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第1話 枝鳴長屋1
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「梅は咲い~たか~ 桜はまだかいな~」
蕎麦で昼餉を終えた三郎太は、椎ノ木川の川辺をのんびりと鼻歌など歌いながら歩いていた。
三郎太も今年で齢三十三、良縁が無かったわけではないが、本人にどうもその気が無いためかずるずるとこの歳まで独り身でいる。
見てくれは決して悪くない。人の良さが顔に滲み出ている。その分心配性のきらいがあり、髪が薄くなりつつあるのが悩みの種だ。ひょろりと牛蒡のような体で何かの職人のような風体だが、『なんでも屋』としてあちこちを手伝っては日銭を稼いでいる。
もう春だ。桃はほぼ終わり、桜の蕾が日に日に大きくなっていく。河原の土手に生える土筆でも採って行って夕餉のおかずにするかと呑気に考えていた彼の耳に、突如不吉な声が飛び込んできた。
「土左衛門だ! 土左衛門が上がったぞ!」
「勝五郎の旦那を呼んで来てくれ」
「おい、誰か手伝える奴はいねえか」
土左衛門――水死体が上がったということだ。水死体を引っ張り上げるのに男一人じゃ難儀する。見つけたのは味噌屋の旦那らしい。味噌樽を抱え慣れている彼にも手に余るようだった。三郎太は急いで駆け付けると、裾を端折って帯に挟み込んだ。
「おいらが手伝いましょう」
「三郎太か、すまねえな」
うつ伏せに浮いているのは女、それも服装から見て若い女だ。引き上げてみるとどうやら臨月の妊婦のようだった。
「気の毒に。もうすぐ赤ん坊が生まれるところだったろうによ」
「なんまんだぶなんまんだぶ」
「こりゃどこの人だい」
「さあ、わかんねえな」
通りがかりの人々が口々に噂をしたり手を合わせて行ったりするが、身元は分からないらしい。
そこへ勝五郎が走ってやって来た。
「仏さんはどこだい」
「旦那、こっちです」
「おう、誰か戸板と筵を持って来い」
勝五郎が遺体の検分を始めたところで自分の仕事は終わりだと、三郎太は家に帰ることにした。
彼が河原から戻ろうとしたとき、少し離れたところで少年がじっと土左衛門を見ていることに気づいた。三郎太は少年に近付くと、遺体との間に割って入るように立ちふさがった。
「おい、坊主。子供が見るもんじゃねえ。早いとこ家へ帰んな」
だが少年は動かない。怪訝に思った三郎太は、少し屈んで少年の顔を覗き込んだ。
「どうした。あの仏さんと知り合いか?」
少年は三郎太とは目を合わせず、じっと遺体に視線を据えたまま静かに頷いた。
「え? 知り合いなのか? まさかお前のおっ母さんとか言わねえよな?」
少年は黙ったまま頷いた。
「何? お前のおっ母さんなのか?」
彼がもう一度頷くのを見て三郎太は肩に手を置いた。
「わかった、ちょっと待ってろ。動くんじゃねえぞ。絶対動くなよ」
三郎太が勝五郎を呼んでくると、彼は少年を見るなり「おや? おめえは大工の息子じゃねえか?」と言った。どうやら会ったことがあるらしい。
勝五郎は少年に住まいや母の年齢や名前などを尋ねた。だが、彼は気が動転しているのか、一言も声を発さない。仕方なく勝五郎がいろいろ質問し、少年が首を縦に振ったり横に振ったりすることでなんとか状況を少し掴んだ。あまりのことに声の出し方すら忘れてしまったのかもしれない。
どうやら少年は母と二人で暮らしていて身寄りがなくなってしまったらしい。父親はおらず、叔父や叔母などの親戚もいない。兄弟も無く、完全に天涯孤独の身になったようだ。
少年はこれから自分がどうしたらいいのかまるでわからないといった顔をしている。それはそうだろう、今までずっと母の庇護下にいたのに、いきなり一人で放り出されたのだ。それも母の死という最悪の状態で。
「さあて、どうするかなぁ。親戚も何も居ねえんだよな」
少年は黙って首を縦に振った。
「おめえの面倒を見てくれそうな人は居ねえんだな」
この質問にも首を縦に振った。
勝五郎と少年とのやりとりを見ていていたたまれなくなった三郎太は、つい割って入ってしまった。
「こうなりゃ焼けのやんぱち日焼けのなすびってなもんだ。なあ。お前、おいらのところに来るか? ここで会ったのも何かの縁だ。そうすりゃ勝五郎親分も安心だろう?」
「そりゃあ俺は三郎太がそうしてくれるんなら助かるけどよ。どうする、坊主?」
ずっと俯いたままだった少年は、顔を上げて三郎太を見た。顔を覗き込んだ三郎太と目が合うと、小さく首を縦に振った。
「よし、決まりだ。親分さん、この坊主はおいらが預かりますから任しといておくんなせえ。うちの長屋にはこの坊主と同い年くらいの子も住んでますんで」
「すまねえな、三郎太。差配さんには俺から話しておこう」
「情け有馬の水天宮ってえもんだ」と三郎太はドンと胸を叩いた。
「おめえさんどこの長屋だっけな」
「枝鳴長屋でさぁ」
「枝鳴長屋なら差配は彦左衛門さんだな。じゃあ、坊主を頼んだぜ」
