16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第1章 星の巡礼から遠ざかって チェーザレ・ボルジア

運命の手 チェーザレの来た道9 1503年 ローマ

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<チェーザレ・ボルジア、教皇アレクサンデル6世、ミケロット、ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドーバ>

 1503年2月、チェーザレはローマに戻った。ドロテアもレオナルド・ダ・ヴィンチも一緒である。マキアヴェッリは使節兼現場証人の体(てい)だったが、ようやくフィレンツェに戻った。

 ドロテアとレオナルド・ダ・ヴィンチはチェーザレと行動をともにする存在であるから金は必要ない。しかし、マキアヴェッリにフィレンツェに戻るだけの十分な旅費があったかは定かでない。彼はいわゆる公務員の平均的な給与を得ているだけで、自腹を切る余裕はないのだ。年収は1498年で192フィオリーノだったと記録が残っている。
 旅費をチェーザレから融通してもらったかもしれないと考えると愉快ではある。横でチェーザレの秘書官アガビートはニヤリとしただろう。
「フィレンツェはけちだからな」

 さて、チェーザレがするべきことは山積みになっている。反乱で動揺しているロマーニャ公国を建て直さなければならないし、ボローニャの攻略、反乱勢残党の討伐、残党が逃げ込んでいるシエナなどとの交渉、フィレンツェ攻略もまだこれからである。シエナについてはフランス王ルイ12世が再度干渉してきたために、残党の追放以外に手を出せない状況になる。

 そして、根本的な、喫緊に見直すべき課題は目の前に横たわっている。
 フランスとの同盟見直しである。チェーザレがイタリア中部を制するために、フランスの干渉は妨害にしかならない。
 今回の反乱に対してはフランスが味方に付いたため、イタリア北部やヴェネツィアなどの諸国が敵に回ることもなく、戦闘を最小限に抑えて勝利することができた。それには感謝しなければならない。しかし、チェーザレの侵攻ぶりに懸念を抱くルイ12世の意向を汲んでいたら、ことはいつまでも進まない。

 それならば、どこと組むのか。選択肢はスペインしかなかった。

 この頃、スペインは再び反転攻勢に出ていた。

 ナポリではフランスとスペインが1501年から本格的な交戦状態に入っている。グラナダ協定でナポリを2分割するという約束をしたのは完全に反故となった。
 決戦はこの年の4月のことだった。スペイン軍は8000強の兵を揃えている。その中には神聖ローマ皇帝のマクシミリアン1世から与えられた援軍も含まれている。両国が結びついているということである。フランス軍もほぼ同勢力だった。
 21日、フランス軍の兵站基地であるチェリニョーラの側の丘にスペイン軍はひそかに土塁と塹壕を築いた。フランス軍は荷物の運搬をしているのだろうと思い、その動きを看過してしまったが、それも仕方ない。
 フランス軍はこのような状況に遭ったことがなかった。
 これが記録に残る最初の塹壕戦であると指摘する向きもある。

 スペイン軍の襲来を知って、フランス軍騎兵が突撃する。このとき、スペイン軍の火薬の束が爆発するというハプニングが起こる。この爆発が合図だと思った砲手が大砲を放つ。続けてマクシミリアンの射手が銃で次々と定点から敵を狙った。スイス槍兵が主力のフランス軍は何段かに分けて攻撃を仕掛けたものの、一気に劣勢になり後退を余儀なくされる。この戦いでフランス軍は3000の兵を失ったのに対して、スペイン軍は100ほどの犠牲で済んだという(500ともいわれている)。
 戦術の勝利だった。
 この戦いを契機にして、ナポリにおける勢力争いはスペインに軍配が上がることになる。

 チェーザレはこの話を耳にしてスペイン軍の戦い方に感嘆していた。
 圧倒的な勝利を戦略によって得たゴンサロの手腕を自軍にも生かせたらすばらしい。

 とはいっても、そう簡単にフランスからスペインへと乗り換えられるものではなかった。チェーザレの妻子はいまだに人質のような形でフランスにいる。援軍を出してもらってもいる。上手く事を運ばなければ元も子もなくなる。

 ただ、父教皇はチェーザレの考えを聞くと一も二もなく賛成した。教皇、いやロドリーゴ・ボルハはスペイン人だからである。しかし、そのためにどのような策を取るかという考えはない。スペインへの接近を公的に口にするようになる。チェーザレは火を消すようにそれを否定して回らなければならなかった。

 息子は父に失望している。

 父教皇は70歳を越えた。教皇になってからも11年が経とうとしている。昔日の策略家の面影は消えつつあった。言葉にしなくとも、マキアヴェッリには分かったことがチェーザレの父には分からなかった。

――教会軍総司令官、ロマーニャ公国の領主、フランスにも領地を持ち爵位も得た。それだけ手に入ればもうよいのではないか。ナポリでもスペインが優勢になりつつある。フランスとは手を切ったほうがいい。これからは祖国スペインと同盟を組んで、ナポリを共同で統治すればよいではないか。そうすれば半島の中部以南はわれわれのものとなるのだから――

 スペインとの同盟を考えてはいても、父と子の考え方は違う。チェーザレにとってスペインは祖国ではない。あくまでも、自身の野望を達成するための道具の一つに過ぎないのだ。
 この頃のチェーザレが骨身にしみて感じていることがあった。自身が教皇や他国の力を借りなければ力を振るえないことだった。領主ではない、王として立つためにあとどれほどの成果を上げればよいのか。
 彼にとっての分岐点がここにある。

 彼は春の間、あまり人に会うこともなく、時たま狩りに出る以外はローマで考え続けた。



 1503年の夏がやってきた。
 ひどく暑い日が続いた。
 テヴェレ川の水は腐敗し異様な匂いを放った。風も微動だにしない。

 チェーザレは7月に自らの公国を巡察しローマに戻っていた。

 疫病(えやみ)がローマにその黒い影を落とし始めていた。

 その病気はマラリアだと言われている。そうだとすれば、熱帯性の悪性マラリアではないかと思われる。
 マラリアはハマダラ蚊によって媒介され、症状としては高熱とそれに伴う劇的な身体的症状が3日からそれ以上続く。一度収まってもまたぶり返すので、「3日ごとの熱」などと呼ばれていた。自然治癒する場合もあるが、最悪の場合は脳や腎臓などに臓器不全を起こし死に至ることもある。意外に思われるかもしれないが、マラリアはイタリア語である。直訳すれば、「悪い空気」となる。このときは蚊が感染源だとは思われていない。それが特定されるのは19世紀のことである。感染は広がる一方だった。

 ローマはまさに悪い空気に覆われていた。
 人々はバタバタと熱に倒れた。
 疫病は、人々が危機感を覚える頃にはすでに手のつけようがなくなっている。
 枢機卿の家という家が病院になった、と当時の記録は記している。そのころは病院や救貧院の機能を教会、聖職者が担っていたからである。

 逃げ出せる者は皆、ローマから逃げだした。
 道端では行き倒れの死体がそこらかしこに見られるようになった。そして、それは万人に対して平等に降りかかる。教皇庁も例外ではなかった。

 フィレンツェのブラッチ大使が倒れて亡くなった。
 教皇の甥のジョヴァンニ枢機卿も亡くなった。

 8月12日には教皇アレクサンデル6世、翌日にはチェーザレ・ボルジアも病を発症し、倒れた。

 当初、チェーザレの方が症状が重かった。熱にやかれ、割れるような頭痛にのたうちまわった。特大の弓から放たれた矢のような速さで駆けつけたミケロットが、発作に暴れる主人を押さえている。
 一方の教皇はぐったりとしている。チェーザレの暴れようとは対照的であった。そして、教皇の生命の灯のほうが先に消えることになる。

 8月18日、教皇アレクサンデル6世は亡くなった。

 寝たきりのチェーザレ、その意を受けている忠実なミケロットは直ちに動いた。彼はこれまた忠実な側近団に命じて、教皇宮と要塞であるカスタル・サンタンジェロを全面封鎖した。また、教皇の秘書官から教皇庁の財宝室の鍵を奪い金銀財宝の類をすべてチェーザレの側に寄せさせた。

 不穏な動きの一切を封じるためである。チェーザレが回復するまでは何としてでも、すべてを統制可能な状態にしておかなければならなかった。

 疫病などものともしないミケロットと側近団が作業を完了して初めて、病床のチェーザレから教皇アレクサンデル6世の崩御が発表された。


 すでに脱出した者も多い疫病のローマで、アレクサンデル6世の葬儀がしめやかに行われた――と美しく描きたいところだが、サン・ピエトロ聖堂には枢機卿以下、重職にある聖職者の姿はない。酷暑の熱は教皇の遺体を激しく腐敗させ、棺に入らないほど膨れ上がらせてしまったという。
 もちろん、病床のチェーザレが参列できるはずもなかった。

 父親の死について感傷にも浸れず、今後の対策にも取り掛かることができない。チェーザレは熱にうなされながら、自身の足元がぐらりと崩れていくのを感じていた。身体を張って彼を守っているミケロットの背中と大きな手だけが、朦朧とした意識に強く刻み込まれた。

 チェーザレと二人三脚で歩いてきたともいえる父である。最近では考え方の違いが出たものの、息子を廃することなど考えない父であった。枢機卿を辞めるときも、フランスと接近したときも、反乱が起こったときも、父は常にチェーザレの味方だった。親子で謀略をはかったと後世言われるにせよ、それだけは事実であった。
 教皇はネポティズモ(親族主義)が極端で、決して評判がよいとは言えなかったが、イタリア半島が危機に瀕した11年を辛くも乗り越えたのだから、その点はきちんと見るべきであろう。

 教皇が亡くなれば直ちに枢機卿団によるコンクラーベが開かれる。
 次期教皇は枢機卿の中から選ばれる。現代では次の教皇が決まるまで部屋から出られないので、「根くらべ」と揶揄されるが、このときはコンクラーベまでに間があった。ローマが緊急事態の状況にあるのと、多分に政治的な意味合いが強かったからである。
 8月19日には枢機卿団が会議を持ち、コンクラーベの開催について話し合った。それと同時に、チェーザレに新教皇の決定までローマからの退去を要請することも決められた。ただ、チェーザレがまだ寝付いているため、ヴェネツィアの外交官がそれを諮りに行くこととなった。

 いつの間にか、ヴェネツィアが前面に出てきている。

 ミケロットはその状況を知ると、矢も盾もたまらず、翌日も開かれた枢機卿会議に飛び込み、剣を抜いて一同の前に立ちはだかった。それを枢機卿の一人、フランチェスコ・レモリーネスが押しとどめた。彼はスペイン人でチェーザレの家庭教師を長くつとめていた。彼の涙ながらの説得にミケロットはようやく剣を収めた。

 歴史上、枢機卿会議に剣を持って乗り込んだ人間はいなかったに違いない。
 それだけ、非常事態だったということである。

 ミケロットは伏せたきりの主君のために東奔西走していた。
 この年のミケロットの働きぶりはすさまじい。チェーザレの部分であまり触れていなかったので、ここで記しておく。

 1月には昨年の反乱首謀者、パオロ・オルシーニら2人を処刑。一族のロベルトは講和仲介の功により咎められなかった。以降、ウーゴ・デ・モンカーダとカーリを攻略、扇動者であった司教らを縛り首にする。
 チェーザレがシエナやボローニャとと丁々発止のやり取りをする中で、チタ・デ・カステッロ、ヴィテルポ、ムニャーノ、ヴィトルキアーノを転戦した後、3月にはオルシーノの居城のひとつであるチェーリを攻略する。チェーザレは彼に褒賞としてモンテグルドルフォを与えた。
 ミケロットはもちろん、褒賞や領地がほしくて戦っていたわけではない。チェーザレの駒としての役割を完璧に果たすことだけを考えて行動していた。
 6月、密告の罪でアレクサンデル6世の諜報官であるフランチェスコ・トローチを殺害する。死体は塔にぶら下げられた。7月には、軍を離脱したいと申し出た隊長2人を殺害。

 戦っているか、処刑しているかである。再度の反乱を防ぐために奔走する日々を送っていた。そして8月、ペルージャにいたミケロットは教皇死去の報を受け、一路ローマに駆けるのである。

 ミケロットには気が休まる暇がない。

 教皇の死を待っていたかのように、勢いづいたオルシーニ勢、ロマーニャの豪族でチェーザレの下についていたコロンナ家の一党がローマに進軍してきた。ミケロットはチェーザレの弟ホフレとともに軍勢を率いてローマ防衛にかかる。
 ローマは戒厳令の様相を呈していた。
 ミケロット率いるチェーザレ勢はコロンナ勢に交渉し城を一つ渡すことを約束する。コロンナ勢はオルシーニ勢から離れる。これでローマはひとまず守られた。しかしこれで丸く収まるはずはない。これまで征服され、血縁者が殺された者の恨みは深かった。

 チェーザレが反乱勢を許さなかったのと同様に、彼らもチェーザレを許さなかったのである。

 9月2日、まだ本復していないチェーザレは枢機卿団の要請を受け入れ、ローマを離れネピの離宮に移った。チェーザレの軍勢だけではなく、オルシーニやコロンナ勢も同様にローマに入らないよう協定を結んだ。チェーザレに教会軍総司令官の役割が保証されるという言質はかろうじて取っている。彼はネピの城でまだ体調が戻らないまま、28歳の誕生日を迎えた。

 そんな中で9月16日、コンクラーベは行われる。

 フランス、スペインとイタリア諸国の思惑が絡み合う中、22日、新教皇に選出されたのはシエナのフランチェスコ・ピッコローミニ枢機卿であった。新教皇ピオ3世の誕生である。大国の思惑があまり関わっていない人事である。

 もっともピオ3世はもう80歳を越えている。つなぎと考えるのが妥当だった。

 この新教皇はアレクサンデル6世とも親しく交流していたため、チェーザレに同情的であった。ヴェネツィアが本格的にイタリア半島中部を奪い取る算段をする中、教書を持ってそれを止めるよう命じもした。しかし、反乱の火を消すことまではできない。ウルビーノ、ペルージャ、カメリーノ、ペーザロ、リミニ、サンマリノなどの征服地は旧領主らが反乱を起こし、恭順を撤回した。
 しかし、チェゼーナ、フォルリ、ファエンツァ、イーモラの地はまだ固く城門を閉ざして他の侵攻に備えている。残酷な事件はあったものの、チェーザレが理想の首都を作ろうとしていたことに市民は共感していたのである。これらの地はぎりぎりまで主君に忠誠を誓うことになるのだ。
 急速にしぼんでいくチェーザレの「力」に新教皇が同情したのは無理もないことだった。

「私が、公爵に同情することになろうとは想像もしていなかった。しかし今は、あの若者は重病の身なのだ」とは新教皇の言葉である。

 その若者は許可を得て10月3日、ローマに戻った。
 しかし、彼を取り巻く状況は悪くなっていくばかりだった。チェーザレの凋落ぶりをあおったヴェネツィアによって、フランス、スイス、イタリア半島の傭兵団がチェーザレを捨てヴェネツィアの下に走った。
 またスペイン王フェルナンドはスペイン人がチェーザレの下に付くことを禁じる命令を発した。

 これはたいへんな痛手だった。ウーゴ・モンカーダら、これまでチェーザレに忠誠を尽くしてきた者で構成する直属軍が解体の危機に瀕することとなったのだから。残ったのはスペインの命令を破って残ったミケロットら少数の人間と、ロマーニャで構成した市民軍の人間だけだった。

 10月の半ばには、再びオルシーニ、コロンナ、そしてヴェネツィアの連合軍がローマに進軍してくる。まだ病み上がりのチェーザレは剣を持って立ち上がるが、多勢に無勢で勝敗ははじめから明らかである。秘密の地下通路を抜けて、カスタル・サンタンジェロに逃げ込むしか方法がなかった。

 ナポリ戦線で敗色の濃いフランスからの援助は期待できなかった。
 スペインとの同盟もまだ模索している状態で止まっていたし、今さらどうにかできるものでもなかった。彼はフランスの支援をずっと受けていたのだ。亡きアレクサンデル6世とは関係を保っていたスペインも、その子に対して信頼を抱くことができなかったのも仕方ないことである。

 さらに10月18日、チェーザレをさらなる衝撃が襲う。
 教皇ピオ3世が亡くなったのである。在位はわずか26日。

 彼はローマで四面楚歌の状態に置かれることとなった。

■引用 ピオ3世の言葉「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」塩野七生(新潮文庫)
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