7 / 41
第7話 彦左衛門1
しおりを挟む
彦左衛門の家は知らないが、椎ノ木川の近くだと聞いている。川の近くで人に聞けば、誰かしら知っているだろう。栄吉はそんな安易な気持ちで椎ノ木川に向かった。
だが椎ノ木川まで出ることはなかった。途中の神社の境内で、怪しげな動きをしている人影を見つけたのだ。その人影は太い木の枝に荒縄を結び付けていた。これはもしや首をくくろうというのでは?
栄吉は慌てて走って行くとその影に声をかけた。
「おい、あんた何やってるんだ!」
振り返ったその顔を見て栄吉は心臓が止まるほど驚いた。それは相手も同じようだった。
「彦左衛門さんじゃねえかい!」
「栄吉さん!」
「何やってんだよ、彦左衛門さん」
「後生だ、死なせてください」
「馬鹿言ってんじゃねえ、あっしが見ちまったんだ、そういうわけにはいかねえよ」
「私はもう生きていく理由が見い出せないのです」
栄吉は彦左衛門の頬を軽く張った。本気でやったらぶっ飛んで行ってしまう。相手は年寄りだ、壮絶に手加減したつもりだが、それでも彼は尻もちをついてしまった。
「まずは落ち着いておくんなせえ」
彦左衛門はひっくり返ったことで少し落ち着いたのか、「すみません」と呟いた。
「わかった。とにかくあっしは見ちまった。今はダメだ。今死なれたら寝覚めが悪い。止めやしねえから、あっしのいない時にしてくれ。どうせ死ぬ気なら、何があったのかあっしに話しちゃくれねえか? それくらいは構わねえだろう?」
グズグズ言っている彦左衛門を無理やり立ち上がらせ、栄吉は石段まで引っ張って行った。栄吉が腰を据えると、彦左衛門も仕方なくその隣に腰を下ろす。
「大丈夫ですかい?」
「ええ。少し落ち着きました。ありがとうございます」
「いや、こっちこそ手ぇあげちまって悪かった」
栄吉は彦左衛門がふぅと溜息をついたのを見てからゆっくり口を開いた。
「何があったんです?」
「どうもこうもありません。あんな形で裏切られるとは思いもよらなかった」
「裏切りですかい」
「ええ」
「誰に?」
彦左衛門は苦し気に下唇を噛んだ。
「身内同然に思っていました。あんなに可愛がってくれたのに。あんなにお店のために働いたのに」
つまり天神屋の主人か。
「聞いてくださいますか」
さっきから聞いてんじゃねえか。
「私は九つの時に先代の大旦那様に拾っていただきました。四つの時に母を病気で亡くし、父と二人で暮らしていましたが、大風の日に長屋に火がついて父はその時に亡くなりました。まだ九つだった私はどうしたらいいのかわからず、立ち尽くすしかありませんでした。その時、焼け跡で途方に暮れている私を、天神屋の大旦那様が見つけて声をかけて下さったのです。それが四十二年前のことでした」
栄吉が二歳の時から天神屋に奉公を始めたということである。
「先代が先々代からお店を継いだすぐ後のことでした。大旦那様のお内儀はちょうどお腹に赤ちゃんを授かったばかりで悪阻で苦しんでおいででした。それで大旦那様は私をお内儀の世話係にとつけてくださいました。私がまだろくに躾けもされていない子供だったので、お店の方に出すには少々不安があったのでしょう。お内儀は私を不憫に思ったのか、とても優しく接してくださいました。悪阻に苦しみながらも、私がいずれお店に出ることを考えて言葉遣いや行儀作法などを少しずつ教えてくださいました。読み書きや算術を教えてくださったのもお内儀でした」
実質的に番頭としての彦左衛門を育てたのは、天神屋の先代とそのお内儀ということか。
「そうこうしているうちに半年以上が過ぎ、坊っちゃんが生まれました。現在の天神屋の主人です。私はお内儀つきの世話係でしたので、当然のように坊っちゃんのお世話もいたしました。おむつ替えはもちろん、沐浴や着替えもやりました。遊び相手もしましたし、読み書きや算術を教えたのも私です。お内儀から受け継いだことをすべて坊っちゃんにお伝えしました」
「てことは遊び相手も?」
「ええ、もちろん。私と坊っちゃんはちょうど十歳違いますので少々歳は離れていましたが、坊っちゃんは私を兄のように慕ってくれました。あの頃の坊っちゃんは可愛らしかった」
彦左衛門が遠い目をする。四十年も昔の話なのだ。
「あんたが番頭になったのは?」
「元服した年に手代になったので十五の時でしょうか。そのあと坊っちゃんが七つの時に寺子屋に通い始めて、ちょうど当時の番頭が母親の介護とかで暇乞いをしたので、十七の時に番頭になりました。それ以来ずっと番頭としてお店を預かっております」
「先代が隠居したのはいつだい?」
「坊っちゃんが三十の時に所帯を持ちまして、それを機にご隠居されました」
「今の主人はいくつだったかね?」
「四十一でございます」
「隠居しないのかね」
「そこなんでございますよ! 私が裏切りに遭ったのは」
だが椎ノ木川まで出ることはなかった。途中の神社の境内で、怪しげな動きをしている人影を見つけたのだ。その人影は太い木の枝に荒縄を結び付けていた。これはもしや首をくくろうというのでは?
