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心配する大久保一翁
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とかく人は言葉という縄で事物を括って、きれいさっぱり束ねて積んでおこうとする。
幕末などは佳い例である。黒船来航、尊王攘夷、公武合体、薩長同盟、大政奉還、王政復古等々、四文字ことばの塊である。その言葉を並べるだけでもこと足りる、こと足らせているようにも見受けられるが、すべては一人一人の、一日一日の集まりなのだ。
たかが一日、されど一日である。
ここに一八六八年(慶応四)旧暦四月十日の出来事とその後日譚を書き留める。この日は二百六十四年間、曲がりなりにも続いたひとつの時代の最後の一日だった。他に最後を見定めている人もいるが、この日をそう捉えても大きな差し支えはないだろう。
道を行くには十分すぎるほど用心しなければならなかった。
旧い体制の手先は討ち倒す。
それで己の志を果たしてみせる。
どこの誰と限らずそこらじゅうに、酒やら何やらに酔って息巻く人間がいたのだ。
幕府若年寄・会計総裁の大久保一翁が赤坂の勝安房麟太郎の屋敷に着いたのは夜明け前だった。勝は幕府陸軍総裁である。肩書がどのようなものにせよこの時期には前と意味合いが変わっている。この二人の幕臣は政権の始末をつける役目を任されていた。
出迎えた勝を大久保はチラリと見ていう。
「早暁はまだいくらか冷えるな。晴れそうだが風が幾分強いぞ」
勝はふむと頷き、「今茶を差し上げますので、どうぞお上がりください」と勧める。
大久保はそれに応じてスッと三和土を上がる。そして主に付いて薄暗い廊下を歩く。二人が奥の間に入って襖を閉めると、入れ違いに土間に向かう足音がかすかに聞こえる。勝の妻が茶の用意をするのだろう。それを除けば屋敷は夜明けの空気を含んで驚くほど静かだ。通された大久保は腰を下ろす。そしてすぐに出された茶をすすりながらため息をつく。
「何しろ昨日は肝が冷えた。道端の木陰からいきなりパァーンとやられるとは思ってもいなかった。あれはどこの輩か。調べたか?」
勝は首を横に振る。
「今分かったからと言って、どうなるものでもないでしょう。それより今日だが……おれが一人で行くよ。大久保さんは城に詰めていてくれ」と勝がさらりと言う。
大久保は目を見開いて勝の顔をまじまじと見る。
「何を言ってるんだ。昨日の今日だぞ。一人でなど行かせられるものか。おまえさんが鎧甲冑を着けていくならまだしも……絶対に駄目だ!」
「鎧甲冑は重過ぎるね。もとより家にはないよ」と勝は苦笑する。
大久保が強く言うのも無理はない。
前日の四月九日、二人は出先から戻る途中で林の陰に潜んでいた者に狙撃されたからである。幸い弾は人馬を外したし、即座に馬を駆ったので追撃も避けられた。その様子から組織的に暗殺を企図したのではなく、個人の仕業であると想像はできた。ただ、今日向かうのも同じ池上本門寺なので、待ち伏せで狙われる可能性は非常に高いと思われた。
勝は大久保から視線を外さずにいう。
「昨日は大回りして田圃道を行くからと油断した。今日はまた別の道をゆくよ。馬立ちならさほど変わらない」
「まあ、どこにでも潜んでいるとはいえないが……」と大久保は渋い顔をする。
どこでも狙おうと思えば狙うことはできる。
それでも行かなければいけない。
幕府を倒すため有栖川宮熾仁親王を東征大総督に据えた総督府軍は東海・東山・北陸三道に大隊を進発させた。江戸制圧を担う主力の東海道先鋒軍は西郷吉之助(南洲)を司令官に、薩摩藩士を始め各国の兵で構成されていた。彼らは多摩川を超えて江戸の域に進み、三月十一日には本陣を池上本門寺に置いた。翌十二日、勝が幕府を代表して薩摩藩邸に出向き司令官の西郷と膝詰めで交渉する。その結果、四月十一日に江戸城を明け渡すことで合意した。前年秋の大政奉還に始まる流れの終点である。勝と西郷の膝詰め以降、明け渡しとその後の仔細について詰めの交渉が持たれていたのである。大きな方向は決まっても、それに伴って決めることが山ほどあるのだ。
「ああ、山岡がいてくれたら頼もしいのだが」と大久保はこぼす。幕府精鋭隊の頭格、山岡鉄太郎(鉄舟)のことである。六尺三寸はありそうな大柄、しかも剣の達人なので、このような役目にうってつけではある。ただ、今ここにはいないので無い物ねだりである。
