だった。チェーザレはそれを了承した。
投降したマンフレディに対して、チェーザレは丁重な態度で接した。それがマンフレディには理想的な騎士の姿だと映ったようだ。周囲が止めるのも聞かず、領主はチェーザレのもとで働くことを望んだ。
人は何かを選択するとき、熟慮して決めることもあるし、直感的に決めることもある。どちらにしても、結果は本人が背負わなければならない。
加えるならば、通常ではない状態に置かれて、とっさに重要な件を決めてしまうこともある。その場合、ひとつの選択が取り返しのつかない結果を招くこともある。
これがこの話で取り上げるひとつめの典型的な例かもしれない。
さて、イーモラ、フォルリ、リミニ、ペーザロ、ファノ、ファエンツァを攻略して帰還した息子を父教皇は大喜びで出迎えた。すでに与えている教会軍総司令官に加えて息子にはロマーニャ公爵の称号が与えられた。教皇領の中で所領を得たのである。
チェーザレはどこまで父親に自身の望むことを語っていたのだろうか。語っていたとすれば、それは、「イタリア半島をすべて教皇領にする」ということだろう。あるいは、自身がイタリア半島の王になると。それを聞いたとき、父親は、あるいは神の代理人はどんな顔をしたのだろうか。
いまや、イタリア半島全体がチェーザレの動きを知りたがっている。次の標的になるのではないかと恐れる小領主に加えて、ロマーニャ地方に接するフェラーラ、マントヴァ、ボローニャ、フィレンツェの各国大使もチェーザレに接触をはかり、その動きを探ろうとしていた。
フィレンツェから来た一人の官吏は、この前後からチェーザレの動向を誰よりも注意深く見守るようになる。
ニッコロ・マキアヴェッリである。このときはフィレンツェ共和国第二書記局書記官の職にある。ただ、彼の仕事はその肩書通りではない。フィレンツェの一官吏でありながら、彼の行動範囲は広かった。フランスへ、神聖ローマ帝国へ、イタリア半島の諸国へ。彼は自由な雰囲気に溢れるフィレンツェを愛していたし、その没落をなんとしても食い止めたいという使命に燃えていた。
フィレンツェは永く花の都と呼ばれてきた。15世紀には薬業から銀行家になって大成功を収めたメディチ家というパトロンが表舞台に現れ、ローマに負けず劣らず素晴らしい芸術作品や建築を産む母胎となっていた。
余談であるが、だいぶ後年、この美しい街で生まれた愛らしいイギリス人女性はあらゆる教養を身に付けながら、人の命を救う仕事に一生を費やすことになる。フィレンツェを冠するその人の名は、フローレンス・ナイチンゲールである。
しかし、この時期、フィレンツェは困難に直面している。
フランス侵攻と、ドミニコ修道会の僧サヴォナローラの台頭で民衆に愛想をつかされたメディチ家当主ピエロはフィレンツェを追放された。そして、過激な聖職者批判で人々の支持を受けたサヴォナローラも1497年、教皇アレクサンデル6世に破門された後は失墜した。翌年には裁判の結果、火刑に処された。
それ以降も屋台骨不在のフィレンツェは迷走を続けていた。この不安定な時期に、共和国はピサを併合しようとフランスに援助を得ていたが、その軍備のために国はいっそう傾いていた。マキアヴェッリが肩書きを越えて走り回らなければならない理由もそこにあった。
1499年にはピオンピーノとの折衝に。そして、カテリーナ・スフォルツァと会見。
1500年にはピストイア視察の後。フランスに特使として派遣される。
彼の仕事はこの後雪だるま式に増えていくが、それはチェーザレ・ボルジアの動向と無縁ではなかった。
メディチ家について補足しておこう。追放されたピエロの弟ジョヴァンニがフィレンツェに復帰するのはしばらく先、1512年のことになるが、もうそこに昔日の輝きはない。ちなみに、ジョヴァンニはチェーザレとピサで同級生だった。同じ年齢である。ジョヴァンニは枢機卿から後に教皇となるが、チェーザレほどの才覚を持ち合わせてはいなかった。
同級生のよしみで、もう少しだけ書いておこう。
この後メディチ家からはジョヴァンニはじめ枢機卿、教皇を輩出するが、その方面では、控えめに言っても芳しい業績は残せなかった。その名が残るのはいずれも、キリスト教の分裂を招き、イタリア半島の困難を助長する出来事を為したからである。それについては後に記していくことになるだろう。
悪名高い「聖バルテルミーの虐殺」も含まれる。
さて、チェーザレ・ボルジアは公言していないものの、次の照準はピオンピーノ、そしてボローニャ、フィレンツェに定められていた。それが成功すれば、イタリア半島中部攻略がほぼ達成される。
当然のことながら、チェーザレと同盟を組んでいるルイ12世はチェーザレの猛烈な侵攻ぶりに脅威を感じている。マキアヴェッリがフランスに向かったのも、チェーザレへの軍事支援を控えてほしいという嘆願が主目的だったのだ。どのようにチェーザレを牽制するべきか、直接手綱が引けるのは父教皇だけであった。
立場として、チェーザレはフランス王の臣下にある。不自由さは時を重ねるほど増していく。ボローニャとフィレンツェへの攻撃もルイ12世の意を受けた父法王に待ったをかけられていた。
それでもチェーザレは試し打ちの一手を放った。
1501年夏、チェーザレはフィレンツェ共和国政府に対して、進軍の際の領内通行を認めるように求めた。ピオンピーノ攻略準備の一手でもある。メディチ家不在、すなわち政治の巧者不在のフィレンツェは、チェーザレ・ボルジアの扱い方を知らないまま、最大の警戒心をあらわにし、いくつかの条件をつけた。チェーザレはその機を捉えて、自身からも条件を出し、フィレンツェのすぐ川向かいまで軍勢を進めた。自身の条件を飲まなければ、フィレンツェとて無傷では済まない、という脅しである。
・フィレンツェはチェーザレを自国の傭兵とすること
・ピオンピーノを援助しないこと
・チェーザレに対して傭兵隊長ヴィテロッツオが選んだ6人の人質を差し出すこと
・メディチを国政に復帰させるか、チェーザレの認めうる政府を作るかを選ぶこと。
通行だけを望んでいたにも関わらず、これだけの追加要求を突きつけたのだから見事な切り返しである。フィレンツェがはじめに譲歩していたとしても結果は同じだったのかもしれないが、それも作戦だということである。
ともかく、軍勢を中心地のすぐ側まで配備されてはぐうの音も出ない。フィレンツェにはチェーザレ軍に対抗するだけの兵力がない。条件はすべて飲まれた。そして、チェーザレの傭兵隊長ヴィテロッツオがフィレンツェ郊外の町でほしいままに略奪を働くさまを眺めているしかなかったのである。ヴィテロッツオはフィレンツェに私怨を抱いていたのである。
チェーザレ自身、ルイ12世がどう出るか確かめたかったのかもしれない。じきにフランスからはそれなりの返答が命令として出される。どちらも狐と狸というところだ。チェーザレはこの時点でフィレンツェを手の内に収めてしまうほど愚かではない。当面の目標通りにピオンピーノ攻略に取りかかる。
フィレンツェという大国にあらかじめ無理難題を吹っ掛けたのが効を奏して、ピオンピーノの領主、ヤコボ・アッピアーノも弟を城代に残してジェノヴァに逃亡してしまった。もう裸になったようなものである。
しかしここで、チェーザレにローマから呼び出しがかかる。
すでに前年、フランスとスペインの間でナポリに対する新たな同盟が結成されていた。ナポリを2国で分割するという内容の「グラナダ協定」である。
フランスが侵攻するのは、教皇庁が手を出さないと約束しているのだから当然の成り行きであるが、スペインも加わった形である。当然スペインから教皇に強い働きかけがあっただろうし(繰り返しになるが教皇はスペインの出身である)、フランスも神聖ローマ帝国とスペインが結び付いて敵に回ることを避けたかったのだ。
すでにカスティーリャ・イザベラ女王とアラゴン・フェルナンド王夫妻の二女ファナは神聖ローマ帝国・マクシミリアン一世の長子フィリップと結婚していた。
ヨーロッパの強国も微妙なさじ加減で成り立っている。
それが及んでチェーザレにも派兵の要請が届くのである。ナポリから何の恩恵も受けられないチェーザレにとって、この要請は義務以外のなにものでもなかった。しかし、自軍にフランスから借りている兵がいる以上、選択の余地はなかった。ピオンピーノを本隊に任せて自身は一軍を率いてローマに戻った。任された本隊はフォルリやファアンツァで戦い方を習得済みであり、任せても問題はなかった。
ピオンピーノは3ヶ月に渡る籠城戦の末に陥落する。
1501年6月、再びフランスとスペインがローマに入る。フランス側はドゥービニィ総司令官、スペイン側の総司令官はゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドーバである。2国の軍勢は教皇に盛大な祝福を受けてナポリに送り出された。ナポリを征服することを認める教書も発出されている。
最初の激戦地はナポリのカプアだった。すでにフランス軍が城壁を破壊しており、到着したチェーザレ軍が後を任された。援軍として派遣されたチェーザレ軍だったが一切容赦はしなかった。
街はことごとく破壊され、火を放たれた。死体の山が積み重なり、逃げ惑う人々の阿鼻叫喚の図が広がっていく。捕らえられた男たちには死が与えられ、女たちはチェーザレから順に兵、すなわち男たちに与えられた。
この非道な振る舞いは敵だけでなく、フランスやスペインの同盟者らをも震え上がらせた。残忍な将としてのチェーザレ・ボルジア像が固まったのはこの時であったに違いない。それが彼の望んでいた姿でもあった。
すでに彼は聖職者だった過去を微塵も感じさせない征服者となっていたのである。
カプアが焼き討ちされた後、ナポリはフランスに制圧された。
しかし、スペイン軍ははなから分割統治にはなからなかった。コルドーバ総司令官はフェルナンド王から内々に指示を受けていた。それはグラナダ協定などどこかに吹き飛ぶような内容であった。
ナポリはスペインのものである。駐留中に機を見てナポリを奪回せよ。
7年前のフランスによる侵攻に対する屈辱をスペインは忘れていなかった。ここから、スペインの反撃が始まるのである。コルドーバは全精力を傾けてこの事業に取り組むだろう。
ナポリの陥落を受けて、チェーザレはすぐさまローマに取って返した。自分の仕事は終わったのだから長居する必要もない。
ローマでは、ルクレツィアの3度目の結婚が決まった。
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しかし、父教皇は娘の幸せを一番に考えている。これまでの2度の結婚が、いかに愛娘を傷つけたか、よく分かっていたからである。破格の持参金を提示されてもそのまま了承した。結婚は正式にすすめられることとなった。
ルクレツィアはずっと、教皇庁のボルジアの部屋(アパートメント)に住んでいた。この結婚で彼女は初めてローマから遠く離れることになる。父教皇は娘の旅立ちを心から祝福した。彼にとっては、この別れがいちばん寂しいものだったかもしれない。
おそらく、チェーザレにとってもそうだっただろう。ルクレツィアは彼の側にいちばん長くいた女性だからである。妻のシャルロットですら、数ヶ月しかともに過ごせなかったのである。
1501年10月、ルクレツィアはフェラーラに発つ。チェーザレは領内を出るまで馬を駆って彼女を見送った。
寂しい秋だった。
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歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
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史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
If太平洋戦争 日本が懸命な判断をしていたら
みにみ
歴史・時代
もし、あの戦争で日本が異なる選択をしていたら?
国力の差を直視し、無謀な拡大を避け、戦略と外交で活路を開く。
真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル…分水嶺で下された「if」の決断。
破滅回避し、国家存続をかけたもう一つの終戦を描く架空戦記。
現在1945年夏まで執筆
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