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第12話 弥市とおりん2
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お藤は前日に引き続き、天神屋に顔を出していた。彦左衛門が来なくなってさぞかしお店も混乱しているだろうと思ったが、想像していたほど混乱はしていなかった。恐らく、あの若い新番頭が必死に頑張っているに違いない。
しばらく眺めていると明らかに腹の大きい娘が出て来て、店の前に水撒きを始めた。お藤は頃合いを見計らってサッとその前に出ると、わざと水をかけられた。
「あっ、申し訳ございません!」
お藤は慌てて屈もうとする娘の肩を押しとどめた。
「大丈夫、こんなのすぐに乾くよ。それよりあんた身重じゃないのさ。屈んだりしたら駄目よ」
「ええ、そうですけど、なんとお詫びしたら良いか」
「大丈夫だってば。それよりあんたもしかして新しい番頭さんのお内儀さんかい?」
娘はきょとんとしてお藤を見たが、一拍遅れて「はい、そうです」と答えた。
「やっぱり。まだ十七、八ってところだろう? おめでたいねえ」
「ありがとうございます」
娘は申し訳ないやらありがたいやらで何とも言えない表情をした。
そこでお藤はスッと彼女の耳元に近付いた。
「で、その子の父親はあんたの亭主じゃないんだろ?」
彼女はギョッとして身を引いた。その顔は紙のように白く血の気を失っていた。
「分かりやすい子だね」
「何のことですか」
「悔しくないのかい?」
「え?」
「本当ならその子は天神屋の旦那様の子だろ? 子供を宿せないお内儀に代わってあんたが天神屋の跡取りを産もうってのに、手代とくっつけられたってことは腹の子はたとえ男の子だったとしても所詮番頭の子でしかないんだよ」
彼女は口元を一文字に結んだまま俯いている。
「あんたが腹の子の父親は天神屋の主人だって公表すれば、あの底意地の悪いお内儀を追い出してあんたが天神屋のお内儀として跡取りを育てることができるのに」
「でも、天神屋さんはわたしに良くしてくださって、お給金も弾んでくださってるので、裏切るような真似はできません」
腹の子の父親が天神屋だと認めたも同然じゃないか。
「そのお給金、なんで弾んでくれたと思ってんだい? あんたは柏華楼の代わりにされたんだよ」
「柏華楼?」
「遊郭さ。柏華楼は高くつくし、そこそこ歳行ってる女も多いからね。あんたなら若いしお給金をちょっと弾むだけでいい、しかもこのお店を追い出されたくないだろうから秘密は守るだろうしね。都合のいい女だったってことだよ」
「そんな」
「あんた未通女だったんだろ」
おりんはますます俯いてしまった。本当にわかりやすい正直な娘だ。
「弥市さんは番頭になって喜んでいるのかい?」
「いえ。自分には荷が重いと」
どうやらお藤はもうこの娘を手玉に取ってしまったらしい。普通に質問しても躊躇うことなく答えている。
「だろう。あの人は未だ番頭にするには修行が満足じゃないから大変なはずだよ。それに自分の子ならいざ知らず、他所の男の子供を孕んだ女を押し付けられたんだよ。腹の子が生まれても弥市さんにとっては自分の子じゃない、可愛がってやれるもんかね?」
「そ、それは」
「考えてもみなかったんだろ?」
おりんは頷いたが、目がだんだん切実になって来ている。
「そもそもあんたたち、お互いを好き合ってるのかい? お内儀さんに無理やりくっつけられたんだろ?」
ところが、この質問には思いがけない反応があった。娘が顔を赤くしたのだ。
「あの、わたし、わたしは弥市さんのこと……あ、いえ、でも弥市さんにとってはわたしは女中の一人なので。しかも、いつもお内儀さんに叱られてばかりの落ちこぼれですから」
なるほど、このおりんという娘は、密かに弥市のことが好きだったらしい。それなのに若旦那に手籠めにされ、一番知られたくないはずの弥市とくっつけられてしまったというわけだ。なんと不憫な娘だろうか。
ここは少し弥市に期待してみるのもいいだろう。
「もっと大変なことがあるよ」
おりんはパッと顔を上げるとお藤の腕に縋りついた。
「なんですか」
「もしもあんたが男の子を産んだら、お内儀さんの悋気は凄いだろうね」
「どうして」
「だってあの人は子供を宿せないから跡取りが産めない。なのに自分の亭主と通じた女が亭主の子を産む、しかもそれが男の子さ。どうなると思う?」
「どうなるって……わかりません」
「あんただけサクッと追い出されて子供は天神屋夫婦の子として取り上げられるよ」
「そんな!」
「まさかと思うだろうけど、あたしはそういうのをさんざん見て来たからね」
そして相手を片っ端から始末して来たからね――。
「そうやって悲観して川に身を投げた女たちを大勢知ってるよ。だからあんたに忠告に来たのさ」
「わたしも男子を産んだらお内儀さんに取り上げられてしまうんでしょうか」
「恐らく弥市さんと一緒に追い出されるね。運が悪けりゃ二人とも消されるよ」
娘はギョッとして身を引いた。
「消されるって、どういう……」
「殺されるに決まってんだろ」
彼女はブンブンと首を横に振った。
「いくら何でも若旦那様がそんなこと」
この娘は、若旦那が彦左衛門を消そうとしていたことを知ったら、どんな反応をするのだろう。
「やるかもね。二人仲良くあの世行きさ」
「わたしだけならまだわかりますけど、なんで弥市さんまで」
「秘密を知ってるからさ」
彼女は目に見えてオロオロし始めた。
「あの、わたしどうしたらいいんですか」
「弥市さんとよく話すこったね。じゃ」
「待って。せめてお名前を」
「藤」
お藤は片手を上げると、そのままくるりと踵を返して天神屋を離れた。
しばらく眺めていると明らかに腹の大きい娘が出て来て、店の前に水撒きを始めた。お藤は頃合いを見計らってサッとその前に出ると、わざと水をかけられた。
「あっ、申し訳ございません!」
お藤は慌てて屈もうとする娘の肩を押しとどめた。
「大丈夫、こんなのすぐに乾くよ。それよりあんた身重じゃないのさ。屈んだりしたら駄目よ」
「ええ、そうですけど、なんとお詫びしたら良いか」
「大丈夫だってば。それよりあんたもしかして新しい番頭さんのお内儀さんかい?」
娘はきょとんとしてお藤を見たが、一拍遅れて「はい、そうです」と答えた。
「やっぱり。まだ十七、八ってところだろう? おめでたいねえ」
「ありがとうございます」
娘は申し訳ないやらありがたいやらで何とも言えない表情をした。
そこでお藤はスッと彼女の耳元に近付いた。
「で、その子の父親はあんたの亭主じゃないんだろ?」
彼女はギョッとして身を引いた。その顔は紙のように白く血の気を失っていた。
「分かりやすい子だね」
「何のことですか」
「悔しくないのかい?」
「え?」
「本当ならその子は天神屋の旦那様の子だろ? 子供を宿せないお内儀に代わってあんたが天神屋の跡取りを産もうってのに、手代とくっつけられたってことは腹の子はたとえ男の子だったとしても所詮番頭の子でしかないんだよ」
彼女は口元を一文字に結んだまま俯いている。
「あんたが腹の子の父親は天神屋の主人だって公表すれば、あの底意地の悪いお内儀を追い出してあんたが天神屋のお内儀として跡取りを育てることができるのに」
「でも、天神屋さんはわたしに良くしてくださって、お給金も弾んでくださってるので、裏切るような真似はできません」
腹の子の父親が天神屋だと認めたも同然じゃないか。
「そのお給金、なんで弾んでくれたと思ってんだい? あんたは柏華楼の代わりにされたんだよ」
「柏華楼?」
「遊郭さ。柏華楼は高くつくし、そこそこ歳行ってる女も多いからね。あんたなら若いしお給金をちょっと弾むだけでいい、しかもこのお店を追い出されたくないだろうから秘密は守るだろうしね。都合のいい女だったってことだよ」
「そんな」
「あんた未通女だったんだろ」
おりんはますます俯いてしまった。本当にわかりやすい正直な娘だ。
「弥市さんは番頭になって喜んでいるのかい?」
「いえ。自分には荷が重いと」
どうやらお藤はもうこの娘を手玉に取ってしまったらしい。普通に質問しても躊躇うことなく答えている。
「だろう。あの人は未だ番頭にするには修行が満足じゃないから大変なはずだよ。それに自分の子ならいざ知らず、他所の男の子供を孕んだ女を押し付けられたんだよ。腹の子が生まれても弥市さんにとっては自分の子じゃない、可愛がってやれるもんかね?」
「そ、それは」
「考えてもみなかったんだろ?」
おりんは頷いたが、目がだんだん切実になって来ている。
「そもそもあんたたち、お互いを好き合ってるのかい? お内儀さんに無理やりくっつけられたんだろ?」
ところが、この質問には思いがけない反応があった。娘が顔を赤くしたのだ。
「あの、わたし、わたしは弥市さんのこと……あ、いえ、でも弥市さんにとってはわたしは女中の一人なので。しかも、いつもお内儀さんに叱られてばかりの落ちこぼれですから」
なるほど、このおりんという娘は、密かに弥市のことが好きだったらしい。それなのに若旦那に手籠めにされ、一番知られたくないはずの弥市とくっつけられてしまったというわけだ。なんと不憫な娘だろうか。
ここは少し弥市に期待してみるのもいいだろう。
「もっと大変なことがあるよ」
おりんはパッと顔を上げるとお藤の腕に縋りついた。
「なんですか」
「もしもあんたが男の子を産んだら、お内儀さんの悋気は凄いだろうね」
「どうして」
「だってあの人は子供を宿せないから跡取りが産めない。なのに自分の亭主と通じた女が亭主の子を産む、しかもそれが男の子さ。どうなると思う?」
「どうなるって……わかりません」
「あんただけサクッと追い出されて子供は天神屋夫婦の子として取り上げられるよ」
「そんな!」
「まさかと思うだろうけど、あたしはそういうのをさんざん見て来たからね」
そして相手を片っ端から始末して来たからね――。
「そうやって悲観して川に身を投げた女たちを大勢知ってるよ。だからあんたに忠告に来たのさ」
「わたしも男子を産んだらお内儀さんに取り上げられてしまうんでしょうか」
「恐らく弥市さんと一緒に追い出されるね。運が悪けりゃ二人とも消されるよ」
娘はギョッとして身を引いた。
「消されるって、どういう……」
「殺されるに決まってんだろ」
彼女はブンブンと首を横に振った。
「いくら何でも若旦那様がそんなこと」
この娘は、若旦那が彦左衛門を消そうとしていたことを知ったら、どんな反応をするのだろう。
「やるかもね。二人仲良くあの世行きさ」
「わたしだけならまだわかりますけど、なんで弥市さんまで」
「秘密を知ってるからさ」
彼女は目に見えてオロオロし始めた。
「あの、わたしどうしたらいいんですか」
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