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第1章 星の巡礼から遠ざかって チェーザレ・ボルジア
星の巡礼から遠ざかって 1506年11月~ イベリア半島北部
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<チェーザレ・ボルジア、マルティン、ミグエル、老婆>
メディナ・デル・カンポのモタ城を負傷しながらも脱出し、ナヴァーラ王国への道を進み始めたチェーザレ一行3人であった。
カスティーリャの首都にあたるバリャドリッドを足早に通り過ぎた一行は、ビトリアに向かう大きな街道ではなく、真っ直ぐ北に伸びる細い道をパレンシアの方向に進んでいる(ヴァレンシアではない)。この辺りまで来ると、カンタブリア山脈の山々が目に入る。すでに山々の頂は雪化粧をしている。寒さも一段と厳しくなっている。
チェーザレは白い息を吐きながら馬を操っていた。頭痛が時折彼の表情をゆがませた。まだ出発のときからの頭痛が残っているのだ。
チェーザレは31歳になったばかりである。
しかし長年の幽閉生活は彼の身体をすっかり変えていた。ナポリを出るまではしなやかな鞭のような肢体をしていたが、今は肉が削げおちたように痩せこけて、目ばかりがギラギラと目立つ。体力がなくなったのはもちろんのこと、塔から脱出するときに強打した左半身もまだ痛んだ。折れた左腕もまだ固定している状態である。それでも、当初の不自由さはだんだん感じなくなっていた。
寒さは厳しかった。しかし、チェーザレは頭痛の重さを感じながらも、冷たい空気を何度も吸い込んで深呼吸する。自分が外を歩いたり、馬に乗ったりしていることが夢ではないかと思うからだ。目を閉じる。目を開く。もしかすると目を開いたらまた塔の上に閉じ込められているのではないか。これは夢なのか、あの日々が夢だったのか。
目を閉じている間、チェーザレは塔の部屋の映像を頭の中に流している。
そこにはモーラが、ハヤブサがいる。生活をともにした従者もいる。チェーザレは数少ない、言葉をほとんど交わすことのなかった、彼の心の救済者に語りかける。映像は少しずつ色あせていく。ずっと目を閉じていれば、彼らがずっと自分の中にとどまってくれるのではないかと一瞬思う。留めておきたい。
「あなたはどうか……自由に」
モーラの声が聞こえる。ハヤブサは彼を導くように飛び去っていく。
チェーザレはおそるおそる目を開く。
そこには森が広がり、遠くには何百キロも続く広大な山脈が映る。
これが現実だ。
これが自由だ。
パレンシアを過ぎ、アムスコを過ぎてしばらく行くと、チェーザレ一行は十字路に立った。オソルノの辺りである。
チェーザレ一行が進むのは真っ直ぐ北に進み、カンタブリアを越え東に折れる道である。そして横切る道はブルゴスからレオンへと東西に進む道である。横切る道はチェーザレ一行の道よりさらに細い。
人が途切れることなく通り過ぎる。村人もいるが明らかに旅人の方が多い。
皆、チェーザレたちとは違い、横切る道を歩いていく。西に向かう人が多い。男が多いが女もいる。そしてみな腰に帆立貝の貝殻をぶら下げ、杖を持っている。
不思議な光景だった。この狭い道をみなどうして行くのか。チェーザレは馬から下りてしばらくその様子を見ていた。
右手の方向から、老婆が杖に支えられるように行き過ぎる。
チェーザレの目が止まった。
小さな布袋を背にくくりつけ、きっちりと束ねられたおそらくは白髪を黒いショールで隙間なく覆っている。上から下まで黒ずくめである。そして彼女もやはり帆立貝の貝殻をぶら下げていた。チェーザレはなぜか老婆が気になり視線を留めたままでいた。
老婆は不意に石につまづき、転んだ。
それを見たチェーザレは思わず駆けよってその身体を起こす手伝いをした。
