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第二章 木槿山の章
第23話 襲撃2
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「あの娘がそうか」
刀傷の痕を頬に残した浪人風の男が小声で尋ねるのへ、十郎太は静かに頷いた。
「姫だ。間違いない」
「橘とやらはいないようだな」
十郎太は周囲へと目を配ると声を潜める。
「小僧だけだ。橘が近くにいることも考えられる。とにかく橘の始末だけ考えろ」
男も辺りを見回した。葦の荒れ地が突然のように開け、そこから先は小石だらけの河原になっている。葦の中に隠れている限り、こちらから向こうを窺うことができても、向こうからこちらを認識するのは難しかろう。
「どんな男だ」
「身の丈五尺八寸、細身の大男だ。長髪を一つに束ねている。油断するな。見た目は呑気な風流人だが、奴は丸腰でも相手を殺せる」
十郎太は念を押すが、目の前の男にどれだけ伝わっているかはわからない。
橘は黙って立っていればすらりと細身で、とても戦えるようには見えない。つい先日まで、武芸の武の字も知らぬただの教育係だと信じていた。学者や医師と言われても素直に納得できただろう。
あれは若と姫の護衛としてつけられていた男なのだろうか。
「小僧と姫を片付ければ橘とやらが出てくるだろう。その方が早い」
男はそう言い残して十郎太から離れた。
――待て、子供たちには手を出すな――十郎太の心の声は音にならなかった。
十郎太はよほど剣が得意というわけではないが、それでも橘は自分の相手ではないと思っていた。城で何度か会った橘が刀を持っている姿を一度も見たことが無かったことも理由の一つではあるが、そもそも橘という男が武芸とはあまりにも縁遠く映っていた。
見た目と格差のある人間はいくらでもいる。日々気を付けているつもりでいても、僅かな油断が死を招くこともある。あの殺し屋が橘の見た目に騙されなければ良いが。
そもそも先日は何故あれほどまでにあっさりと攻撃を許してしまったのか、十郎太にも理解できなかった。気づいた時には腕を捻り上げられていた。
逆に言えば、それまで気付けなかったということだ。
そう、奴は気配を全く感じさせずに近寄っていた。いきなり影のように現れたのだ。あたかも自分の影が突如として意思を持って立ち上がり、その主に刃向かってきたかのようだった。
それだけに十郎太は思考が追い付く前にとどめを刺されて――正確には寸止めだったが――いたのだ。
あの得体の知れない恐怖は、味わったものにしかわからないだろう。
あの日の十郎太は少年に情をかけ、逃がしてやろうとしたのが災いした。まとめて始末していればあの日で仕事は済んでいたはずだった。あの時点で仕留めなかったばかりに、今頃こうして橘にも警戒せざるを得なくなっている。
だが十郎太には『子供が殺せない』。致命的だ。
殺し屋の男は十郎太から離れると、まるで迷いを見せない足取りでまっすぐ姫に向かっていく。
河原は視界を遮るものが何もない。身を隠そうとしても無駄なのだ。ザクザクと河原の小石を踏みしめ、わき目も降らず一直線に姫の元へと向かう。
その足音に気づいて姫が振り返る。少年も彼女の視線を追う。
男がすらりと刀を抜く。歩みは止めない。
気づいた少年が慌てて姫に駆け寄る。
刀を構えた右手に、左手が添えられる。
まったく無駄のない動き。十郎太に無い冷酷さがその後ろ姿から滲み出ている。
姫は恐怖に目を見開き、石のように動けない。
刀が躊躇なく振り下ろされる。
少年が間に飛び込み、姫を突き飛ばす。
彼女の悲鳴が響き渡った。
が。あろうことか少年が応戦している。
数日前に十郎太に斬られた左腕を盾にしているが……切れた袖から包帯がひらひらと舞う。
まさか添え木? 先日の怪我で添え木をし、それで刀を受けたと?
