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第三章 柳澤の章
第57話 勝孝と十郎太10
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孝平もよもや繁孝がこんなに早くに追ってくるとは思わなかったのだろう。この時、桔梗丸は五つ。柳澤当主とするにはあまりにも若すぎる。いや幼過ぎるというべきか。今後の柳澤をどうするかで意見が割れたのだ。
「孝平さまの遺言なれば、ここは桔梗丸さまに柳澤を継いでいただくのが良かろう」
「本間殿、正気か? 桔梗丸さまはまだ御年五つ、幼いにもほどがある」
「しかし孝平さまは」
「兄上は遺言を残されておったのか」
「いえ、繁孝様は何も。ゆえに孝平さまの御遺言に則って進められるが良かろうかと」
「木槿山のことはどうされるおつもりじゃ。まさか本間殿、そなたが桔梗丸さまの後見として実権を握らんと企んでおられるのではあるまいな?」
「後見は、この橘に任せようと思うておる」
部屋の隅で控えていた青年が静かに頭を垂れる。
それまで十郎太も勝孝も、橘を単なる教育係の青年程度にしか見ていなかったため、彼に対して完全に無警戒だった。それがどうだ。あの家老が彼を後見として桔梗丸を擁立するという。
彼はいったい何者なのか。
「橘は柳澤に仕えてまだ十二年と日は浅いが、姫が生まれたのに合わせて雇った教育係じゃ。姫と若の世話係も兼任して一切合切を任せておる。また、繁孝さまの信頼も厚く、儂に何かあったときは橘が儂の仕事を引き継げと仰せじゃった。儂のような年寄りが後見に立つよりは安心じゃ」
「しかし橘殿は身内ではござらん」
「儂も血は繋がっておらんぞ」
「そうではなく、赤の他人を後見に立てて幼い桔梗丸に継がせるよりは、ちゃんと血のつながった身内がここにいると言っておる」
「勝孝殿が継がれると申すか」
「兄上とは一つ違いじゃ。勝宜とてもう十五、五歳の桔梗丸とは訳が違う」
「つまりそれが勝孝殿の本音じゃな」
その通りだった。橘という思わぬ伏兵を出されて、勝孝は思わず本音を吐いたのだ。
その時だった。愛らしい少女の声が響いたのだ。
「勝宜さまが十五で仕切れると仰せならば、わたくしはもう十二でございます。桔梗丸が幼いと申すのならこのわたくしが桔梗丸に代わって柳澤の家と木槿山を守ります」
「姫! 何を仰せです!」
「血筋で言えば、桔梗丸に最も近いのはこの萩にございます。叔父上は、仕事の出来るものにはその能力に見合った仕事を与えると聞き及んでおります。さすればわたくしが柳澤を守る仕事を引き受けることに異存はないはず」
言い切った。
齢十二の娘がこの後の苦労を承知で、それでも弟を守るために言い切ったのだ。
「桔梗丸が今のわたくしと同じ十二になった時、わたくしはこのお役目を降りて桔梗丸にお返しいたします」
――なんと強い娘だろうか。用済みになった子どころの騒ぎではない。今、彼女を中心に柳澤が回ろうとしている。
十郎太は驚愕してその場に凍り付いていた。繁孝の思いやりとお初の強さを併せ持つ姫だと感じた。
その特性を潰すことなくここまで育て上げたのは、繁孝か、お初か、それとも橘か。
さすがにここで駄々をこねるほど勝孝は子供ではない。事実上認めることになってしまったのだ。
結果、桔梗丸が十二になるまでは萩姫が柳澤の顔となり、橘と本間が補佐につくという形で決定した。