老婆は自身の身をゆっくり起こしながら、丁重すぎるほど礼を言った。チェーザレの方は駆け寄った動作によって、打撲した身体がひどく痛んだ。彼はつとめて苦痛を表に出さなかったが、その必要もなかった。老婆にはチェーザレの姿がよく見えていなかったからである。
「ああ、お手をわずらわせましたね、シニョール。もう目がほとんど見えないのですよ。何とか方向だけは分かりますから」
「どちらへ? シニョーラ」とチェーザレは声をかけた。
「サンティアゴ・デ・コンポステーラへ」
サンティアゴ・デ・コンポステーラ。老婆がその言葉を口にするまで、チェーザレはそれを忘れていた。
いや、知識としてはもちろん知っているのだ。しかし老婆が音として発するまで、それが現実にあるものだと認識していなかったのである。そして、自身が変装して逃亡する途上で聞く言葉だとも思っていなかったのである。
「あなたは、一人で? 」
老婆はうなずいた。立ち上がってゆっくりとパン、パンと服をはたいている。そしてゆっくりと言った。
「人生はすべて……巡礼の旅ですよ、シニョール。だから一人で行くのでしょう。寂しくはありません。長く苦しい旅であればあるほど、誰かが関わってくれます。あなたのように」
チェーザレは目を伏せた。
去っていく老婆の背を見ながら、チェーザレはミグエルに尋ねた。
「サンティアゴまでどれぐらいだ? あちらにあるのか」
「そうですね、ここからは100レグワ以上はあるかと。山道ですし」
およそ500キロである。
「100レグアだと? 私の行く道より遠いのではないか。あの老婆がそれほどの距離を徒歩で行けるはずが……」
「アントーニ、1日に1レグワ進めば、100日で行けます。星の巡礼とはそのようなものです。まあこの季節の難所では、日に1レグワも進めないかもしれませんが」
「途中で倒れたら? 」
「アントーニ、それも巡礼です」とマルティンが答えた。
アントーニ、というのはチェーザレの偽名である。
サンティアゴ・デ・コンポステーラはスペインの西部にある。
ここはローマ、エルサレムと並ぶ三大聖地である。しかしローマやエルサレムのような都市では決してない。
ヨーロッパの果ての地である。少し向こうはもう大西洋なのだ。
ここにはイエス・キリストの弟子、聖ヤコブの遺骸が納められている。ヤコブはスペイン語でサンティアゴと呼ばれる。彼はエルサレムからはるばる足を伸ばし、ここイベリア半島まで布教の旅をした。布教は思うようにすすまず、紀元44年、ヤコブはエルサレムに戻ったが、ユダヤ人の王アグリッパは彼の影響力を怖れてその首をはねた。
イエスの12使徒の中で最初の殉教者となったのである。
その後、紆余曲折を経て、ヤコブの遺体はその弟子たちによって、所縁あるこの地に埋葬されたのである。
しかし、紀元710年にイスラム国家の後ウマイヤ朝がジブラルタル海峡を越えてイベリア半島に侵攻をはじめた。ほぼ800年に渡る侵略の始まりである。その混乱の中で、ヤコブの遺骸は隠され、所在不明になってしまった。
それが発見されたのは100年後の813年、星の光に導かれた者によって、洞窟の中にヤコブの墓所が見つけられた。その報告を受けた、キリスト教徒であるアストゥリアス王アルフォンソ2世がそこに教会を建てた。この王はイベリア半島のレコンキスタ(国土回復)の口火を切った人物である。
以来、ヤコブはイスラム勢力との戦いの旗印となり、長じてスペインの守護聖人となった。そして、サンティアゴ・デ・コンポステーラは聖地となったのである。
11世紀頃からはイスラム勢力の侵略が進んでいない北部を中心に、サンティアゴ巡礼路がローマ時代の街道に整備され、クリュニー修道会が中心となって宿や食事を提供した。人々の熱意と奉仕によって、巡礼の人は劇的に増えた。
遺骸が見つかった故事にもとづいて、サンティアゴ巡礼は「星の巡礼」と呼ばれるようになったのである。この頃にはもう一つの聖地であるエルサレムが完全にイスラム勢力の支配下となり、巡礼が困難になったこともサンティアゴに人が集まる理由になっただろう。