「合点承知の助だ。よし、坊主。家に帰るぞ」
少年は小さく頷いた。帰り際に戸板の上で筵をかけられた母をチラリと振り返ったが、黙って三郎太の後ろについて来た。
蕎麦で昼餉を終えた三郎太は、椎ノ木川の川辺をのんびりと鼻歌など歌いながら歩いていた。
三郎太も今年で齢三十三、良縁が無かったわけではないが、本人にどうもその気が無いためかずるずるとこの歳まで独り身でいる。
見てくれは決して悪くない。人の良さが顔に滲み出ている。その分心配性のきらいがあり、髪が薄くなりつつあるのが悩みの種だ。ひょろりと牛蒡のような体で何かの職人のような風体だが、『なんでも屋』としてあちこちを手伝っては日銭を稼いでいる。
もう春だ。桃はほぼ終わり、桜の蕾が日に日に大きくなっていく。河原の土手に生える土筆でも採って行って夕餉のおかずにするかと呑気に考えていた彼の耳に、突如不吉な声が飛び込んできた。
「土左衛門だ! 土左衛門が上がったぞ!」
「勝五郎の旦那を呼んで来てくれ」
「おい、誰か手伝える奴はいねえか」
土左衛門――水死体が上がったということだ。水死体を引っ張り上げるのに男一人じゃ難儀する。見つけたのは味噌屋の旦那らしい。味噌樽を抱え慣れている彼にも手に余るようだった。三郎太は急いで駆け付けると、裾を端折って帯に挟み込んだ。
「おいらが手伝いましょう」
「三郎太か、すまねえな」
うつ伏せに浮いているのは女、それも服装から見て若い女だ。引き上げてみるとどうやら臨月の妊婦のようだった。
「気の毒に。もうすぐ赤ん坊が生まれるところだったろうによ」
「なんまんだぶなんまんだぶ」
「こりゃどこの人だい」
「さあ、わかんねえな」
通りがかりの人々が口々に噂をしたり手を合わせて行ったりするが、身元は分からないらしい。
そこへ勝五郎が走ってやって来た。
「仏さんはどこだい」
「旦那、こっちです」
「おう、誰か戸板と筵を持って来い」
勝五郎が遺体の検分を始めたところで自分の仕事は終わりだと、三郎太は家に帰ることにした。
彼が河原から戻ろうとしたとき、少し離れたところで少年がじっと土左衛門を見ていることに気づいた。三郎太は少年に近付くと、遺体との間に割って入るように立ちふさがった。
「おい、坊主。子供が見るもんじゃねえ。早いとこ家へ帰んな」
だが少年は動かない。怪訝に思った三郎太は、少し屈んで少年の顔を覗き込んだ。
「どうした。あの仏さんと知り合いか?」
少年は三郎太とは目を合わせず、じっと遺体に視線を据えたまま静かに頷いた。
「え? 知り合いなのか? まさかお前のおっ母さんとか言わねえよな?」
少年は黙ったまま頷いた。
「何? お前のおっ母さんなのか?」
彼がもう一度頷くのを見て三郎太は肩に手を置いた。
「わかった、ちょっと待ってろ。動くんじゃねえぞ。絶対動くなよ」
三郎太が勝五郎を呼んでくると、彼は少年を見るなり「おや? おめえは大工の息子じゃねえか?」と言った。どうやら会ったことがあるらしい。
勝五郎は少年に住まいや母の年齢や名前などを尋ねた。だが、彼は気が動転しているのか、一言も声を発さない。仕方なく勝五郎がいろいろ質問し、少年が首を縦に振ったり横に振ったりすることでなんとか状況を少し掴んだ。あまりのことに声の出し方すら忘れてしまったのかもしれない。
どうやら少年は母と二人で暮らしていて身寄りがなくなってしまったらしい。父親はおらず、叔父や叔母などの親戚もいない。兄弟も無く、完全に天涯孤独の身になったようだ。
少年はこれから自分がどうしたらいいのかまるでわからないといった顔をしている。それはそうだろう、今までずっと母の庇護下にいたのに、いきなり一人で放り出されたのだ。それも母の死という最悪の状態で。
「さあて、どうするかなぁ。親戚も何も居ねえんだよな」
少年は黙って首を縦に振った。
「おめえの面倒を見てくれそうな人は居ねえんだな」
この質問にも首を縦に振った。
勝五郎と少年とのやりとりを見ていていたたまれなくなった三郎太は、つい割って入ってしまった。
「こうなりゃ焼けのやんぱち日焼けのなすびってなもんだ。なあ。お前、おいらのところに来るか? ここで会ったのも何かの縁だ。そうすりゃ勝五郎親分も安心だろう?」
「そりゃあ俺は三郎太がそうしてくれるんなら助かるけどよ。どうする、坊主?」
ずっと俯いたままだった少年は、顔を上げて三郎太を見た。顔を覗き込んだ三郎太と目が合うと、小さく首を縦に振った。
「よし、決まりだ。親分さん、この坊主はおいらが預かりますから任しといておくんなせえ。うちの長屋にはこの坊主と同い年くらいの子も住んでますんで」
「すまねえな、三郎太。差配さんには俺から話しておこう」
「情け有馬の水天宮ってえもんだ」と三郎太はドンと胸を叩いた。
「おめえさんどこの長屋だっけな」
「枝鳴長屋でさぁ」
「枝鳴長屋なら差配は彦左衛門さんだな。じゃあ、坊主を頼んだぜ」
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