「なあに、こちらも直心影流剣術の免許皆伝で」と勝は剽げて受ける。
「ああ、存じている。お目にかかったことはないが」
「無駄な殺生はいたしませぬゆえ」
「言ってろ」と大久保は笑って茶を飲み干す。
「何人いたってやられる時はやられるよ。俺は望み通りの返答を持って、間違いなく生きて戻るよ。大久保さんはぜひ江戸城最後のこの日を見守ってやってください」
大久保は黙って頷くしかなかった。
昨日今日、東海道先鋒軍と最終的な詰めの交渉に出向くのは将軍徳川慶喜の命によるものだ。その意を汲んで幕府として要求を出している。重要なのは将軍慶喜の今後の処遇、幕府が所有している軍備一式とそれを扱う人間の扱い、幕府重役への寛大な処置の三点だった。
将軍は朝敵なので処分せよという強硬派もいる。処分というと穏やかだが実をいえば処刑せよということだ。
これまで、朝敵とされた者は討ち果たすべきものとして、平氏一族や北条得宗家などいくつもの政権が倒されてきた。同様に徳川幕府も同様に打ち倒されるべきで将軍も処刑せよというのだ。ただ今回は交戦して決着を付けるのではなく、自主的に政権を返上することがすでに約束され天皇の勅許も得ている。慶喜については要望通り隠退・蟄居で了承されているが、隠退の場をどこに置き、徳川宗家を誰が継ぐかというのが問題になった。大久保と勝は慶喜を水戸に蟄居の上、跡継ぎと噂される尾張の元千代の指名は止めてほしいという要望を出す。元千代はまだ幼少だったし、それに反対する幕臣が多かったからだ。
さらに厄介だったのは幕府の軍備の行き先だった。総督府は当然全部寄越せという。追い出される上に艦船や武器も全部渡してしまったらどうなるのか。幕府側としては全く容認できない条件だった。この件は双方譲歩しないまま平行線を辿っていたのだが、大久保と勝は粘りに粘った。そして最終的に「軍艦は総督府に渡し、輸送船は幕府側に留める」、「武器と兵士は総督府が一緒に引き取る」よう求めた。あわせて、江戸城を接収する際にはできる限り少人数で武器を持たずに行ってほしいとも付け加えた。江戸が軍靴に踏み荒らされる事態だけはどうしても避けねばならなかった。
二人に応対した東海道先鋒軍の参謀海江田武次と木梨精一郎が「検討した上で回答を翌十日に伝える」という。それで勝がこれから再度本門寺に向かうのだ。
実にギリギリの折衝であった。
幕末などは佳い例である。黒船来航、尊王攘夷、公武合体、薩長同盟、大政奉還、王政復古等々、四文字ことばの塊である。その言葉を並べるだけでもこと足りる、こと足らせているようにも見受けられるが、すべては一人一人の、一日一日の集まりなのだ。
たかが一日、されど一日である。
ここに一八六八年(慶応四)旧暦四月十日の出来事とその後日譚を書き留める。この日は二百六十四年間、曲がりなりにも続いたひとつの時代の最後の一日だった。他に最後を見定めている人もいるが、この日をそう捉えても大きな差し支えはないだろう。
道を行くには十分すぎるほど用心しなければならなかった。
旧い体制の手先は討ち倒す。
それで己の志を果たしてみせる。
どこの誰と限らずそこらじゅうに、酒やら何やらに酔って息巻く人間がいたのだ。
幕府若年寄・会計総裁の大久保一翁が赤坂の勝安房麟太郎の屋敷に着いたのは夜明け前だった。勝は幕府陸軍総裁である。肩書がどのようなものにせよこの時期には前と意味合いが変わっている。この二人の幕臣は政権の始末をつける役目を任されていた。
出迎えた勝を大久保はチラリと見ていう。
「早暁はまだいくらか冷えるな。晴れそうだが風が幾分強いぞ」
勝はふむと頷き、「今茶を差し上げますので、どうぞお上がりください」と勧める。
大久保はそれに応じてスッと三和土を上がる。そして主に付いて薄暗い廊下を歩く。二人が奥の間に入って襖を閉めると、入れ違いに土間に向かう足音がかすかに聞こえる。勝の妻が茶の用意をするのだろう。それを除けば屋敷は夜明けの空気を含んで驚くほど静かだ。通された大久保は腰を下ろす。そしてすぐに出された茶をすすりながらため息をつく。
「何しろ昨日は肝が冷えた。道端の木陰からいきなりパァーンとやられるとは思ってもいなかった。あれはどこの輩か。調べたか?」
勝は首を横に振る。
「今分かったからと言って、どうなるものでもないでしょう。それより今日だが……おれが一人で行くよ。大久保さんは城に詰めていてくれ」と勝がさらりと言う。
大久保は目を見開いて勝の顔をまじまじと見る。