イベリア半島全土がイスラム勢力の手から完全に自由になったこの頃、誰でも自由に巡礼の旅ができるようになっていた。巡礼は人々の罪を軽くしてくれるものだからである。実際、罪人が刑罰として巡礼する例もあったのだ。罪人が素直に巡礼せず、途中で元の木阿弥になることも珍しくなかった。巡礼はそれだけ苦行に近いものだったということである。
「自己の魂の救済」のために巡礼を行う人はもちろんいただろう。四国遍路や伊勢参りなどと同様、世俗的な面があり、形而上学的なものでもあるのだ。
宗教は違えど、共通しているのは、それが旅だと言うことである。
話が少し飛ぶが、江戸時代の日本には「富士講」というのがあった。富士山詣での費用積み立てのために近隣の住民同士が構成する互助組織である。持ちまわりで富士山に行って浅間神社などを詣でて戻って来るものだが、直接富士山に行くのが難しい場合には近隣の神社仏閣にしつらえたもので代用する。富士山に見立てた丘や岩をその代わりとして詣でるのである。それで富士山に直接行ったのと同じ功徳を得られるというわけだ。今でもそのような富士塚はたくさん見られる(同様の「講」は他の参詣や今で言う募金のために広く行われていた)。
巡礼が難しい人間に贖宥状(免罪符)を買わせるシステムと似ていなくもない。より個人的なものか、共同体的なものかという違いだけである。
その、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼と交差して、チェーザレは西の方角を気にするようになった。
チェーザレはもちろん、その聖地を知っている。自らもスペインの血を引いているし、聖地の話は彼にとって常識である。今さら言うのも何だが、彼はスペインの司祭職、司教職、そして枢機卿を歴任してきたのである。聖書も、カトリックの教理も聖人も彼は子供の頃からよく覚え、父は大いに満足していた。幼少から身に付けたものは、その後どのように変わろうとも血肉となって残るものなのだ。
しかし、今の彼は司祭でも司教でも枢機卿でもなく、新天地を求めるひとりの旅人に過ぎなかった。
キリスト教の形式にはまった生活が遠くなってはじめて、彼は本能的に何かを感じるようになったようだ。ローマのサン・ピエトロ聖堂で誰がミサを執り行っていようが、たとえローマが破壊されようが、どんな栄枯盛衰があろうが、信仰というものはそれと別次元にあるものだ、ということをである。そうでなければ、雑多な個人の集まりであるにせよ、あれほどの人間が西に向かうはずはない。
そして、教皇庁というひとつの形から離れて初めて、チェーザレはイエス・キリストとその使徒の受難に思いを馳せることができたのかもしれない。チェーザレにとってこの3年あまりは、ただただ受難の一言に尽きた。頼みにした者に裏切られ、信頼する者は遠く離され、救いの灯は彼方に飛んでいった。
イタリアを統一することも、ヨーロッパに勢力を伸ばすことも、新たなローマ帝国を興すことも、今となっては遠い夢になった。今のチェーザレは小麦商人に変装し、折れた左腕と寒風に痛む身体、ひっきりなしに襲ってくる頭痛をやり過ごしながら、こっそりと逃げる冬の旅人でしかないのだ。
自由が効かないままの鈍い身体を抱えていても、まだ歩けるのだから希望がないわけではないのだが、途中でフェルナンド王の手の者に捕えられたら、場合によってはイエス・キリストのような最期を迎えなければならないかもしれない。そのような境遇になってはじめて、神に許しを乞う心境になる者もいるだろう。しかし、チェーザレの胸には寂寥が襲ってきていた。
あの老婆は言っていた。人生は巡礼の旅だと。それならば自身の野望への途も過ぎていく旅の風景に過ぎないのではないのだろうか。
チェーザレはしばらく十字路をいく人の列を眺めてから、再び馬に乗った。