とはいえ男は殺しを生業とする者だけあって、すぐに態勢を立て直す。
そのとき、十郎太の視界に影がすっと割り込んだ。
――あの五尺八寸の影は!
殺し屋は即座に標的を変更し、躊躇うことなく影に向かって刀を繰り出した。影は最小限の動きで刀を躱し、それを持つ腕を掴んで膝に叩きつける。肘と手首が不自然な方向に曲がり、刀が音を立てて砂利の上に落ちる。
殺し屋は身を翻し、影の束縛から逃れると同時に、もう一方の手で懐から出した短刀を突き出す。影はその短刀を裏拳で弾き、すかさず鳩尾に肘を入れる。男がよろめいて一歩下がったことでできた空間に、影がダンッと踏み込んだ。
――あの時と同じだ――十郎太は恐怖に慄きながら影の指が男の喉元を突くのを見た。
あの日は寸止めだった。今日は入れている。
喉を押さえてのたうつ男の足元から刀を拾い上げると、影は葦原の方を振り返った。
「そこに隠れているのだろう。出て参れ」
逃げるわけにはいかない。十郎太は葦の間から出ると刀に手をかけた。
「何をしている。そなたとやり合う気はない」
「何?」
「そなたは私の敵ではない。先日相まみえたときに悟ったと思ったが?」
では一体何の用だというのだ、という十郎太の思考を読んだのか、影――橘――は拾った刀を逆手にし、水平に持った。
「こやつがここに倒れたままなのは邪魔だ。連れて帰られよ。これはこやつの刀だ、持って行け」
なんだと?
「だが匕首の方は良い品だ。これは戦利品として貰っておく。わかったらこやつを連れて立ち去れ」
そう言うと橘は刀を持ち主のすぐ側の地面に突き刺し、子供二人を連れて去って行く。
「待て、貴様は橘であろう」
十郎太の叫びに、彼は立ち止まってゆっくりと振り返った。
「私は月守だ。橘など知らぬ」
刀傷の痕を頬に残した浪人風の男が小声で尋ねるのへ、十郎太は静かに頷いた。
「姫だ。間違いない」
「橘とやらはいないようだな」
十郎太は周囲へと目を配ると声を潜める。
「小僧だけだ。橘が近くにいることも考えられる。とにかく橘の始末だけ考えろ」
男も辺りを見回した。葦の荒れ地が突然のように開け、そこから先は小石だらけの河原になっている。葦の中に隠れている限り、こちらから向こうを窺うことができても、向こうからこちらを認識するのは難しかろう。
「どんな男だ」
「身の丈五尺八寸、細身の大男だ。長髪を一つに束ねている。油断するな。見た目は呑気な風流人だが、奴は丸腰でも相手を殺せる」
十郎太は念を押すが、目の前の男にどれだけ伝わっているかはわからない。
橘は黙って立っていればすらりと細身で、とても戦えるようには見えない。つい先日まで、武芸の武の字も知らぬただの教育係だと信じていた。学者や医師と言われても素直に納得できただろう。
あれは若と姫の護衛としてつけられていた男なのだろうか。
「小僧と姫を片付ければ橘とやらが出てくるだろう。その方が早い」
男はそう言い残して十郎太から離れた。
――待て、子供たちには手を出すな――十郎太の心の声は音にならなかった。
十郎太はよほど剣が得意というわけではないが、それでも橘は自分の相手ではないと思っていた。城で何度か会った橘が刀を持っている姿を一度も見たことが無かったことも理由の一つではあるが、そもそも橘という男が武芸とはあまりにも縁遠く映っていた。
見た目と格差のある人間はいくらでもいる。日々気を付けているつもりでいても、僅かな油断が死を招くこともある。あの殺し屋が橘の見た目に騙されなければ良いが。
そもそも先日は何故あれほどまでにあっさりと攻撃を許してしまったのか、十郎太にも理解できなかった。気づいた時には腕を捻り上げられていた。