さあ、ここで問題になるのが橘という青年である。完全に蚊帳の外だったはずの青年が、いきなり話の中心に割り込んできたのだ、勝孝も焦ったに違いない。案の定、橘について調べるようにと命が下った。
だが調べても何も出てこないのだ。わかったのは、萩姫が生まれた年に、十二で奉公に上がったということだけだ。それまでどこで何をしていたのか、一つも出てこない。どこに住んでいたかも、親兄弟のことも、一切出てこないのだ。
そんなどこの馬の骨ともわからぬ青年に、繁孝も孝平もほぼ全権委任したわけだ。普通に考えたらありえない。
いずれにせよ奉公に上がった年齢を考えると、大概のことは柳澤で仕込まれたに違いない。雪之進のように。
もう一つ気になることが十郎太にはあった。橘は常に丸腰であるということだ。
姫と若の教育係として、また世話係として行動を共にしているのなら、身辺警備も担っているはずだ。だがいつも本間が帯刀しているだけで、橘は武器を一つも持たずにいる。刀を手にしているのを見たこともない。
橘は柳澤の屋敷でさえ剣術を習っていないのではないかと思われた。
つまり現在の柳澤は完全に本間と橘で分業しているということだ。
繁孝と勝孝が幼少の頃は、本間が身辺警護と共に教育係を務め、孝平の参謀としてもその能力を遺憾なく発揮していた。
だが今はそこまで手が回らないのか、本間が老いてきたのか、世話係と教育係の仕事は完全に橘に任せ、本間自身は身辺警護と相談役にでも落ち着いているようだ。
この状態は勝孝にとって願ったり叶ったりではないのだろうか。
柳澤の顔となる萩姫の背後には橘がいる。だが、彼なら本間と違って簡単に葬ることができそうだ。勝孝が大人しくしているとは到底思えない。
ところが勝孝が十郎太に出した指示は訳の分からないものだった。
「生活に困窮している十四、五の娘を探せ。できれば少し年の離れた弟か妹がいるといい。とても金になる仕事があると言って連れてこい」
条件に合う娘はすぐに見つかった。小夜と名乗る十四の娘、喜助という九つになる弟がいる孤児だった。彼女は弟を食べさせるために必死で仕事を探していた。
小夜には女中として柳澤に入って貰い、姫と若と橘の様子を報告させた。柳澤からも勝孝からも報酬が貰えると言って喜んだ。
小夜の仕事は報告だけだったためか、彼女自身は何も後ろめたさを感じていなかった。それは勝孝が姪のために陰から支えようと内密に動いているかのように小夜に印象付けていたせいもある。
それもあって何も疑うこと無く報告したのだ。「姫様は心配事がおありのようで、近頃なかなか寝付けないと仰せでした」と。
これを聞いた勝孝がどれだけ歓喜したか想像に難くない。勝孝は小夜に『睡眠薬』を持たせ、姫の食事に入れるようにと指示を出した。彼女は何も疑わずにそれを持って行った。
十郎太はその睡眠薬がいったい何なのか、恐ろしくて勝孝に聞くことができなかった。ただ「姫様がよく眠れるのですね?」とだけ聞いた。
だが勝孝の返事は否だった。「よく眠れるのは橘だ」と。
それでやっと十郎太は気づいたのだ。姫と若の食事は橘が毒見している。それを見越して、姫の食事に何か細工をすれば、必ず橘の方に先に症状が現れる。橘に薬が効いてくる前に姫も若も同じものを口にすれば、最悪の場合、姫、若、橘と三人同時に同じ症状が出るはずなのだ。
それが単なる睡眠薬であれば良いが、もしもそうでなければ?