「何を言ってるんだ。昨日の今日だぞ。一人でなど行かせられるものか。おまえさんが鎧甲冑を着けていくならまだしも……絶対に駄目だ!」
「鎧甲冑は重過ぎるね。もとより家にはないよ」と勝は苦笑する。
大久保が強く言うのも無理はない。
前日の四月九日、二人は出先から戻る途中で林の陰に潜んでいた者に狙撃されたからである。幸い弾は人馬を外したし、即座に馬を駆ったので追撃も避けられた。その様子から組織的に暗殺を企図したのではなく、個人の仕業であると想像はできた。ただ、今日向かうのも同じ池上本門寺なので、待ち伏せで狙われる可能性は非常に高いと思われた。
勝は大久保から視線を外さずにいう。
「昨日は大回りして田圃道を行くからと油断した。今日はまた別の道をゆくよ。馬立ちならさほど変わらない」
「まあ、どこにでも潜んでいるとはいえないが……」と大久保は渋い顔をする。
どこでも狙おうと思えば狙うことはできる。
それでも行かなければいけない。
幕府を倒すため有栖川宮熾仁親王を東征大総督に据えた総督府軍は東海・東山・北陸三道に大隊を進発させた。江戸制圧を担う主力の東海道先鋒軍は西郷吉之助(南洲)を司令官に、薩摩藩士を始め各国の兵で構成されていた。彼らは多摩川を超えて江戸の域に進み、三月十一日には本陣を池上本門寺に置いた。翌十二日、勝が幕府を代表して薩摩藩邸に出向き司令官の西郷と膝詰めで交渉する。その結果、四月十一日に江戸城を明け渡すことで合意した。前年秋の大政奉還に始まる流れの終点である。勝と西郷の膝詰め以降、明け渡しとその後の仔細について詰めの交渉が持たれていたのである。大きな方向は決まっても、それに伴って決めることが山ほどあるのだ。
「ああ、山岡がいてくれたら頼もしいのだが」と大久保はこぼす。幕府精鋭隊の頭格、山岡鉄太郎(鉄舟)のことである。六尺三寸はありそうな大柄、しかも剣の達人なので、このような役目にうってつけではある。ただ、今ここにはいないので無い物ねだりである。
「なあに、こちらも直心影流剣術の免許皆伝で」と勝は剽げて受ける。
「ああ、存じている。お目にかかったことはないが」
「無駄な殺生はいたしませぬゆえ」
「言ってろ」と大久保は笑って茶を飲み干す。
「何人いたってやられる時はやられるよ。俺は望み通りの返答を持って、間違いなく生きて戻るよ。大久保さんはぜひ江戸城最後のこの日を見守ってやってください」
大久保は黙って頷くしかなかった。
昨日今日、東海道先鋒軍と最終的な詰めの交渉に出向くのは将軍徳川慶喜の命によるものだ。その意を汲んで幕府として要求を出している。重要なのは将軍慶喜の今後の処遇、幕府が所有している軍備一式とそれを扱う人間の扱い、幕府重役への寛大な処置の三点だった。
将軍は朝敵なので処分せよという強硬派もいる。処分というと穏やかだが実をいえば処刑せよということだ。
これまで、朝敵とされた者は討ち果たすべきものとして、平氏一族や北条得宗家などいくつもの政権が倒されてきた。同様に徳川幕府も同様に打ち倒されるべきで将軍も処刑せよというのだ。ただ今回は交戦して決着を付けるのではなく、自主的に政権を返上することがすでに約束され天皇の勅許も得ている。慶喜については要望通り隠退・蟄居で了承されているが、隠退の場をどこに置き、徳川宗家を誰が継ぐかというのが問題になった。大久保と勝は慶喜を水戸に蟄居の上、跡継ぎと噂される尾張の元千代の指名は止めてほしいという要望を出す。元千代はまだ幼少だったし、それに反対する幕臣が多かったからだ。
さらに厄介だったのは幕府の軍備の行き先だった。総督府は当然全部寄越せという。追い出される上に艦船や武器も全部渡してしまったらどうなるのか。幕府側としては全く容認できない条件だった。この件は双方譲歩しないまま平行線を辿っていたのだが、大久保と勝は粘りに粘った。そして最終的に「軍艦は総督府に渡し、輸送船は幕府側に留める」、「武器と兵士は総督府が一緒に引き取る」よう求めた。あわせて、江戸城を接収する際にはできる限り少人数で武器を持たずに行ってほしいとも付け加えた。江戸が軍靴に踏み荒らされる事態だけはどうしても避けねばならなかった。
二人に応対した東海道先鋒軍の参謀海江田武次と木梨精一郎が「検討した上で回答を翌十日に伝える」という。それで勝がこれから再度本門寺に向かうのだ。
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