逆に言えば、それまで気付けなかったということだ。
そう、奴は気配を全く感じさせずに近寄っていた。いきなり影のように現れたのだ。あたかも自分の影が突如として意思を持って立ち上がり、その主に刃向かってきたかのようだった。
それだけに十郎太は思考が追い付く前にとどめを刺されて――正確には寸止めだったが――いたのだ。
あの得体の知れない恐怖は、味わったものにしかわからないだろう。
あの日の十郎太は少年に情をかけ、逃がしてやろうとしたのが災いした。まとめて始末していればあの日で仕事は済んでいたはずだった。あの時点で仕留めなかったばかりに、今頃こうして橘にも警戒せざるを得なくなっている。
だが十郎太には『子供が殺せない』。致命的だ。
殺し屋の男は十郎太から離れると、まるで迷いを見せない足取りでまっすぐ姫に向かっていく。
河原は視界を遮るものが何もない。身を隠そうとしても無駄なのだ。ザクザクと河原の小石を踏みしめ、わき目も降らず一直線に姫の元へと向かう。
その足音に気づいて姫が振り返る。少年も彼女の視線を追う。
男がすらりと刀を抜く。歩みは止めない。
気づいた少年が慌てて姫に駆け寄る。
刀を構えた右手に、左手が添えられる。
まったく無駄のない動き。十郎太に無い冷酷さがその後ろ姿から滲み出ている。
姫は恐怖に目を見開き、石のように動けない。
刀が躊躇なく振り下ろされる。
少年が間に飛び込み、姫を突き飛ばす。
彼女の悲鳴が響き渡った。
が。あろうことか少年が応戦している。
数日前に十郎太に斬られた左腕を盾にしているが……切れた袖から包帯がひらひらと舞う。
まさか添え木? 先日の怪我で添え木をし、それで刀を受けたと?
とはいえ男は殺しを生業とする者だけあって、すぐに態勢を立て直す。
そのとき、十郎太の視界に影がすっと割り込んだ。
――あの五尺八寸の影は!
殺し屋は即座に標的を変更し、躊躇うことなく影に向かって刀を繰り出した。影は最小限の動きで刀を躱し、それを持つ腕を掴んで膝に叩きつける。肘と手首が不自然な方向に曲がり、刀が音を立てて砂利の上に落ちる。
殺し屋は身を翻し、影の束縛から逃れると同時に、もう一方の手で懐から出した短刀を突き出す。影はその短刀を裏拳で弾き、すかさず鳩尾に肘を入れる。男がよろめいて一歩下がったことでできた空間に、影がダンッと踏み込んだ。
――あの時と同じだ――十郎太は恐怖に慄きながら影の指が男の喉元を突くのを見た。
あの日は寸止めだった。今日は入れている。
喉を押さえてのたうつ男の足元から刀を拾い上げると、影は葦原の方を振り返った。
「そこに隠れているのだろう。出て参れ」
逃げるわけにはいかない。十郎太は葦の間から出ると刀に手をかけた。
「何をしている。そなたとやり合う気はない」
「何?」
「そなたは私の敵ではない。先日相まみえたときに悟ったと思ったが?」
では一体何の用だというのだ、という十郎太の思考を読んだのか、影――橘――は拾った刀を逆手にし、水平に持った。
「こやつがここに倒れたままなのは邪魔だ。連れて帰られよ。これはこやつの刀だ、持って行け」
なんだと?
「だが匕首の方は良い品だ。これは戦利品として貰っておく。わかったらこやつを連れて立ち去れ」
そう言うと橘は刀を持ち主のすぐ側の地面に突き刺し、子供二人を連れて去って行く。
「待て、貴様は橘であろう」
十郎太の叫びに、彼は立ち止まってゆっくりと振り返った。
「私は月守だ。橘など知らぬ」
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