柿ノ木川話譚3・栄吉の巻

如月芳美

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第14話 弥市とおりん4

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 弥市はおりんの手を引いてそのまま自分の家へ帰った。おりんは住み込みの女中だったので追い出されてしまえば住むところが無いのだ。
「上がって。お腹が苦しければ上がり框でもいい」
「ありがとうございます」
 おりんは両手でお腹を支えて上がり框に腰かけた。
「済まないね。無理やりここまで引っ張ってきてしまった」
「いえ。どうしたらいいかわからなかったので助かりました。大丈夫ですか?」
「ん? 何が?」
「若旦那様に殴られたところ、血が出ています」
「ああ、こんなのは舐めておけば治る。若旦那様は喧嘩をしたことが無いのだろう。大したことが無い」
 少々やせ我慢をしているのがわかって、おりんは弥市をほほえましく感じた。
「ここ、弥一さん一人で住んでいるのですか?」
「そうだよ。両親は私が物心つく前に亡くなってね。これまでずっと育ててくれていた祖母も十分恩返しができないまま半年前に亡くなったから」
 話しながら七輪に火を入れ、お湯を沸かす弥市を見て、おりんが慌てる。
「お茶でしたらわたしが」
「いや、無理しちゃいけない。そこに座っていなさい」
「すみません。ありがとうございます」
 何もない部屋だ。弥市の祖母の位牌があるくらいで、祖母のものはすべて処分してしまったのだろう。弥市の生活用品が少し置いてあるだけでがらんとしている。
「お前はこれからどうするんだい?」
「どうって……今から考えます」
「実家に帰るという考えはないのか?」
「帰る家も無いんです。永年季奉公なので」
 永年季奉公――簡単に言えば彼女は口減らしのために親に売られたのだ。
「それで住み込みだったのか」
「そうです」
 弥市はしばらく黙って茶を淹れていたが、不意に「申し訳ないことをした」と言った。おりんが驚いて固まっていると、今度は顔を上げておりんの方を向いた。
「お前が住み込みだったのは知っていたのに、お内儀さんがいると思って安心していた。旦那様を女中と二人きりにしないようにと気をつけてはいたのだが」
 そう言って弥市はまた俯いてしまった。
「私と彦左衛門さんがついていながら、本当に申し訳ない」
「とんでもありません。そのお気持ちとお心遣いだけで十分でございます。それより弥市さんこそせっかく手に入れた番頭のお役目を、わたしなんかのために」
 慌てたおりんが立ち上がろうとするのを、再び弥市が押し戻して座らせた。
「先代の大旦那様は奉公人を大切にされた。ご自分が苦労なすったからだ。でも今の若旦那様は苦労なすっていないから奉公人を大切になさらない」
 弥市はお茶の入った湯飲みをおりんに渡し、自分も上がり框に並んで腰かけて茶をすすった。
「大旦那様が御健在なら、若旦那様もお内儀さんも勘当されていただろう。まあ、お前が手を出されることも無かっただろうが」
 おりんは何も言えずに俯いた。
「とりあえずはお前の家を探さなければならないだろうな」
「あの……」
「ん?」
「家を探さなければならないのは重々承知しておりますが」
 弥市は続きを促すように首を傾けて見せた。
「あの、無理を承知でお願いがございます。わたしをここにしばらく置いていただけませんでしょうか。ひとりぼっちで産気づいてしまったら、わたしどうしたらいいか。生まれたらどこへなりと消えますから、それまで一緒にいて貰えませんか」
 思いがけない依頼に、弥市は面くらって一瞬言葉が出なかった。
「いや、それは、まあ、かまわないが。でもそれでは本当に所帯を持ったみたいじゃないか? おりんは心に決めた人はいないのか?」
「それはその……いるにはいるのですけれど」
「それじゃあいけない。私と一緒にいたらその人に勘違いされてしまう。いや、しかしすでに腹も大きいし、どうしたもんだろう」
 その時おりんが遮った。
「勘違いではありません!」
 ――? 勘違いではない? どういう意味だ?
「いえ、その、ごめんなさい。他の男の子供を腹に宿したような女、そばにいるだけで迷惑ですよね。あの、すぐに家を探しますから」
 ――ちょっと待った! それはつまり、そういうことでは?
 弥市は持てる限りの勇気をかき集めた。ここで決断しなければ男が廃る!
「一人で産気づいてしまうのが恐ろしいのではないのか?」
「えっ?」
「大丈夫。私がそばについていよう」
 弥市は出来得る限り平静を装った。心の臓は暴れ馬のようだったが。
「でもそれでは弥市さんが」
「心配するな。子が生まれてからもお前一人では大変だろう。私と一緒に育てよう」
「えっ、それって」
「おりん」
 弥市がおりんの正面に立った。
「お前さえ良ければ本当に私と所帯を持たないか。私はこんな馬面だし如何にも頼りないが、今まで大切にされてこなかった分もお前を大切にしよう。腹の子も私の子として育てる」
「弥市さん……わたしのために」
 おりんの頬を一筋の涙が伝った。
「いや、私自身の為だ。私のためにそうさせて貰えないだろうか。もちろんすぐに新しい仕事は探す。お前と腹の子にはちゃんと食わせてやる。だから私で良ければ」
「弥市さん、わたし……わたし」
 おりんが湯飲みを片手にしたまま泣き出した。
「ありがとうございます。わたし、弥一さんがいてくれて本当に良かった。ありがとうございます。弥市さん」
「弥市さんじゃない。『おまえさん』だ。そう呼んでくれ」
 そう言いながら、弥市の馬面は茹でた蛸のような色になっていた。
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