16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第1章 星の巡礼から遠ざかって チェーザレ・ボルジア

報復 チェーザレの来た道8 1502年~1503年 チェゼーナ~シニッガリア

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<チェーザレ・ボルジア、レミーロ・デ・ロルカ、ヴィテロッツォ、オルシーニ、オリヴェロット、ニッコロ・マキアヴェッリ>

 みずからの傭兵隊長らの反乱がひとまず収束し、チェーザレはしばらく一人で考えていた。

 12月2日にボローニャの領主ベンティヴォーリオとの講和が済んでしばらく、ずっと考えたままだった。マキアヴェッリからの会談の申し出にも応じなかった。

 チェーザレが再び動いたのは12月10日のことだった。

 この日早朝4時、全軍に移動の指令が発せられた。
 ルクレツィアの嫁ぎ先、フェラーラから来た600の援軍にイーモラの守備を任せて、他の人間はすべて出発した。

 マキアヴェッリは風邪を引いていたのと本国から旅費が届かないため、チェーザレと同時にイーモラを出られなかった。彼はこの場面で狂言回しのようである。
 ドロテアも最後尾で輿に乗っている。さきに少しだけ紹介したが、彼女はチェーザレが攻略したリミニ領主マラテスタの庶出の子で、ヴェネツィアの傭兵隊長に嫁ぐ途中でチェーザレに見初められた。そう言うと聞こえがいいが、さらわれたのである。チェーザレが一目惚れするぐらい美しい女性だったと思われるが、ヴェネツィアにはいい印象を持たれてはいなかったかもしれない。彼女はそのようなこともあり、貴婦人として丁重に扱われていた。

 一行はファエンツァでフランス軍と合流し、それからフォルリまで一気に進み一日を終えた。そこからどこに進むのか、チェーザレだけしか知らなかった。

 12月11日、大軍はチェゼーナに合流した。チェーザレにとっては1500年のクリスマスを陽気に過ごした土地である。ここで全軍は待機を命じられた。出発が2日遅れたマキアヴェッリがたどり着いてもまだ、全軍は待機していた。

 マキアヴェッリはいぶかしんだ。
 彼の考えでは、チェーザレはローマに進むか、あるいは意表をついてもボローニャに向かうかどちらかだと思っていたのである。イーモラからフォルリ、チェゼーナに進むのであれば、ロマーニャを巡察しつつローマに凱旋するのが順当だろう。そう思っていた。しかし、マキアヴェッリが到着してしばらく経っても、一向に全軍に次の命令はない。
 しだいに彼は、イーモラを出る直前、チェーザレが沈黙のうちにあったことを思い出し、何か尋常ならざることが起こりそうな、不吉なものを感じ始めた。ただ、どのようなことなのか、そこまでは想像することができなかった。

 全軍は21日までチェゼーナに待機した。

 そして22日の朝、傭兵料支払いの話し合いがついたという理由でフランスからの援軍3300人がミラノに帰還していった。チェーザレの義弟にあたるダルブレ公の配下150人が残っただけである。
 マキアヴェッリは皆目理解ができなかった。援軍はここまで来ただけで戻されたのである。イーモラからチェゼーナまで歩いただけである。

 さらにその日の夜、チェーザレの側近で、ロマーニャ公国の行政長官を任されていたレミーロ・デ・ロルカが牢に入れられたという報をマキアヴェッリは耳にした。
 これは彼の思考をさらに混乱させた。
 イーモラを発つのが遅れたが、その間に何かあったのか。マキアヴェッリは何とか状況を判断しようと、チェーザレの秘書官をしているアガビートに何度も質問をしたが、参考になるような情報は得られなかった。そしてこれまでのように、チェーザレ本人に会見を申し込んだが、多忙とのことで断られた。

 イエス・キリストの聖誕祭を祝うため、というのがその理由だった。

 キリストの聖誕祭が明けた12月26日、一日がはじまり街に出たチェゼーナの住民たちは広場を見た。

 男は例外なく後ずさりし、女は例外なく悲鳴をあげて凍りついた。

 レミーロ・デ・ロルカが切断され、まっぷたつにされた死体となって、広場にさらされていた。

 マキアヴェッリもそれを見た。
 呆然として、立ち尽くすしかなかった。

 後年、彼はこの件について自身なりの解釈を書いているが、光景については簡単に触れるにとどまっている。
「チェゼーナで、ある朝、彼を二つにして広場にさらし、板切れ一枚と血にまみれた刃物をかたわらに置いた」

 敵ではない。

 なぜ、チェーザレ・ボルジアは自身のスペイン人側近をまっぷたつにしてさらしたのか。

 この時、マキアヴェッリには理解できなかったに違いない。
 その後まで知って初めて、おぼろげながらチェーザレの考えを推察するにいたるのである。

 フランス軍を皆帰してしまったこと、側近のロマーニャ公国行政長官を処刑してさらしたこと、それらは予告に過ぎなかった。


 チェーザレの公式声明では、「堕落した者による苛酷な行政に対する最も公正な裁きの例」とだけ説明されており、教皇アレクサンデル6世がヴェネツィアの外交官に語ったのは、「レミーロ・デ・ロルカはマッジョーネの反乱軍と内通していた」という内容だった。

