8 / 64
第二章 木槿山の章
第8話 あばら家3
しおりを挟む
それから半刻ほどの間、与平は彼を質問攻めにし、狐杜は芋と稗でゆるい粥を作った。その間、彼が思い出せることは何一つなかった。
名前もわからない、住まいもわからない、何の仕事をしていたのかも、所帯を持っているのかも、何もかもわからない。
「歳は多分、二十四、五ってとこだよな」
「話し方も普通の町人っぽくないよ。お武家さまだったんじゃない?」
二人は好き勝手に推理しているが、青年はどれに対しても心当たりのなさそうな顔をしている。
「寺子屋の先生とか」
「医者じゃねえか? 髷結ってねえし」
確かに青年は髪をそのまま伸ばして結わえてはいない。長い黒髪は艶やかで、狐杜には羨ましくすらあった。
「なあ、傷が治るまでここにいるんだろ? 呼び名が無いと困るよ。なんでもいいから名前つけてくれよ」
「いつまでも世話になるわけには参らぬ。すぐに出て行こう」
「自分が誰かもわからないのに、ここを出てどこへ行くのよ、あたしが名前くらい付けてあげるから、もうちょっとここにいて」
自分で「ここにいるんだろ」と言っておきながら、狐杜の言葉にちょっとだけ与平は反応する。――なんだそれ、なんか、それ、なんか……やだな!
「月守さまなんてどうかな。月の守り人みたいな。お月様みたいな雰囲気があるから」
与平としてはますます心がざわつく。月守――ちくしょう、嫌になるほど似合ってる!
「ね、いいでしょ?」
「それで良い」
青年が頷くと、狐杜は小躍りして喜んだ。そんな彼女に苛立ちを覚えるものの、もちろん与平はそんなことはおくびにも出さない。
「なんでもいいから、どんな小さいことでも思い出したら言ってくださいね。何かの手掛かりになるかもしれないし」
彼は静かに頷いた。
「まずはご飯食べてください。お芋と稗のおかゆだけど食べられますか?」
「いただこう」
与平はその間もじっと青年を観察していた。端正な佇まいも品のある物腰も、普通の町人や農民のそれではない。着ているものも質の良い絹で仕立てられており、色は知性派の間で流行っている藍天鵞絨だ。どう考えても上流階級だろう。
だが、次の瞬間、青年は与平の予想を完全に裏切る発言をした。
「この粥は、懐かしい味がする。この芋と稗の粥、食べたことがある」
「えっ、これをか?」
二人が目を見合わせていると、さらにもう一声。
「いや、毎日は食べられなかった。いつもは野草の味噌汁だけで、こんな稗の粥が食べられる日はそう度々あるものではなかった。芋も大抵は零余子だった」
「月守さま、お武家様じゃないの?」
「でもただの町人じゃないぜ、あんた」
青年は首を傾げた。
「だが、これは確かに覚えのある味だ。しかもこれは何か特別な日に食べたと思う」
それから青年は黙って美味しそうにその貧相な粥を食べていた。
名前もわからない、住まいもわからない、何の仕事をしていたのかも、所帯を持っているのかも、何もかもわからない。
「歳は多分、二十四、五ってとこだよな」
「話し方も普通の町人っぽくないよ。お武家さまだったんじゃない?」
二人は好き勝手に推理しているが、青年はどれに対しても心当たりのなさそうな顔をしている。
「寺子屋の先生とか」
「医者じゃねえか? 髷結ってねえし」
確かに青年は髪をそのまま伸ばして結わえてはいない。長い黒髪は艶やかで、狐杜には羨ましくすらあった。
「なあ、傷が治るまでここにいるんだろ? 呼び名が無いと困るよ。なんでもいいから名前つけてくれよ」
「いつまでも世話になるわけには参らぬ。すぐに出て行こう」
「自分が誰かもわからないのに、ここを出てどこへ行くのよ、あたしが名前くらい付けてあげるから、もうちょっとここにいて」
自分で「ここにいるんだろ」と言っておきながら、狐杜の言葉にちょっとだけ与平は反応する。――なんだそれ、なんか、それ、なんか……やだな!
「月守さまなんてどうかな。月の守り人みたいな。お月様みたいな雰囲気があるから」
与平としてはますます心がざわつく。月守――ちくしょう、嫌になるほど似合ってる!
「ね、いいでしょ?」
「それで良い」
青年が頷くと、狐杜は小躍りして喜んだ。そんな彼女に苛立ちを覚えるものの、もちろん与平はそんなことはおくびにも出さない。
「なんでもいいから、どんな小さいことでも思い出したら言ってくださいね。何かの手掛かりになるかもしれないし」
彼は静かに頷いた。
「まずはご飯食べてください。お芋と稗のおかゆだけど食べられますか?」
「いただこう」
与平はその間もじっと青年を観察していた。端正な佇まいも品のある物腰も、普通の町人や農民のそれではない。着ているものも質の良い絹で仕立てられており、色は知性派の間で流行っている藍天鵞絨だ。どう考えても上流階級だろう。
だが、次の瞬間、青年は与平の予想を完全に裏切る発言をした。
「この粥は、懐かしい味がする。この芋と稗の粥、食べたことがある」
「えっ、これをか?」
二人が目を見合わせていると、さらにもう一声。
「いや、毎日は食べられなかった。いつもは野草の味噌汁だけで、こんな稗の粥が食べられる日はそう度々あるものではなかった。芋も大抵は零余子だった」
「月守さま、お武家様じゃないの?」
「でもただの町人じゃないぜ、あんた」
青年は首を傾げた。
「だが、これは確かに覚えのある味だ。しかもこれは何か特別な日に食べたと思う」
それから青年は黙って美味しそうにその貧相な粥を食べていた。
11
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる