柿ノ木川話譚3・栄吉の巻

如月芳美

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第7話 彦左衛門1

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 彦左衛門の家は知らないが、椎ノ木川の近くだと聞いている。川の近くで人に聞けば、誰かしら知っているだろう。栄吉はそんな安易な気持ちで椎ノ木川に向かった。
 だが椎ノ木川まで出ることはなかった。途中の神社の境内で、怪しげな動きをしている人影を見つけたのだ。その人影は太い木の枝に荒縄を結び付けていた。これはもしや首をくくろうというのでは?
 栄吉は慌てて走って行くとその影に声をかけた。
「おい、あんた何やってるんだ!」
 振り返ったその顔を見て栄吉は心臓が止まるほど驚いた。それは相手も同じようだった。
「彦左衛門さんじゃねえかい!」
「栄吉さん!」
「何やってんだよ、彦左衛門さん」
「後生だ、死なせてください」
「馬鹿言ってんじゃねえ、あっしが見ちまったんだ、そういうわけにはいかねえよ」
「私はもう生きていく理由が見い出せないのです」
 栄吉は彦左衛門の頬を軽く張った。本気でやったらぶっ飛んで行ってしまう。相手は年寄りだ、壮絶に手加減したつもりだが、それでも彼は尻もちをついてしまった。
「まずは落ち着いておくんなせえ」
 彦左衛門はひっくり返ったことで少し落ち着いたのか、「すみません」と呟いた。 
「わかった。とにかくあっしは見ちまった。今はダメだ。今死なれたら寝覚めが悪い。止めやしねえから、あっしのいない時にしてくれ。どうせ死ぬ気なら、何があったのかあっしに話しちゃくれねえか? それくらいは構わねえだろう?」
 グズグズ言っている彦左衛門を無理やり立ち上がらせ、栄吉は石段まで引っ張って行った。栄吉が腰を据えると、彦左衛門も仕方なくその隣に腰を下ろす。
「大丈夫ですかい?」
「ええ。少し落ち着きました。ありがとうございます」
「いや、こっちこそ手ぇあげちまって悪かった」
 栄吉は彦左衛門がふぅと溜息をついたのを見てからゆっくり口を開いた。
「何があったんです?」
「どうもこうもありません。あんな形で裏切られるとは思いもよらなかった」
「裏切りですかい」
「ええ」
「誰に?」
 彦左衛門は苦し気に下唇を噛んだ。
「身内同然に思っていました。あんなに可愛がってくれたのに。あんなにお店のために働いたのに」
 つまり天神屋の主人か。
「聞いてくださいますか」
 さっきから聞いてんじゃねえか。
「私は九つの時に先代の大旦那様に拾っていただきました。四つの時に母を病気で亡くし、父と二人で暮らしていましたが、大風の日に長屋に火がついて父はその時に亡くなりました。まだ九つだった私はどうしたらいいのかわからず、立ち尽くすしかありませんでした。その時、焼け跡で途方に暮れている私を、天神屋の大旦那様が見つけて声をかけて下さったのです。それが四十二年前のことでした」
 栄吉が二歳の時から天神屋に奉公を始めたということである。
「先代が先々代からお店を継いだすぐ後のことでした。大旦那様のお内儀はちょうどお腹に赤ちゃんを授かったばかりで悪阻つわりで苦しんでおいででした。それで大旦那様は私をお内儀の世話係にとつけてくださいました。私がまだろくに躾けもされていない子供だったので、お店の方に出すには少々不安があったのでしょう。お内儀は私を不憫に思ったのか、とても優しく接してくださいました。悪阻に苦しみながらも、私がいずれお店に出ることを考えて言葉遣いや行儀作法などを少しずつ教えてくださいました。読み書きや算術を教えてくださったのもお内儀でした」
 実質的に番頭としての彦左衛門を育てたのは、天神屋の先代とそのお内儀ということか。
「そうこうしているうちに半年以上が過ぎ、坊っちゃんが生まれました。現在の天神屋の主人です。私はお内儀つきの世話係でしたので、当然のように坊っちゃんのお世話もいたしました。おむつ替えはもちろん、沐浴や着替えもやりました。遊び相手もしましたし、読み書きや算術を教えたのも私です。お内儀から受け継いだことをすべて坊っちゃんにお伝えしました」
「てことは遊び相手も?」
「ええ、もちろん。私と坊っちゃんはちょうど十歳違いますので少々歳は離れていましたが、坊っちゃんは私を兄のように慕ってくれました。あの頃の坊っちゃんは可愛らしかった」
 彦左衛門が遠い目をする。四十年も昔の話なのだ。
「あんたが番頭になったのは?」
「元服した年に手代になったので十五の時でしょうか。そのあと坊っちゃんが七つの時に寺子屋に通い始めて、ちょうど当時の番頭が母親の介護とかで暇乞いをしたので、十七の時に番頭になりました。それ以来ずっと番頭としてお店を預かっております」
「先代が隠居したのはいつだい?」
「坊っちゃんが三十の時に所帯を持ちまして、それを機にご隠居されました」
「今の主人はいくつだったかね?」
「四十一でございます」
「隠居しないのかね」
「そこなんでございますよ! 私が裏切りに遭ったのは」
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