 ロルカの死体を前に市民が恐怖におののく中、すでにチェーザレはチェザーナを去っていた。

 チェゼーナの先、シニッガリアには反乱を起こし先般講和がなった傭兵隊長らが集まっている。ヴィテロッツォ、オリヴェロット、パオロ・オルシーニおよびオルシーニ家のグラヴィーナ公である。バリオーニだけは病気のためという理由で領地のペルージャに籠もっていた。

 12月28日、チェーザレはペーザロで傭兵隊長らの使節に会った。シニッガリアのある要塞の城代がチェーザレに直接城を献上したいとのことなので、ぜひ出向いてほしいという内容だった。シニッガリアには傭兵軍の兵たちが皆揃っているのだから、少数で移動しているチェーザレをおびき寄せるための罠だと考えるのが自然である。

 しかし、チェーザレはあえて彼らの招待を受けた。受けると答えた上で、彼らに文書を届けた。

 シニッガリアの町から城外1レグワの距離まで彼ら全軍が撤退すること。そして正面の城門以外はすべて門を閉じること。

 この「囲い込み」の要求を突きつけられた傭兵隊長らは驚愕した。
 兵たちをみな撤退させて、自身らだけが直接チェーザレと対面するよう求めているのである。すでにレミーロ・デ・ロルカが凄惨な死体となった話は伝わっている。その意味がよく理解できていないのに、チェーザレが自身らに何をしようとしているのか。

 これまでチェーザレを一番側で見てきたヴィテロッツォは恐れた。ほとんど半狂乱になって逃げ出そうとさえしたが、回りに押しとどめられた。すでに講和は果たしている。ロルカの処刑はあくまでも行政長官として不手際があったためだ。全員の安全を保証するとまで文書には記されている。そう説得するオルシーニにも不安はあった。それでも、すでにチェーザレが命じていることに反するわけにはいかない。

 それがシニッガリアであれどこであれ、彼らは追い詰められたのである。

 1502年12月31日の早朝、チェーザレは6500の全軍に滞在地のファノからの出発を命じた。
 シニッガリアの街が見渡せるところまで来た時点で軍勢は分散し、甲冑を身に付けたチェーザレは前衛の500の騎兵隊と1000の歩兵隊、親衛隊とともに引き続き進んだ。川が見えると騎兵隊はその守備に付き、歩兵と親衛隊、チェーザレが城門に入っていった。見事な隊形である。

 なぜか、ここにもマキアヴェッリがいる。もうすでに、チェーザレ付きのジャーナリストのようになっている。
 彼はチェーザレが何を考えているか、どうしても知りたかった。それを知るためには、彼の行動を逐一見守っていなければならない。

 パオロとグラヴィーナ公がチェーザレ軍に近づいてきた。続いてヴィテロッツォも駆け寄ってきた。
 ヴィテロッツォは緑色の縁取りをしたマントを羽織って憂愁に満ちた表情だった、とマキアヴェッリは記している。

 ヴィテロッツォが駆け寄ってくるのを見ると、チェーザレは馬から下りてにこやかな顔を見せる。ヴィテロッツォもそれにならって馬を下りる。2人は抱き合う。それを見たオルシーニ家のふたりもチェーザレに駆け寄っていく。

 それを見ているチェーザレの側近たちが動いた。
 ミケロットが、その場にいないもう一人の傭兵隊長オリヴェロットをすばやく探す。
 そして、オリヴェロットを見つけると、チェーザレの側に来るように促す。
 にこやかなチェーザレとともに傭兵隊長4人は城門にいたる橋を渡る。

 城門の架け橋が静かに上がっていく。

 市街に入った五人はそのままチェーザレの宿所、ベルナルディーノ・ダ・パルマの家に招かれる。
 中央の広間を抜けると細長い部屋がある。チェーザレはそこに入り、4人が後に続く。
 チェーザレの少数の側近も続く。

 チェーザレが振り向いた。
 そして4人全員が部屋に入ったことを確かめると彼はミケロットに合図を送った。
 ミケロットが側近たちに目配せをした次の瞬間、4人の傭兵隊長たちに8人の側近が襲いかかった。4人は抵抗する間もなく捕縛された。

 チェーザレは囚われの4人を尻目に、外に飛び出していった。

 外にいるオリヴェロットの兵が待機していたチェーザレの兵たちに打ち倒されていく。
 それが一段落すると、次は城外にいるヴィテロッツォの兵たちを掃討する命令を出す。
 彼らも待機していたチェーザレ軍に壊滅された。
 チェーザレはすべてを粛々と、自身の決めたとおりにすすめていく。

 夜の10時、チェーザレの前にヴィテロッツォとオリヴェロットの2名が引き出された。
 チェーザレは彼らに、裏切りの罪を認めるかと聞いた。
 彼らにはそれを認める以外の言葉はなかった。
 ヴィテロッツォはシニッガリアに赴く時点でこうなることが分かっていたようだった。そして神に告悔をしたいとチェーザレに告げた。
 オリヴェロットは祈りの言葉を捧げるヴィテロッツォの隣で泣きじゃくるばかりだった。


