柿ノ木川話譚1・狐杜の巻

如月芳美

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第二章 木槿山の章

第7話 あばら家2

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 半刻ほど後、二人は連れ立って川に向かっていた。
 昨夜は雨が降って川が増水したが、昼過ぎにはもう水の濁りは収まってきているはずだと与平は言う。彼の話によると、雨で濁った川は魚が獲れないが、澄み過ぎていても獲れない。濁りがやや収まって来たくらいが一番獲れるのだそうだ。
「なんで濁ってる方がいいの?」
「そりゃ、視界が悪いからだろ。水が濁ると魚にはおいらたちが見えねえから、知らずに近付いてくるんだよ。かと言って濁りすぎてると息ができないから泳げねえ。だから少し濁りが引き始めたころがいいんだ」
 与平は物知りだ。それは狐杜には到底気が付かないような事ばかりなのだが、それを言うと与平は決まって「狐杜はおいらの知らないことを知ってる。同じだよ」と言う。
 なんだか近頃の与平は急に大人びて、背丈の他にもいろいろなことが追い越されているようで、狐杜は嬉しいような居心地が悪いような妙な感覚に陥ることが増えた。
「今日、大物が獲れたらもう一度街に売りに行くけど、狐杜はどうする? 次の着物の仕立て、始めんのか?」
「一緒に行くよ。荷物持ち要るでしょ」
 この町は柳澤のお城の麓にあり、その城は山を背にした丘の中腹に建っている。町の人々は柳澤のお殿様に見守られているような恰好になる。
 その町をさらに下ると田畑の広がる農村部となる。
 彼らの住む二軒のあばら家は、お城の近くを流れる柿ノ木川の下流に位置し、町から半里ほど下った農村部の外れ辺りにある。近くに小さな稲荷神社があるだけの辺鄙へんぴなところだ。
 二人は生まれたころからずっとお隣さん同士として育ってきたが、数年前の流行り病で両親を亡くした狐杜と、その時に同じ理由で父親を亡くした与平とお袖の母子おやこは、ますます助け合って生きていくようになった。
「お袖さんのおかげで仕立ての仕事が増えて嬉しいよ。お礼言っといてね」
「おっ母も狐杜の呑み込みが早いってびっくりしてたよ」
 与平は母が「あたしの目の黒いうちに狐杜ちゃんと祝言挙げとくれ」と言っていたことについては、今はとりあえず伏せることにした。思い出しただけでも顔中に熱が集まる。
 ――だけど、狐杜ももう十六だし、町で色男に横恋慕されたらおいらじゃ敵わねえ。今のうちに唾つけといた方がいいのかなぁ。
「ほら、いつまでぼさっとしてんのよ。早く荷物下ろして」
 与平がぼんやりしている間に河原に着いていた。さくさくと準備を始める狐杜を見ながら、与平は「今しかないか」などとまるで明後日なことを考えている。
 いつまでもモジモジしていても始まらない。与平も、ついに心を決めて口を開いた。
「なあ、狐杜。真面目な話なんだけどさ。おいら――」
「ちょっと与平! あれ、人じゃない?」
「え?」
 与平の渾身の告白を前に、当の狐杜が与平を置いて川の方へと走って行ってしまった。
 が、今「人」と言っただろうか。
 慌てて狐杜の後を追うと、確かに黒っぽい着物を纏った長身の男が倒れ伏していた。
「もし! どうしました? もし!」
 大声で男を揺する狐杜に、与平が「おい、怪我してるぞ」と男の脇腹を見せる。着物がそこだけ破れ、傷口が見えている。
「こいつまさか、死んでるんじゃ」
「まだ息がある。うちに運ぼう!」
「うちって、お前のとこかよ」
「他にどこに運ぶのよ、与平、手伝って!」
 二人は兎にも角にも男を運ぶことにした。
 男は丸一日目を覚まさなかった。町医者に診てもらおうにも、その日の食べるもので精いっぱいの狐杜にはお金が無い。仕方なく、傷口を清潔に保つことくらいしか彼女にはできなかった。
 与平は仕事の合間に様子を見に来た。いくら怪我人とは言え、見知らぬ男を狐杜と二人きりにするのが心配だった。
 なにしろ腹に刺し傷があったのだ、何かの事故かもしれないが、誰かと争って刺されたのかもしれない。もしも後者なら、あまり安全と言える男ではないかもしれない。
 もう一つ心配事があった。その男が恐ろしく美しかったことだ。生気のない青白い顔は月の光を思わせた。こんな綺麗な顔の男は見たことが無い、それだけで与平の心をざわつかせるには十分だった。
 朝から町へ出かけた与平が昼に戻ってみると、ちょうど狐杜が家から出てくるところだった。
「与平、たった今あの人が目を覚ましたの」
「ほんとか」
 家に入ってみると、例の若者は布団の上にきちんと正座していた。
「あの、寝てなくて大丈夫ですか。無理しないで休んでください。まだ治ってないから」
 狐杜が慌てて声をかけると、青年は静かに二人の方へと首を回した。
「すまぬ。そなたらが助けてくれたのか」
 涼やかな声音。温かさと冷たさを備えた不思議な響き。
「はい。あたしは狐杜と申します。こっちは与平。あなたさまは?」
「私は……」
 そこで男は止まってしまった。名乗りたくないのか。何か訳ありなのかもしれないと二人が構えた瞬間、彼は思いがけない言葉を口にした。
「私は何者だ」
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