栄吉は慌てて走って行くとその影に声をかけた。
「おい、あんた何やってるんだ!」
振り返ったその顔を見て栄吉は心臓が止まるほど驚いた。それは相手も同じようだった。
「彦左衛門さんじゃねえかい!」
「栄吉さん!」
「何やってんだよ、彦左衛門さん」
「後生だ、死なせてください」
「馬鹿言ってんじゃねえ、あっしが見ちまったんだ、そういうわけにはいかねえよ」
「私はもう生きていく理由が見い出せないのです」
栄吉は彦左衛門の頬を軽く張った。本気でやったらぶっ飛んで行ってしまう。相手は年寄りだ、壮絶に手加減したつもりだが、それでも彼は尻もちをついてしまった。
「まずは落ち着いておくんなせえ」
彦左衛門はひっくり返ったことで少し落ち着いたのか、「すみません」と呟いた。
「わかった。とにかくあっしは見ちまった。今はダメだ。今死なれたら寝覚めが悪い。止めやしねえから、あっしのいない時にしてくれ。どうせ死ぬ気なら、何があったのかあっしに話しちゃくれねえか? それくらいは構わねえだろう?」
グズグズ言っている彦左衛門を無理やり立ち上がらせ、栄吉は石段まで引っ張って行った。栄吉が腰を据えると、彦左衛門も仕方なくその隣に腰を下ろす。
「大丈夫ですかい?」
「ええ。少し落ち着きました。ありがとうございます」
「いや、こっちこそ手ぇあげちまって悪かった」
栄吉は彦左衛門がふぅと溜息をついたのを見てからゆっくり口を開いた。
「何があったんです?」
「どうもこうもありません。あんな形で裏切られるとは思いもよらなかった」
「裏切りですかい」
「ええ」
「誰に?」
彦左衛門は苦し気に下唇を噛んだ。
「身内同然に思っていました。あんなに可愛がってくれたのに。あんなにお店のために働いたのに」
つまり天神屋の主人か。
「聞いてくださいますか」
さっきから聞いてんじゃねえか。
「私は九つの時に先代の大旦那様に拾っていただきました。四つの時に母を病気で亡くし、父と二人で暮らしていましたが、大風の日に長屋に火がついて父はその時に亡くなりました。まだ九つだった私はどうしたらいいのかわからず、立ち尽くすしかありませんでした。その時、焼け跡で途方に暮れている私を、天神屋の大旦那様が見つけて声をかけて下さったのです。それが四十二年前のことでした」
栄吉が二歳の時から天神屋に奉公を始めたということである。
「先代が先々代からお店を継いだすぐ後のことでした。大旦那様のお内儀はちょうどお腹に赤ちゃんを授かったばかりで悪阻で苦しんでおいででした。それで大旦那様は私をお内儀の世話係にとつけてくださいました。私がまだろくに躾けもされていない子供だったので、お店の方に出すには少々不安があったのでしょう。お内儀は私を不憫に思ったのか、とても優しく接してくださいました。悪阻に苦しみながらも、私がいずれお店に出ることを考えて言葉遣いや行儀作法などを少しずつ教えてくださいました。読み書きや算術を教えてくださったのもお内儀でした」
実質的に番頭としての彦左衛門を育てたのは、天神屋の先代とそのお内儀ということか。
「そうこうしているうちに半年以上が過ぎ、坊っちゃんが生まれました。現在の天神屋の主人です。私はお内儀つきの世話係でしたので、当然のように坊っちゃんのお世話もいたしました。おむつ替えはもちろん、沐浴や着替えもやりました。遊び相手もしましたし、読み書きや算術を教えたのも私です。お内儀から受け継いだことをすべて坊っちゃんにお伝えしました」
「てことは遊び相手も?」
「ええ、もちろん。私と坊っちゃんはちょうど十歳違いますので少々歳は離れていましたが、坊っちゃんは私を兄のように慕ってくれました。あの頃の坊っちゃんは可愛らしかった」