「私は星の巡礼から、遠く離れていくのだな」とつぶやいた。
彼は老婆から学んでいた。
それは権力の行方などではなく、人生というものについてだっただろう。
11月も半ばを過ぎた。連日ひたすら3人を乗せてきた馬にも疲労が見えるようになった。できるだけ長く進むために、馬を休み休み、ゆっくりと進めなければならなくなった。カンタブリア山脈を抜けるには16レグア(80km)の山道を進まなければならない。上りの5レグアほどがたいへんきついものだった。空はどんよりと重たく沈んでいるようで、時折冷たい風と雪が旅人たちを襲った。
この頃、チェーザレ・ボルジアにはフェルナンド王の命によってその生死を問わず、1万デュカートの懸賞金がかけられていた。かなりの高額である。その知らせはナヴァーラに続くあらゆる街にあまねく行き渡っている。彼らには危険が迫っていた。
カンタブリア山脈の上りが続く道を3頭の馬はよく耐えた。峠では霧がかかり一同はかなり慎重に進まざるを得なかった。
霧の中でチェーザレは、どんどん重くなる頭痛と闘っていた。気圧の変化が体調に多少の影響を与えることはあるが、彼の頭痛はそれだけが理由ではなかったのかもしれない。あれだけの大けがをしてろくな手当てもせず、疲労も緊張も極みに達していたのだ。小麦商人に徹するために切った髪の毛やひげもまた伸び放題になってきた。
ミグエルもマルティンも同様になっている。サンタンデールに着いたら、もう一度散髪と髭そりをしなければならない。カンタブリア山脈を抜けて少し進めば、ビスケー湾に、海にたどり着く。サンタンデールは海沿いの町で、辺りでは一番栄えている。
マルティンが黙りがちになるチェーザレに話を向けると、彼はうなずいて微笑を浮かべた。
何の見返りもないのに、まだ身体の自由がきかない自分と行動をともにしている2人、ミグエルとマルティンへの感謝の気持ちがこもっている。チェーザレがスペイン人で心から信頼した人間はこのふたりだけだったかもしれない。
三人はかじかむ手で手綱を握って、チェーザレは右手しかまだ思うように使えなかったが、黙々と山道を進んだ。彼らの選んだ道は特別に厳しい道ではなかったが、それでも冬のカンタブリア越えは楽なものではなかった。人もそうだが、馬の疲労のほうが極限に達していた。足取りはどんどん重くゆっくりとなり、そして二頭が動けなくなった。チェーザレとマルティンの乗った馬だった。
山道はなだらかに下っている。振り向けばカンタブリアの峰々もだいぶよく見渡せるようになっていた。
「アントーニ、私の馬に乗ってください」とミグエルが馬を渡そうとする。
「いや、それならば、おまえが先にその馬でサンタンデールに行き、船を調達したほうがいい」
チェーザレはミグエルにそう告げる。合理的な判断であるが、彼は同じように疲れている連れに気を使ったのだ。馬も乗り馴れたミグエルのほうが扱いやすいに決まっている。
それに、ミグエルという名はチェーザレの第一の臣を思い起こさせた。ドン・ミケロット、すなわちミケーレ・ダ・コレーリアである。ミケーレはイタリア語読みで、スペイン語ではミグエルになる。この時の従者の名はチェーザレにとってはミケーレと同じように聞こえたことだろう。いずれにしても、名のもとは大天使ミカエルに違いないのだ。
チェーザレとマルティンは、馬で去るミグエルを見送って、雪と霜を踏みしめながら海への道を歩き始めた。
メディナ・デル・カンポのモタ城を負傷しながらも脱出し、ナヴァーラ王国への道を進み始めたチェーザレ一行3人であった。
カスティーリャの首都にあたるバリャドリッドを足早に通り過ぎた一行は、ビトリアに向かう大きな街道ではなく、真っ直ぐ北に伸びる細い道をパレンシアの方向に進んでいる(ヴァレンシアではない)。この辺りまで来ると、カンタブリア山脈の山々が目に入る。すでに山々の頂は雪化粧をしている。寒さも一段と厳しくなっている。