その日を境に小夜は報告に来なくなった。薬を盛ったことが知られ、葬られてしまったかもしれない。そうでなければ、自分のしたことの重大さに耐えかねて、自ら命を絶ったとも考えられる。よしんば生きていたとしても、のうのうと町を歩くことはできないだろう。
十郎太は小夜の帰りを待っているであろう弟を案じた。姉が戻らないとなれば、柳澤に迎えに行っているかもしれない。いずれにしろこの姉弟には気の毒なことをした。
勝孝は小夜の仕事の成果を確認すべく柳澤へと赴いた。だが、勝孝を迎えたのは当の萩姫と橘だったのである。
この二人が無事ということは小夜が事を仕損じたのだろう、屋敷へ戻った勝孝は次の作戦を練った。
いくら姫が気丈であっても、後見の橘がいなければただの十二の娘でしかない。直接姫を狙えば問題も出ようが、橘ならば……そう考えて勝孝は殺し屋を雇い、城にいるはずの橘を襲わせた。
ところがここで計算違いがあった。あろうことか、橘は姫を連れ出して外へ逃げ、姫と共に川へ飛び込んでしまったのだ――。
「孝平さまの遺言なれば、ここは桔梗丸さまに柳澤を継いでいただくのが良かろう」
「本間殿、正気か? 桔梗丸さまはまだ御年五つ、幼いにもほどがある」
「しかし孝平さまは」
「兄上は遺言を残されておったのか」
「いえ、繁孝様は何も。ゆえに孝平さまの御遺言に則って進められるが良かろうかと」
「木槿山のことはどうされるおつもりじゃ。まさか本間殿、そなたが桔梗丸さまの後見として実権を握らんと企んでおられるのではあるまいな?」
「後見は、この橘に任せようと思うておる」
部屋の隅で控えていた青年が静かに頭を垂れる。
それまで十郎太も勝孝も、橘を単なる教育係の青年程度にしか見ていなかったため、彼に対して完全に無警戒だった。それがどうだ。あの家老が彼を後見として桔梗丸を擁立するという。
彼はいったい何者なのか。
「橘は柳澤に仕えてまだ十二年と日は浅いが、姫が生まれたのに合わせて雇った教育係じゃ。姫と若の世話係も兼任して一切合切を任せておる。また、繁孝さまの信頼も厚く、儂に何かあったときは橘が儂の仕事を引き継げと仰せじゃった。儂のような年寄りが後見に立つよりは安心じゃ」
「しかし橘殿は身内ではござらん」
「儂も血は繋がっておらんぞ」
「そうではなく、赤の他人を後見に立てて幼い桔梗丸に継がせるよりは、ちゃんと血のつながった身内がここにいると言っておる」
「勝孝殿が継がれると申すか」
「兄上とは一つ違いじゃ。勝宜とてもう十五、五歳の桔梗丸とは訳が違う」
「つまりそれが勝孝殿の本音じゃな」
その通りだった。橘という思わぬ伏兵を出されて、勝孝は思わず本音を吐いたのだ。
その時だった。愛らしい少女の声が響いたのだ。
「勝宜さまが十五で仕切れると仰せならば、わたくしはもう十二でございます。桔梗丸が幼いと申すのならこのわたくしが桔梗丸に代わって柳澤の家と木槿山を守ります」
「姫! 何を仰せです!」
「血筋で言えば、桔梗丸に最も近いのはこの萩にございます。叔父上は、仕事の出来るものにはその能力に見合った仕事を与えると聞き及んでおります。さすればわたくしが柳澤を守る仕事を引き受けることに異存はないはず」
言い切った。
齢十二の娘がこの後の苦労を承知で、それでも弟を守るために言い切ったのだ。
「桔梗丸が今のわたくしと同じ十二になった時、わたくしはこのお役目を降りて桔梗丸にお返しいたします」
――なんと強い娘だろうか。用済みになった子どころの騒ぎではない。今、彼女を中心に柳澤が回ろうとしている。
十郎太は驚愕してその場に凍り付いていた。繁孝の思いやりとお初の強さを併せ持つ姫だと感じた。
その特性を潰すことなくここまで育て上げたのは、繁孝か、お初か、それとも橘か。
さすがにここで駄々をこねるほど勝孝は子供ではない。事実上認めることになってしまったのだ。
結果、桔梗丸が十二になるまでは萩姫が柳澤の顔となり、橘と本間が補佐につくという形で決定した。
さあ、ここで問題になるのが橘という青年である。完全に蚊帳の外だったはずの青年が、いきなり話の中心に割り込んできたのだ、勝孝も焦ったに違いない。案の定、橘について調べるようにと命が下った。
だが調べても何も出てこないのだ。わかったのは、萩姫が生まれた年に、十二で奉公に上がったということだけだ。それまでどこで何をしていたのか、一つも出てこない。どこに住んでいたかも、親兄弟のことも、一切出てこないのだ。
そんなどこの馬の骨ともわからぬ青年に、繁孝も孝平もほぼ全権委任したわけだ。普通に考えたらありえない。
いずれにせよ奉公に上がった年齢を考えると、大概のことは柳澤で仕込まれたに違いない。雪之進のように。
もう一つ気になることが十郎太にはあった。橘は常に丸腰であるということだ。
姫と若の教育係として、また世話係として行動を共にしているのなら、身辺警備も担っているはずだ。だがいつも本間が帯刀しているだけで、橘は武器を一つも持たずにいる。刀を手にしているのを見たこともない。
橘は柳澤の屋敷でさえ剣術を習っていないのではないかと思われた。
つまり現在の柳澤は完全に本間と橘で分業しているということだ。
繁孝と勝孝が幼少の頃は、本間が身辺警護と共に教育係を務め、孝平の参謀としてもその能力を遺憾なく発揮していた。
だが今はそこまで手が回らないのか、本間が老いてきたのか、世話係と教育係の仕事は完全に橘に任せ、本間自身は身辺警護と相談役にでも落ち着いているようだ。
この状態は勝孝にとって願ったり叶ったりではないのだろうか。
柳澤の顔となる萩姫の背後には橘がいる。だが、彼なら本間と違って簡単に葬ることができそうだ。勝孝が大人しくしているとは到底思えない。
ところが勝孝が十郎太に出した指示は訳の分からないものだった。
「生活に困窮している十四、五の娘を探せ。できれば少し年の離れた弟か妹がいるといい。とても金になる仕事があると言って連れてこい」
条件に合う娘はすぐに見つかった。小夜と名乗る十四の娘、喜助という九つになる弟がいる孤児だった。彼女は弟を食べさせるために必死で仕事を探していた。
小夜には女中として柳澤に入って貰い、姫と若と橘の様子を報告させた。柳澤からも勝孝からも報酬が貰えると言って喜んだ。
小夜の仕事は報告だけだったためか、彼女自身は何も後ろめたさを感じていなかった。それは勝孝が姪のために陰から支えようと内密に動いているかのように小夜に印象付けていたせいもある。
それもあって何も疑うこと無く報告したのだ。「姫様は心配事がおありのようで、近頃なかなか寝付けないと仰せでした」と。
これを聞いた勝孝がどれだけ歓喜したか想像に難くない。勝孝は小夜に『睡眠薬』を持たせ、姫の食事に入れるようにと指示を出した。彼女は何も疑わずにそれを持って行った。
十郎太はその睡眠薬がいったい何なのか、恐ろしくて勝孝に聞くことができなかった。ただ「姫様がよく眠れるのですね?」とだけ聞いた。
だが勝孝の返事は否だった。「よく眠れるのは橘だ」と。
それでやっと十郎太は気づいたのだ。姫と若の食事は橘が毒見している。それを見越して、姫の食事に何か細工をすれば、必ず橘の方に先に症状が現れる。橘に薬が効いてくる前に姫も若も同じものを口にすれば、最悪の場合、姫、若、橘と三人同時に同じ症状が出るはずなのだ。
それが単なる睡眠薬であれば良いが、もしもそうでなければ?
その日を境に小夜は報告に来なくなった。薬を盛ったことが知られ、葬られてしまったかもしれない。そうでなければ、自分のしたことの重大さに耐えかねて、自ら命を絶ったとも考えられる。よしんば生きていたとしても、のうのうと町を歩くことはできないだろう。
十郎太は小夜の帰りを待っているであろう弟を案じた。姉が戻らないとなれば、柳澤に迎えに行っているかもしれない。いずれにしろこの姉弟には気の毒なことをした。
勝孝は小夜の仕事の成果を確認すべく柳澤へと赴いた。だが、勝孝を迎えたのは当の萩姫と橘だったのである。
この二人が無事ということは小夜が事を仕損じたのだろう、屋敷へ戻った勝孝は次の作戦を練った。
いくら姫が気丈であっても、後見の橘がいなければただの十二の娘でしかない。直接姫を狙えば問題も出ようが、橘ならば……そう考えて勝孝は殺し屋を雇い、城にいるはずの橘を襲わせた。
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