彦左衛門が遠い目をする。四十年も昔の話なのだ。
「あんたが番頭になったのは?」
「元服した年に手代になったので十五の時でしょうか。そのあと坊っちゃんが七つの時に寺子屋に通い始めて、ちょうど当時の番頭が母親の介護とかで暇乞いをしたので、十七の時に番頭になりました。それ以来ずっと番頭としてお店を預かっております」
「先代が隠居したのはいつだい?」
「坊っちゃんが三十の時に所帯を持ちまして、それを機にご隠居されました」
「今の主人はいくつだったかね?」
「四十一でございます」
「隠居しないのかね」
「そこなんでございますよ! 私が裏切りに遭ったのは」
1
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ソラノカケラ ⦅Shattered Skies⦆
みにみ
歴史・時代
2026年 中華人民共和国が台湾へ軍事侵攻を開始
台湾側は地の利を生かし善戦するも
人海戦術で推してくる中国側に敗走を重ね
たった3ヶ月ほどで第2作戦区以外を掌握される
背に腹を変えられなくなった台湾政府は
傭兵を雇うことを決定
世界各地から金を求めて傭兵たちが集まった
これは、その中の1人
台湾空軍特務中尉Mr.MAITOKIこと
舞時景都と
台湾空軍特務中士Mr.SASENOこと
佐世野榛名のコンビによる
台湾開放戦を描いた物語である
※エースコンバットみたいな世界観で描いてます()
ワスレ草、花一輪
こいちろう
歴史・時代
娘仇討ち、孝女千勢!妹の評判は瞬く間に広がった。方や、兄の新平は仇を追う道中で本懐成就の報を聞くものの、所在も知らせず帰参も遅れた。新平とて、辛苦を重ねて諸国を巡っていたのだ。ところが、世間の悪評は日増しに酷くなる。碓氷峠からおなつに助けられてやっと江戸に着いたが、助太刀の叔父から己の落ち度を酷く咎められた。儘ならぬ世の中だ。最早そんな世とはおさらばだ。そう思って空を切った積もりの太刀だった。短慮だった。肘を上げて太刀を受け止めた叔父の腕を切りつけたのだ。仇討ちを追って歩き続けた中山道を、今度は逃げるために走り出す。女郎に売られたおなつを連れ出し・・・
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
7番目のシャルル、狂った王国にうまれて【少年期編完結】
しんの(C.Clarté)
歴史・時代
15世紀、狂王と淫妃の間に生まれた10番目の子が王位を継ぐとは誰も予想しなかった。兄王子の連続死で、不遇な王子は14歳で王太子となり、没落する王国を背負って死と血にまみれた運命をたどる。「恩人ジャンヌ・ダルクを見捨てた暗愚」と貶される一方で、「建国以来、戦乱の絶えなかった王国にはじめて平和と正義と秩序をもたらした名君」と評価されるフランス王シャルル七世の少年時代の物語。
歴史に残された記述と、筆者が受け継いだ記憶をもとに脚色したフィクションです。
【カクヨムコン7中間選考通過】【アルファポリス第7回歴史・時代小説大賞、読者投票4位】【講談社レジェンド賞最終選考作】
※表紙絵は離雨RIU(@re_hirame)様からいただいたファンアートを使わせていただいてます。
※重複投稿しています。
カクヨム:https://kakuyomu.jp/works/16816927859447599614
小説家になろう:https://ncode.syosetu.com/n9199ey/
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる