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第一章 序
第4話 序4
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「爺、橘はまだ戻らぬのか」
落ち着きなく立ったり座ったりを繰り返す家老は、若の声に慌てて座り直した。
「桔梗丸、橘は戻れば真っ先にこちらに来るはずです。爺を困らせるような言葉は慎みなさい」
「はい、母上」
――こんな幼子でもちゃんと母の言葉が聞けると言うに、儂は何をしておるのじゃ。
家老はがっくりと肩を落とす。が、またすぐに心がざわざわと騒ぎ始める。
無理もない。橘は姫が生まれてすぐにこの城に入り、一緒に育って来た我が子のようなものだ。あの当時は橘もまだ十二、現在の姫と同い年だった。
「帯刀殿も少し落ち着きなさい。わたくしたちが橘を信じないでどうするのです。橘は必ず戻って来ます。怪我が祟って今は動けないのでしょう」
「母上、橘は怪我をしたのですか」
母の隣にちょこんと座る若の頭を撫でながら、お初の方は優しく頷いた。
「賊からわたくしたちを守るために怪我を負われたのです。でも桔梗丸は心配せずとも良いのですよ。橘はとても強いのですから。必ず戻ります」
橘は強い――確かに強い。いや、強かった。だが今はどうなのであろうか。
教育係になって十二年、その強さを発揮せねばならないような場面にほとんど出くわしていない。あの当時の橘なら余裕で躱すことができたであろう攻撃も、実戦をこなしていない今となっては決して容易くは無かろう。
問題は彼の身に何が起こったのかである。
「御家老様はこちらですか」
庭から声がした。喜助である。家老は急いで障子を開けた。
「ここじゃ、待ちくたびれたぞ。何か橘の手がかり――」
そこまで言って、家老は息を吞んだ。
目に涙をいっぱいに溜めた喜助の手には、姫の緋色の羽織が大切そうに抱えられていたのだ。
「それは姉上の羽織じゃ」
舌っ足らずの若の声に、お初の方の声が重なる。
「間違いありませぬ。喜助、それをどこで」
お初の方に促され、喜助は羽織を家老に渡した。
「山の方を探してたんですけど見つからないんで、川に流されたかもって考えて。それで川沿いにずっと探してたら、ここから一里くらい下った辺りで木の枝にぶら下がってたんです。雨で水かさが増えたときに木に引っかかって、そのまま水が引いたんだと思います。橘さまも近くにいるんじゃないかって、必死に探したんですけど」
「橘は見かけなかったのですね」
「はい」
顔をくしゃくしゃにして今にも泣きだしそうな喜助に、桔梗丸が駆け寄る。
「喜助、男は泣いてはならぬ。姉上の羽織を見つけてくれた褒美じゃ。ゆえに泣いてはならぬ」
自分より五つも年下の若に菓子を渡され、喜助は「ありがとうございます」と涙を落とした。
喜助もつい最近庭師見習いとして城に入ったばかりで、歳はまだ十になったばかり。環境が変わってお城の勝手もわからず、そのうえ優しくしてくれた橘が賊に襲われたとあって気持ちが不安定なのだろう。
それを桔梗丸が幼いながらに察したのだと思うと、喜助はいくら歯を食いしばっても涙が止められない。
――本当ならおいらが若様の不安を取り除いて差し上げなければならないのに――
そこへ今度は廊下側から家老を呼ぶ声が届いてきた。
「御家老様はどちらにおいでですか」
「あ、姉ちゃんの声だ」
声の主は喜助の姉で、女中として働いている小夜だった。
「ここじゃ」
家老が襖を開けると、「御家老様」と少し通り過ぎた声が戻って来た。小夜は不安気に帯刀を見上げ、言いにくそうに口を開いた。
「勝孝さまがお見えです」
落ち着きなく立ったり座ったりを繰り返す家老は、若の声に慌てて座り直した。
「桔梗丸、橘は戻れば真っ先にこちらに来るはずです。爺を困らせるような言葉は慎みなさい」
「はい、母上」
――こんな幼子でもちゃんと母の言葉が聞けると言うに、儂は何をしておるのじゃ。
家老はがっくりと肩を落とす。が、またすぐに心がざわざわと騒ぎ始める。
無理もない。橘は姫が生まれてすぐにこの城に入り、一緒に育って来た我が子のようなものだ。あの当時は橘もまだ十二、現在の姫と同い年だった。
「帯刀殿も少し落ち着きなさい。わたくしたちが橘を信じないでどうするのです。橘は必ず戻って来ます。怪我が祟って今は動けないのでしょう」
「母上、橘は怪我をしたのですか」
母の隣にちょこんと座る若の頭を撫でながら、お初の方は優しく頷いた。
「賊からわたくしたちを守るために怪我を負われたのです。でも桔梗丸は心配せずとも良いのですよ。橘はとても強いのですから。必ず戻ります」
橘は強い――確かに強い。いや、強かった。だが今はどうなのであろうか。
教育係になって十二年、その強さを発揮せねばならないような場面にほとんど出くわしていない。あの当時の橘なら余裕で躱すことができたであろう攻撃も、実戦をこなしていない今となっては決して容易くは無かろう。
問題は彼の身に何が起こったのかである。
「御家老様はこちらですか」
庭から声がした。喜助である。家老は急いで障子を開けた。
「ここじゃ、待ちくたびれたぞ。何か橘の手がかり――」
そこまで言って、家老は息を吞んだ。
目に涙をいっぱいに溜めた喜助の手には、姫の緋色の羽織が大切そうに抱えられていたのだ。
「それは姉上の羽織じゃ」
舌っ足らずの若の声に、お初の方の声が重なる。
「間違いありませぬ。喜助、それをどこで」
お初の方に促され、喜助は羽織を家老に渡した。
「山の方を探してたんですけど見つからないんで、川に流されたかもって考えて。それで川沿いにずっと探してたら、ここから一里くらい下った辺りで木の枝にぶら下がってたんです。雨で水かさが増えたときに木に引っかかって、そのまま水が引いたんだと思います。橘さまも近くにいるんじゃないかって、必死に探したんですけど」
「橘は見かけなかったのですね」
「はい」
顔をくしゃくしゃにして今にも泣きだしそうな喜助に、桔梗丸が駆け寄る。
「喜助、男は泣いてはならぬ。姉上の羽織を見つけてくれた褒美じゃ。ゆえに泣いてはならぬ」
自分より五つも年下の若に菓子を渡され、喜助は「ありがとうございます」と涙を落とした。
喜助もつい最近庭師見習いとして城に入ったばかりで、歳はまだ十になったばかり。環境が変わってお城の勝手もわからず、そのうえ優しくしてくれた橘が賊に襲われたとあって気持ちが不安定なのだろう。
それを桔梗丸が幼いながらに察したのだと思うと、喜助はいくら歯を食いしばっても涙が止められない。
――本当ならおいらが若様の不安を取り除いて差し上げなければならないのに――
そこへ今度は廊下側から家老を呼ぶ声が届いてきた。
「御家老様はどちらにおいでですか」
「あ、姉ちゃんの声だ」
声の主は喜助の姉で、女中として働いている小夜だった。
「ここじゃ」
家老が襖を開けると、「御家老様」と少し通り過ぎた声が戻って来た。小夜は不安気に帯刀を見上げ、言いにくそうに口を開いた。
「勝孝さまがお見えです」
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