 天井の梁に縄がかけられ、ふたりは台に並んで立たされた。
 首に縄がかけられ、台が外された。


 パオロとグラヴィーナのオルシーニふたりは処刑を延期され、他のオルシーニ一党の捕縛が済むまで、牢に入れられることになった。

 夜中の2時、チェーザレの頭の中にある段取りがひととおり終了した後、マキアヴェッリはチェーザレと対面した。
「自分の、そして君たちにとっても敵である彼らを滅ぼすことができて喜ばしい」とチェーザレは言い、こう続けた。
「イタリアの不和の源を滅ぼしたのだ」
 聞きなれない言葉にマキアヴェッリは聞き返したと言う。
「そうだ、イタリアだ」



 いにしえのローマ帝国が分裂して以降、イタリア半島に単一の国家は存在しなかった。イタリア、という単語もすでに古語も同然となっていたのである。マキアヴェッリはとうに分かっていたが、チェーザレ・ボルジアはイタリアに統一国家を興そうとしているのである。そして、その先にはかつてのローマ帝国の姿がおぼろげに描かれていたに違いない。

 プロイセン、ドイツと後に呼ばれる地域としての神聖ローマ帝国ではない。ローマを、イタリアを中心とするかつてのローマ帝国を描いていたのである。フランスも、スペインも、神聖ローマ帝国も、オスマン・トルコでさえも飲み込むほど広大な、世界の歴史上に輝かしく残る一大帝国である。マキアヴェッリはプルタルコスの本を取り寄せた時点で、そのことに気が付いていたかもしれない。

 レミーロ・デ・ロルカの処刑についてはマキアヴェッリも後に説明しているところだが、彼の行政長官としての暴政ゆえであるとか、反乱軍と通じていたなどの理由は後付けに過ぎないともいわれる。あくまでも政治的な理由だと。それにしても側近の死体を最も残酷な形でさらしたのはなぜか。本人に聞いてみないと本当のところは分からない。

 ただ、反乱が起こった理由を考えるならば、「教皇とフランスの威を借りたスペイン人」という世評を覆すためのものだったかもしれない。

 彼は代々イタリア半島に根を張ってきた人間ではない。
 父はスペイン出身の教皇である。あくまでもロマーニャ公チェーザレは「外国人」なのである。フランスのルイ12世やスイス人傭兵やスペインのゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドーバ司令官と同様なのである。
 もし、チェーザレが今後も進軍を進めていくならばフランスが力を貸すにせよ、スペインがそうなるにせよ、外国人がイタリア半島を侵食することにしかならない。いくらローマに生まれ育っても、父がスペイン人として有名な存在である以上、容易に消すことができないレッテルである。
 チェーザレはこの反乱を利用して、それを払拭しようと思ったかもしれない。

 レミーロ・デ・ロルカに処刑されるほどの瑕疵(かし)はなかった。
 スペイン人をいけにえに捧げる必要がある、とチェーザレは考えたのである。

 自身が外国人としてではなくローマ人として、イタリアの君主となるために。


 反乱勃発からレミーロ・デ・ロルカの処刑、シニッガリアの傭兵隊長捕縛と処刑までの一連の出来事はイタリア半島諸国に危機感を与えるのに十分だった。
 ヴェネツィア共和国は国境沿いのラヴェンナに大軍を集結させて備え、チェーザレと友好関係にあるボローニャ、マントヴァ、フェラーラの両国も兵を待機させる。そして、この動きをいちばん危惧しているのはフランス王ルイ12世だった。

 1503年1月、シニッガリアを出たチェーザレはすぐに反乱軍の残党討伐に移った。
 ヴィテロッツォの弟がペルージャに逃亡したこと、バリオーニがシエナに逃亡したことなどが5日にわかった。

 翌6日には、チタ・ディ・カステッロとペルージャの市民代表が、チェーザレに両地を捧げたいと言って赴いてきた。チェーザレは了承し、ペルージャとは同盟関係を結ぶ。当然ペルージャの地に逃げた者たちは即刻追い立てられることになる。

 そしてチェーザレ軍は討伐最後の地シエナに向かう。ここで軍勢を終結させて反乱に加担した者を追放させる。そのままシエナを攻撃するという手段も取れたが、教皇領ではないシエナに歩を進めることはフランスを刺激するに違いなかった。

 チェーザレは睥睨(へいげい)するようにゆっくりと兵を進め、2月にローマに入った。


■引用
 レミーロ・デ・ロルカ処刑の記載「 」内 「君主論」マキアヴェッリ著、河島英昭訳(岩波文庫)
 シニッガリア事件後のチェーザレ・ボルジアの言葉 「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」塩野七生(新潮文庫)
 地図内の詩 「ロルカ詩集」フェデリコ・ガルシア・ロルカ 長谷川四郎訳(みすず書房)
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