16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第1章 星の巡礼から遠ざかって チェーザレ・ボルジア

自由 1506年12月 サンタンデールからパンプローナ

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<チェーザレ・ボルジア、マルティン、ミグエル、ナヴァーラ国王ダルブレ、マリア>

 メディナ・デル・カンポのモタ城も遠くなった。
 ベナヴェンテ伯からの援助を受けて、その城を脱出したチェーザレと、伯爵が付けた従者マルティンのふたりはようやくカンタブリアの山を越えた。はるか遠くに海が見える。

 ビスケー湾である。イベリア半島の北の果てに広がる海である。



 チェーザレはその海の蒼く濃いさまを見た。
 冬の海である。穏やかな紺碧の海ではない、白いしぶきをあげる藍色の海であった。
 彼は、地中海から遠く離れたことを今さらながら強く感じずにはいられなかった。

 サンタンデールはこの一帯でいちばん栄えている街である。フェルナンド王の手配書はここにも回っている。チェーザレはまた用心しなければならない。まだ身体の疼痛に悩まされているし、折からの気温の低さによるものか頭痛も激しくなっていた。それでも、サンタンデールまで出れば、ナヴァーラへの道筋が見えてくる。

 翼があれば飛んでいくだろう。

 難所を越えてから目的地までの距離というのは、思いのほか長く感じるものだ。時間的には変わらない場合も同じである。身体が興奮しているのだ。頭が「早く着きたい」と思えば思うほど、気ははやり、心臓の鼓動も脈も早く打つ。そのリズムが通常自分の感じている時間、あるいは一般的な時間より早く進んでしまうために、それらが後からついてくる形になる。それで時間の経過が遅く感じられるのだ。

 時間はチェーザレにとって、とても長いものだった。
 チェーザレの場合は満身創痍でもあるし、長い虜囚生活で体力がまったくなくなってしまったこともあるだろう。

 疲労がなだれのように彼を飲み込んでいた。

 チェーザレとマルティンはゆっくり歩を進めながらも、ようやくサンタンデールの街に入った。先に馬で向かったミグエルに会えるかマルティンは心配していたが、ミグエルはちゃんと街の入口で馬と一緒に待っていた。
 チェーザレは微笑んだ。
 口にはしなかったが、信じていた者が裏切らなかったことを心底嬉しいと思っていた。昔は誰もが自身の命令に服従していたので、それを嬉しいと思うことはなかった。

 3人はふたたび合流したのである。

 船の調達には手間取っていた。
 ビスケー湾沿岸を東に進む行程なので、大きな船である必要はまったくない。逆に大きな船を秘密裏に調達すれば追っ手にすぐ嗅ぎ付けられるだろう。ミゲルは小さな漁船を出すようほうぼうあたっていたが、なかなか首を縦にする漁師はいなかった。11月も後半になって荒天が続いており、漁に出る物好きはいなかった。それでもミゲルは金を積んで、何とか小船を調達することに成功した。

 チェーザレは喜んだ。
 ミグエルがきちんと船を用意してくれていたのだから。ベナヴェンテ伯の思惑はともかく、ミグエルとマルティンだけはチェーザレに忠実だった。チェーザレは久しぶりの街の賑わいを見ながら、今夜は酒場でカンタブリア越えの慰労をしようとふたりに提案した。
「アントーニ、ここにも手配書は回っています。宿屋で静かに休んだほうがよいのでは」とマルティンが返す。アントーニとはチェーザレの偽名である。
「私の顔はできるだけ出さないようにする。行こう」

 マルティンの危惧は当たってしまう。

 サンタンデールの酒場で歓談する3人のところへ、警吏が踏み込んできた。そして3人の素性を尋ねた。

 ミグエルが金を積んで小船を調達しているのをいぶかしんだ漁師が知らせたのである。金を詰まれた漁師を嫉んだのかもしれない。人の悪意というのは、そのような小さなほころびから拡大していくものだ。
 それに、チェーザレ・ボルジアには莫大な懸賞金がかけられている。

 マルティンもミグエルも、「自分たちは小麦の商談をするために急いで東に向かいたいのだ」と説明した。ただ途中で仲間がケガをしたため、馬よりは便利がよいので船を頼んだのだと。アントーニ、すなわちチェーザレも病人のふうを装ってうなずいた。喋れば微妙なヴァレンシア、いやイタリア訛りが出てしまう。
 このときの手配書にはチェーザレが凶暴な男であるように書かれていたが、目の前のチェーザレはやつれてがりがりに痩せた男であったし、病人と言っても差し支えないほど顔色も悪い。頭巾(フード)の隙間から見える髪も若者のそれではなかった。ありていに言えば白髪がかなり混じっていた。それで警吏の目をくらますことに成功できたのである。

 それでも、疑いが完全に晴れたわけではなかった。翌日、3人の宿に再び警吏が集団で訪れる。しかし、そのときにはもう3人は船上の人となっていた。

 サンタンデールを出る頃からチェーザレは熱を出した。体力がないところに無理な冬の山越えをしたのがたたったのだろう。

 吹けば飛ぶような、踏めばギシギシと音を立てる小さな漁船に横たわって、チェーザレは震えていた。船頭とやりとりをする傍らでマルティンがチェーザレを抱くように支え、自分の身体で彼を暖め続けている。

 空は重く、冷たい雨が降っている。それが時おりみぞれに変わり、ピチャッという音を立てて頭巾や頬にぶつかってくる。風は渦を巻くようにうねり、高い音を立てて吹きすぎていく。波は高い。船頭も船を操るのに苦心している。



 マルティンとミグエルは高熱に喘ぐチェーザレと、荒れた冬の海を交互に見て、進路を少し変えることにした。本来であれば、サンタンデールからドノスティアまで一気に船で進み、パンプローナまで一直線に南下する予定にしていた。しかし、この状況でそこまで行くのは難しいし、漁師である船頭もためらっていた。そこで、その中間のカスタル・ウルデアレスまで船で行き、あとは陸路を取ることにしたのである。

 あまり距離を稼ぐことはできないが、仕方のない選択だった。

 チェーザレは熱にうなされ、震えながら夢を見ていた。

 女神が微笑んでいる。
 彼女は光の階梯を背にして立ち、そこにはうっすら翼も見えるように思える。天使なのか……チェーザレはぼんやりとその姿を見ていた。
 女神の顔はルクレツィアのようでもあり、シャルロットのようでもあり、ドロテアのようでもあった。
 青い、サファイヤのような瞳が光った。モーラだ。モーラが迎えに来たのか。

 だとすると、私はもう死ぬのか。

 女神は微笑んで何も言わない。
 その姿が消えてしまうような気がして、彼は怖れた。
 手を伸ばして女神の手を摑もうとする。
 そして、チェーザレはあるひとつの名を叫んだ。

「マリア! 」

 伸びた手は虚空を摑んでいた。

 マルティンの心配そうな顔が視界に入った。
「大丈夫ですか、アントーニ? 」
 昼なのに暗い海の上で、小さな漁船は波に弄ばれている。チェーザレは現実に引き戻された。そして右手で自分の顔を撫でる。
 涙で濡れていた。

「あと少しで、カストロ・ウルデアレスに着きます。上陸したら暖をとってまず休みましょう。あと少し、あと少し辛抱してください」

 それから一時間ほど進み、カストロ・ウルデアレスの港が見えてきた頃、重苦しい空を少しずつ裂くように、陽光が幾筋も差しはじめた。

 チェーザレは横たわったままで空を仰ぐようにそれを眺めている。
 あの夢に出てきた空のようだ。
 そして彼はは自分がまだ生きているのだと感じていた。

 カストロ・ウルデアレスに上陸した3人はまず馬を探したが、田舎の町でそれを見つけることは容易ではなかった。チェーザレはとりあえず港の側の宿屋で休ませ、マルティンとミグエルが交互に馬を探し回った。ここから4レグア(20km)離れたビルバオまで出れば馬の調達は簡単だが、衰弱しているチェーザレがそこまで歩いて移動するのは不可能だった。

 ビルバオからパンプローナまでは街道が通じている。およそ30レグアの距離(150km)である。今度はピレネー山脈の方角に向かうことになる。船で距離を稼げなかったので、まだパンプローナは近くない。そして、まだ油断するわけにはいかない。

 しかし、ここはスペイン領ではあるがバスク地方に入っているため、マルティンとミゲルは少しだけ安心していられる。ここがカスティーリャとナヴァーラの緩衝地帯だからだ。

 結局馬を調達できなかった2人は修道院でらばを3頭引き連れて戻った。その間に暖かい部屋で休んでいたチェーザレの熱はだいぶ下がっていた。あと2、3日休んだほうがよいと2人がすすめたが、すでにバスク地方に入ったと聞いたとたん、すぐにでも出発したいとチェーザレは言った。
 結局、翌朝には出発することになった。

 馬に比べてらばの動きはチェーザレにとって緩慢に過ぎた。しかも、まだ30レグアも距離があるとは。ここに来てのゆっくりとした移動はチェーザレをいらつかせた。しかし利点もある。誰も逃亡者がらばを使うとは思わないからである。すでに一ヶ月以上旅をしている3人は立派なノマドになっていた。小麦商人には見えないし、裕福にも見えない。その点でらばという選択肢は正しかったのかもしれない。

「パンプローナに着いたらお別れですね、アントーニ」とミグエルが少し寂しそうに微笑んで言う。
「結局、サンタンデールで散髪も髭剃りもできませんでした」とマルティンが笑う。

「パンプローナに着いたら、皆立派な服を誂えてもらおう。もちろん、散髪も髭剃りも、ご馳走も酒も女も! 後は立派な馬を! ナヴァーラ王がそこまでしてくれるものか分からないが、ここまでの旅の礼にそれぐらいはさせてくれ」
 チェーザレは心からそう言った。

 そして、船上で熱にうなされたとき見た夢のことを思い出していた。

 自分はあの海で死んでも不思議ではなかったのだ。いや、モタ城の塔から落ちて死んでも不思議ではなかったのだ。チンチーリャ城で決闘の末に城兵に刺されて死んでも……いや、そもそもあの1503年の夏に自分は死ぬはずだったのかもしれない。それが長患いはしたが回復し、父はあっけなく数日で天に召された。

 なぜ父が死に、私が生き延びた? 
 なぜモーラが死に、私が生き延びた? 
 なぜ従者が墜落して、私が生き延びた? 

 あの夢を見て、私は「マリア! 」と本能的に叫んでいた。
 聖母マリア、それは何のためか、あなたは知っているのか?


あなたの人生を、もう終わったものとして考えなさい。
そして残された日々を、
それがまるであなたの人生の続編に過ぎないかのように、
自然と調和して生きなさい


 チェーザレの頭の中に、昔そらんじた聖人の言葉が突然よみがえった。あれは聖アントニウスだったか……はっきりとは思い出せなかった。あの本はどこかで見られるか、調べたいが……パンプローナの教会に行けばあるのかもしれない。司祭だったのに学びに行くとはおかしな話だ。

 チェーザレはずっと考えながら、らばで進んでいた。

 賑やかな街の姿が目の前に見えてきた。
 パンプローナに入った。

 1506年12月3日のことだった。

 イベリア半島に送られて3年にも渡る虜囚生活はこのとき終わったのであった。

 ナヴァーラのダルブレ王は突然現れた3人に驚くことしかできなかった。

 目の前にいる妹シャルロットの夫、すなわちチェーザレ・ボルジアはダルブレ王が思う姿とまったく異なっていた。げっそりとやせ細って青い顔をした白髪混じりの男としか認めることができない。これがあの、ヴァランス公爵だとは!

 すでに忠実な臣下となっているミグエルとマルティンが、王の前にひざまずいてモタ城の脱出からの顛末を語った。その話が、この痩せこけた男がチェーザレ・ボルジアであるというたった一つの、しかし確かな証であった。それを見ながら彼らの話の主人公は、黒いマントを外すことも忘れて天を仰ぎ、何かをこらえていた。

 さっそく、チェーザレには暖かい居室が用意され、同行者2人とともに歓待される。暖かいパンにスープが供される。チェーザレにとって、いや、冬の旅人にとって生涯忘れ得ぬほどの素晴らしい食事だった。

 パンプローナからひとつの布告が発信された。

「多くの苦難の末に、神は私を捕囚の身から解き放ち、自由を与えるよう決心された。この手紙を持って行く私の秘書官フェデリーコが、その詳細について報告するであろう。現在私は、ここパンプローナに、ナヴァーラ国の高潔なる王並びに王妃と共にいる。ここには、12月3日に到着した」
(引用「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」塩野七生 新潮文庫)

 12月3日は彼にとって、新たな出発の日であった。

 この文書はダルブレ王がチェーザレに付けたフェデリーコという秘書官が、各国に配信することとなった。12月7日にパンプローナを出発したフェデリーコがイタリア諸国に持参し、スペインやフランスの外交官にも手渡された。フェデリーコが陸路イタリアに入ってその知らせを半島にもたらしたのは、12月27日のことだった。すでに1506年も終わろうとしていた。

 チェーザレ・ボルジアがナヴァーラ国の庇護を受けることになったこと、スペインでもイタリア半島の諸侯でもフランスでもなく、ましてや教皇庁からの支配からも自由な新しい場を得たことを力強く宣言したのである。
 あえてそう宣言することが、ナヴァーラにとっても大切な切り札になる。ダルブレ王もチェーザレの扱いについて慎重に考えていた。スペインとフランスの狭間で難渋しているこの国に光を与える存在として、亡命した英雄を受け入れることにしたのである。


 イタリアに届いた知らせを歓喜の声で受け止めたのは、何より妹ルクレツィアであった。

「あのカードは間違いではなかったわ、アルフォンソ! 兄さまは自由になった! 自由になったのよ! 」
 涙声でしがみつくルクレツィアに、アルフォンソは目を細めてうん、うんとうなずいた。ルクレツィアの身体を抱きしめながら、アルフォンソは目を閉じた。

 義兄上もこれからが本当の正念場だ。
 楽な道ではないだろう……。

 涙を流して喜ぶ妻を見ながら、アルフォンソは複雑な表情を見せた。そして、妻が聞き取れないほどの小さな声でつぶやいた。
「選んだカードの通りに……神のご加護がありますことを」
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