柿ノ木川話譚1・狐杜の巻

如月芳美

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第二章 木槿山の章

第21話 接触4

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「そこ、何かいるよ」
「え、どこ?」
 小僧に気づかれたようだ。いっそ堂々と出て娘の顔を見るか。もしも姫だったなら、少々気の毒だが小僧には少しだけ痛い思いをしてもらうしかない――十郎太の決定は早かった。
「うさぎかな?」
 十郎太が静かに立ち上がると、二人は「あ……」と立ち尽くした。
「探しものですか? おいらたちも手伝いましょうか?」
 この小僧も先程の親子と同じだ。人を疑うという事を知らない眼をしている。
 十郎太はこの無垢な眼が嫌いだ。もう二度とこの眼に戻れない嫉妬から来る嫌悪であるかもしれなかった。
「それには及ばん。たった今見つけた」
「そいつは良かった」
 少年が言い終わるより前に十郎太は刀を抜いていた。咄嗟に少年は少女を背後に庇った。
「小僧、死にたくなければそこをどけ。貴様は見逃してやる」
「冗談じゃねえよ、おいらをバカにすんな」
「仕方あるまい、少々怪我をすることになるぞ。素直に姫を寄越せばよいものを」
「は? 姫? うわっ!」
 十郎太が斬りかかると同時に、少年はくるりと背を向けた。背負っていた木の枝をまとめていた紐が切れ、バラバラと散らばり落ちる。
「狐杜、逃げろ!」
 少年は叫びながら足元の小枝を拾い上げた。と同時に十郎太の刀がそこに向けて真っ直ぐ落ちてくる。
 少年は何を思ったのか、背中の背負子しょいこを下ろし、ぶんぶんと振り回した。
「小僧、貴様の勇気は褒めてやる。だがこれまでだ」
 十郎太の刀が空を切る。手応えを感じると同時に、少年が呻いて倒れ込む。
「与平!」
 今だ。十郎太は冷静に狐杜との間を詰めた。
「少しの間、眠っていただく」
 が、次の瞬間、彼の前に長身の影が割り込んだ。刀を構えたその手首を影に掴まれ、一気に捻り上げられる。刀が手から零れ落ちると同時に鳩尾みぞおちに重い拳がめり込む。
 一瞬息が止まったところで首の後ろに手刀を打ち込まれ、さらに襟首を掴んで引き上げられる。視界が揺れた瞬間、影の指が喉元を正確に突いてきた。
 十郎太は自分の身に何が起こったのか理解できぬまま呼吸を止められ、長身の影を仰ぎ見た。
 ――まさか……橘?
ね」
 言われるまでもなく十郎太は息も絶え絶えにそこから逃げ出した。


「勝孝さま、橘が生きておりました。姫と一緒です」
 十郎太の報告に、勝孝は文字通り目玉が転げ落ちるほど驚いた。
「何を申す。橘が生きているわけが無かろう。あの傷で増水した川に転落したのだぞ。儂には彼奴が生きているとは思えぬ。他人の空似ではないのか」
「お言葉ですが勝孝さま、五尺八寸の大男ですぞ。しかも姫と一緒にいたとなれば、この上一体何を疑われます」
「まあ良い。して、姫は」
 勝孝が苛立ったように扇子を親指で開いたり閉じたりするのを見ながら、十郎太は目を合わせることなく項垂れた。
「面目次第もござりませぬ。あれが相手では手も足も出せませぬ。橘め、あやつはただの教育係ではありませぬ」
 勝孝は半分開いた扇子をパチンと勢いよく閉じた。
「どいつもこいつも『橘はただの教育係ではない』などと判で押したような言い訳を! それなら彼奴はなんじゃと申すのだ」
 十郎太は、ゆっくり息を吸うと静かに答えた。
「あれは殺しを生業なりわいとする者にござります。間違いない」
「何を根拠に申しておるのじゃ! 儂の知っている橘は確かに頭は切れるが、武芸にはとんと縁のないような頭でっかちじゃ。どうやってもそのような者とは結び付かぬわ!」
「某もそう思うておりました。しかしあの身のこなしは玄人のもの。奴は丸腰だったにもかかわらず、この身に何が起こったのか判断もつかぬ間に急所を突かれておりました。もはや刀など持つ意味を為さず。わざと殺さずに生かして帰したのは、某に報告させるためかと」
 予告もなく何かが十郎太の額に当たり、畳の上に落ちた。勝孝の扇子だった。
「戯けが! それならばその橘をさっさと始末すれば良いではないか。お前にできぬと申すのなら、殺し屋を雇えば良かろう。良いか十郎太。お前の役目は姫と橘を始末する事じゃ。その報告を持ってまいれ!」
 始末、と言っただろうか。
「……御意」
 聞き違いであって欲しい――十郎太は平伏すると、静かに立ち上がって出て行った。


 家に戻って与平の傷の手当てをしながら、狐杜はしきりに「なんなのあいつ!」を連呼していた。
「あたしたちが何をしたってのよ、ああもう、腹立たしい!」
「っていうかそこ、もっと怖がるとこじゃねえのか。怒るあたりが狐杜だよな……痛てててて、もうちょっと優しくしろよ」
 側では月守が帰りがけに採って来た薬草を丁寧に揉んでいる。
「しかし与平殿、この程度の傷で済んだのは不幸中の幸い。そなた咄嗟に背負子を盾にしたであろう」
「うーん、よく覚えてねえけど、多分したと思う。あのまま素直に斬られてたら、おいらの左腕はどうなってたかわかんねえ」
「ありがとう与平、かっこ良かったよ。凄く頼りになる!」
「なっ、なんだよ、別にどうってことねえよ」
 与平の頬に紅が差したのを月守は見逃さなかった。が、ここは見て見ぬ振りをした。
「でも月守さまの強さと言ったら! あのお侍さんを倒すのに、三つと数える間もなかった。本当に素敵だった!」
 途端に与平が不満顔になった。月守はこれも見て見ぬ振りをした。
「与平殿が時間稼ぎをしたのが幸いした。与平殿の勇気と行動力と咄嗟の判断力は、こんなところに埋もれさせておくには惜しいくらいだ」
「おいら、どこでなら十分に働けるかな?」
「そうだな、与平殿なら――」
 そこまで言って、月守は自分が恐ろしいことを言おうとしたことに気づいた。
 ――与平なら、いい殺し屋になれる――
「月守?」
 与平が月守の顔を覗き込んだ。続きを促している目ではなかった。
「おい大丈夫か? 顔色悪いぞ」
「ほんと、どうしたの? 横になった方がいいよ、お布団敷いてあげるから。与平ちょっと手当待ってね」
 だが、月守は二人を手で制した。
「いや、大丈夫だ。すまぬが少し風に当たって参る」
 目を見合わせる二人を残して、月守は出て行った。
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