チェーザレは白い息を吐きながら馬を操っていた。頭痛が時折彼の表情をゆがませた。まだ出発のときからの頭痛が残っているのだ。
チェーザレは31歳になったばかりである。
しかし長年の幽閉生活は彼の身体をすっかり変えていた。ナポリを出るまではしなやかな鞭のような肢体をしていたが、今は肉が削げおちたように痩せこけて、目ばかりがギラギラと目立つ。体力がなくなったのはもちろんのこと、塔から脱出するときに強打した左半身もまだ痛んだ。折れた左腕もまだ固定している状態である。それでも、当初の不自由さはだんだん感じなくなっていた。
寒さは厳しかった。しかし、チェーザレは頭痛の重さを感じながらも、冷たい空気を何度も吸い込んで深呼吸する。自分が外を歩いたり、馬に乗ったりしていることが夢ではないかと思うからだ。目を閉じる。目を開く。もしかすると目を開いたらまた塔の上に閉じ込められているのではないか。これは夢なのか、あの日々が夢だったのか。
目を閉じている間、チェーザレは塔の部屋の映像を頭の中に流している。
そこにはモーラが、ハヤブサがいる。生活をともにした従者もいる。チェーザレは数少ない、言葉をほとんど交わすことのなかった、彼の心の救済者に語りかける。映像は少しずつ色あせていく。ずっと目を閉じていれば、彼らがずっと自分の中にとどまってくれるのではないかと一瞬思う。留めておきたい。
「あなたはどうか……自由に」
モーラの声が聞こえる。ハヤブサは彼を導くように飛び去っていく。
チェーザレはおそるおそる目を開く。
そこには森が広がり、遠くには何百キロも続く広大な山脈が映る。
これが現実だ。
これが自由だ。
パレンシアを過ぎ、アムスコを過ぎてしばらく行くと、チェーザレ一行は十字路に立った。オソルノの辺りである。
チェーザレ一行が進むのは真っ直ぐ北に進み、カンタブリアを越え東に折れる道である。そして横切る道はブルゴスからレオンへと東西に進む道である。横切る道はチェーザレ一行の道よりさらに細い。
人が途切れることなく通り過ぎる。村人もいるが明らかに旅人の方が多い。
皆、チェーザレたちとは違い、横切る道を歩いていく。西に向かう人が多い。男が多いが女もいる。そしてみな腰に帆立貝の貝殻をぶら下げ、杖を持っている。
不思議な光景だった。この狭い道をみなどうして行くのか。チェーザレは馬から下りてしばらくその様子を見ていた。
右手の方向から、老婆が杖に支えられるように行き過ぎる。
チェーザレの目が止まった。
小さな布袋を背にくくりつけ、きっちりと束ねられたおそらくは白髪を黒いショールで隙間なく覆っている。上から下まで黒ずくめである。そして彼女もやはり帆立貝の貝殻をぶら下げていた。チェーザレはなぜか老婆が気になり視線を留めたままでいた。
老婆は不意に石につまづき、転んだ。
それを見たチェーザレは思わず駆けよってその身体を起こす手伝いをした。
老婆は自身の身をゆっくり起こしながら、丁重すぎるほど礼を言った。チェーザレの方は駆け寄った動作によって、打撲した身体がひどく痛んだ。彼はつとめて苦痛を表に出さなかったが、その必要もなかった。老婆にはチェーザレの姿がよく見えていなかったからである。
「ああ、お手をわずらわせましたね、シニョール。もう目がほとんど見えないのですよ。何とか方向だけは分かりますから」
「どちらへ? シニョーラ」とチェーザレは声をかけた。
「サンティアゴ・デ・コンポステーラへ」
サンティアゴ・デ・コンポステーラ。老婆がその言葉を口にするまで、チェーザレはそれを忘れていた。
いや、知識としてはもちろん知っているのだ。しかし老婆が音として発するまで、それが現実にあるものだと認識していなかったのである。そして、自身が変装して逃亡する途上で聞く言葉だとも思っていなかったのである。
「あなたは、一人で? 」
老婆はうなずいた。立ち上がってゆっくりとパン、パンと服をはたいている。そしてゆっくりと言った。
「人生はすべて……巡礼の旅ですよ、シニョール。だから一人で行くのでしょう。寂しくはありません。長く苦しい旅であればあるほど、誰かが関わってくれます。あなたのように」
チェーザレは目を伏せた。
去っていく老婆の背を見ながら、チェーザレはミグエルに尋ねた。
「サンティアゴまでどれぐらいだ? あちらにあるのか」
「そうですね、ここからは100レグワ以上はあるかと。山道ですし」
およそ500キロである。
「100レグアだと? 私の行く道より遠いのではないか。あの老婆がそれほどの距離を徒歩で行けるはずが……」
「アントーニ、1日に1レグワ進めば、100日で行けます。星の巡礼とはそのようなものです。まあこの季節の難所では、日に1レグワも進めないかもしれませんが」
「途中で倒れたら? 」
「アントーニ、それも巡礼です」とマルティンが答えた。
アントーニ、というのはチェーザレの偽名である。
サンティアゴ・デ・コンポステーラはスペインの西部にある。
ここはローマ、エルサレムと並ぶ三大聖地である。しかしローマやエルサレムのような都市では決してない。
ヨーロッパの果ての地である。少し向こうはもう大西洋なのだ。
ここにはイエス・キリストの弟子、聖ヤコブの遺骸が納められている。ヤコブはスペイン語でサンティアゴと呼ばれる。彼はエルサレムからはるばる足を伸ばし、ここイベリア半島まで布教の旅をした。布教は思うようにすすまず、紀元44年、ヤコブはエルサレムに戻ったが、ユダヤ人の王アグリッパは彼の影響力を怖れてその首をはねた。
イエスの12使徒の中で最初の殉教者となったのである。
その後、紆余曲折を経て、ヤコブの遺体はその弟子たちによって、所縁あるこの地に埋葬されたのである。
しかし、紀元710年にイスラム国家の後ウマイヤ朝がジブラルタル海峡を越えてイベリア半島に侵攻をはじめた。ほぼ800年に渡る侵略の始まりである。その混乱の中で、ヤコブの遺骸は隠され、所在不明になってしまった。
それが発見されたのは100年後の813年、星の光に導かれた者によって、洞窟の中にヤコブの墓所が見つけられた。その報告を受けた、キリスト教徒であるアストゥリアス王アルフォンソ2世がそこに教会を建てた。この王はイベリア半島のレコンキスタ(国土回復)の口火を切った人物である。
以来、ヤコブはイスラム勢力との戦いの旗印となり、長じてスペインの守護聖人となった。そして、サンティアゴ・デ・コンポステーラは聖地となったのである。
11世紀頃からはイスラム勢力の侵略が進んでいない北部を中心に、サンティアゴ巡礼路がローマ時代の街道に整備され、クリュニー修道会が中心となって宿や食事を提供した。人々の熱意と奉仕によって、巡礼の人は劇的に増えた。
遺骸が見つかった故事にもとづいて、サンティアゴ巡礼は「星の巡礼」と呼ばれるようになったのである。この頃にはもう一つの聖地であるエルサレムが完全にイスラム勢力の支配下となり、巡礼が困難になったこともサンティアゴに人が集まる理由になっただろう。
イベリア半島全土がイスラム勢力の手から完全に自由になったこの頃、誰でも自由に巡礼の旅ができるようになっていた。巡礼は人々の罪を軽くしてくれるものだからである。実際、罪人が刑罰として巡礼する例もあったのだ。罪人が素直に巡礼せず、途中で元の木阿弥になることも珍しくなかった。巡礼はそれだけ苦行に近いものだったということである。
「自己の魂の救済」のために巡礼を行う人はもちろんいただろう。四国遍路や伊勢参りなどと同様、世俗的な面があり、形而上学的なものでもあるのだ。
宗教は違えど、共通しているのは、それが旅だと言うことである。
話が少し飛ぶが、江戸時代の日本には「富士講」というのがあった。富士山詣での費用積み立てのために近隣の住民同士が構成する互助組織である。持ちまわりで富士山に行って浅間神社などを詣でて戻って来るものだが、直接富士山に行くのが難しい場合には近隣の神社仏閣にしつらえたもので代用する。富士山に見立てた丘や岩をその代わりとして詣でるのである。それで富士山に直接行ったのと同じ功徳を得られるというわけだ。今でもそのような富士塚はたくさん見られる(同様の「講」は他の参詣や今で言う募金のために広く行われていた)。
巡礼が難しい人間に贖宥状(免罪符)を買わせるシステムと似ていなくもない。より個人的なものか、共同体的なものかという違いだけである。
その、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼と交差して、チェーザレは西の方角を気にするようになった。
チェーザレはもちろん、その聖地を知っている。自らもスペインの血を引いているし、聖地の話は彼にとって常識である。今さら言うのも何だが、彼はスペインの司祭職、司教職、そして枢機卿を歴任してきたのである。聖書も、カトリックの教理も聖人も彼は子供の頃からよく覚え、父は大いに満足していた。幼少から身に付けたものは、その後どのように変わろうとも血肉となって残るものなのだ。
しかし、今の彼は司祭でも司教でも枢機卿でもなく、新天地を求めるひとりの旅人に過ぎなかった。
キリスト教の形式にはまった生活が遠くなってはじめて、彼は本能的に何かを感じるようになったようだ。ローマのサン・ピエトロ聖堂で誰がミサを執り行っていようが、たとえローマが破壊されようが、どんな栄枯盛衰があろうが、信仰というものはそれと別次元にあるものだ、ということをである。そうでなければ、雑多な個人の集まりであるにせよ、あれほどの人間が西に向かうはずはない。
そして、教皇庁というひとつの形から離れて初めて、チェーザレはイエス・キリストとその使徒の受難に思いを馳せることができたのかもしれない。チェーザレにとってこの3年あまりは、ただただ受難の一言に尽きた。頼みにした者に裏切られ、信頼する者は遠く離され、救いの灯は彼方に飛んでいった。
イタリアを統一することも、ヨーロッパに勢力を伸ばすことも、新たなローマ帝国を興すことも、今となっては遠い夢になった。今のチェーザレは小麦商人に変装し、折れた左腕と寒風に痛む身体、ひっきりなしに襲ってくる頭痛をやり過ごしながら、こっそりと逃げる冬の旅人でしかないのだ。
自由が効かないままの鈍い身体を抱えていても、まだ歩けるのだから希望がないわけではないのだが、途中でフェルナンド王の手の者に捕えられたら、場合によってはイエス・キリストのような最期を迎えなければならないかもしれない。そのような境遇になってはじめて、神に許しを乞う心境になる者もいるだろう。しかし、チェーザレの胸には寂寥が襲ってきていた。
あの老婆は言っていた。人生は巡礼の旅だと。それならば自身の野望への途も過ぎていく旅の風景に過ぎないのではないのだろうか。
チェーザレはしばらく十字路をいく人の列を眺めてから、再び馬に乗った。
「私は星の巡礼から、遠く離れていくのだな」とつぶやいた。
彼は老婆から学んでいた。
それは権力の行方などではなく、人生というものについてだっただろう。
11月も半ばを過ぎた。連日ひたすら3人を乗せてきた馬にも疲労が見えるようになった。できるだけ長く進むために、馬を休み休み、ゆっくりと進めなければならなくなった。カンタブリア山脈を抜けるには16レグア(80km)の山道を進まなければならない。上りの5レグアほどがたいへんきついものだった。空はどんよりと重たく沈んでいるようで、時折冷たい風と雪が旅人たちを襲った。
この頃、チェーザレ・ボルジアにはフェルナンド王の命によってその生死を問わず、1万デュカートの懸賞金がかけられていた。かなりの高額である。その知らせはナヴァーラに続くあらゆる街にあまねく行き渡っている。彼らには危険が迫っていた。
カンタブリア山脈の上りが続く道を3頭の馬はよく耐えた。峠では霧がかかり一同はかなり慎重に進まざるを得なかった。
霧の中でチェーザレは、どんどん重くなる頭痛と闘っていた。気圧の変化が体調に多少の影響を与えることはあるが、彼の頭痛はそれだけが理由ではなかったのかもしれない。あれだけの大けがをしてろくな手当てもせず、疲労も緊張も極みに達していたのだ。小麦商人に徹するために切った髪の毛やひげもまた伸び放題になってきた。
ミグエルもマルティンも同様になっている。サンタンデールに着いたら、もう一度散髪と髭そりをしなければならない。カンタブリア山脈を抜けて少し進めば、ビスケー湾に、海にたどり着く。サンタンデールは海沿いの町で、辺りでは一番栄えている。
マルティンが黙りがちになるチェーザレに話を向けると、彼はうなずいて微笑を浮かべた。
何の見返りもないのに、まだ身体の自由がきかない自分と行動をともにしている2人、ミグエルとマルティンへの感謝の気持ちがこもっている。チェーザレがスペイン人で心から信頼した人間はこのふたりだけだったかもしれない。
三人はかじかむ手で手綱を握って、チェーザレは右手しかまだ思うように使えなかったが、黙々と山道を進んだ。彼らの選んだ道は特別に厳しい道ではなかったが、それでも冬のカンタブリア越えは楽なものではなかった。人もそうだが、馬の疲労のほうが極限に達していた。足取りはどんどん重くゆっくりとなり、そして二頭が動けなくなった。チェーザレとマルティンの乗った馬だった。
山道はなだらかに下っている。振り向けばカンタブリアの峰々もだいぶよく見渡せるようになっていた。
「アントーニ、私の馬に乗ってください」とミグエルが馬を渡そうとする。
「いや、それならば、おまえが先にその馬でサンタンデールに行き、船を調達したほうがいい」
チェーザレはミグエルにそう告げる。合理的な判断であるが、彼は同じように疲れている連れに気を使ったのだ。馬も乗り馴れたミグエルのほうが扱いやすいに決まっている。
それに、ミグエルという名はチェーザレの第一の臣を思い起こさせた。ドン・ミケロット、すなわちミケーレ・ダ・コレーリアである。ミケーレはイタリア語読みで、スペイン語ではミグエルになる。この時の従者の名はチェーザレにとってはミケーレと同じように聞こえたことだろう。いずれにしても、名のもとは大天使ミカエルに違いないのだ。
チェーザレとマルティンは、馬で去るミグエルを見送って、雪と霜を踏みしめながら海への道を歩き始めた。
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戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
電子の帝国
Flight_kj
歴史・時代
少しだけ電子技術が早く技術が進歩した帝国はどのように戦うか
明治期の工業化が少し早く進展したおかげで、日本の電子技術や精密機械工業は順調に進歩した。世界規模の戦争に巻き込まれた日本は、そんな技術をもとにしてどんな戦いを繰り広げるのか? わずかに早くレーダーやコンピューターなどの電子機器が登場することにより、戦場の様相は大きく変わってゆく。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
If太平洋戦争 日本が懸命な判断をしていたら
みにみ
歴史・時代
もし、あの戦争で日本が異なる選択をしていたら?
国力の差を直視し、無謀な拡大を避け、戦略と外交で活路を開く。
真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル…分水嶺で下された「if」の決断。
破滅回避し、国家存続をかけたもう一つの終戦を描く架空戦記。
現在1945年夏まで執筆
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