柿ノ木川話譚1・狐杜の巻

如月芳美

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第三章 柳澤の章

第58話 真実1

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「飛び込んだのは姫ではござらん」
 長い長い十郎太の回想を聴いていた面々は、突如割り込んだ声に振り返った。
「本間殿!」
 いつからそこにいたのか、戸口の影に立っていたのは柳澤の家老だった。
「あのとき我々は、狙われておるのは姫じゃと勘違いしておった。それゆえに橘が姫に扮した小夜を連れ出したのじゃ」
「小夜? あの小夜か?」
 半分腰を浮かした十郎太に、本間は「さよう」と返した。
「勝孝殿が差し向けた小夜は、実によく働いておった。だが小夜が間者であることは橘がすぐに見抜いたのでな」
「知っていて泳がせたと申されますか」
「そうじゃな」
 家老は涼しい顔で室内に入って来ると、向かい合う勝孝と月守の真横に陣取った。
「そして小夜が薬を盛った時に橘が致死量だと告げたんじゃな。小夜の反応を見るために。可哀想にのう、あれは勝孝殿を信じ切っていたんじゃろうな、橘に向かって『死んで詫びるゆえ殺してくれ』と泣いて懇願したそうじゃ」
「お小夜ちゃん……」
 ボソリと呟いた狐杜の声は、思いの外大きく響いた。そこに家老が顎髭をさすりながら続けた。
「橘は小夜を不問とし、そのまま姫の世話係の任を与えた」
 なぜ、と言いかけて、十郎太は途中で理由を理解した。橘は小夜を守ったのだ。
「小夜は任務を遂行できなかった。橘が許しても手ぶらで帰せば、帰った先で殺される。それが殺し屋の掟じゃと知っておる。ゆえに小夜を手元に置いたんじゃよ、橘は」
 何かに気づいたらしい勝宜が「まさか」と勝孝に視線を投げた。
「橘殿は萩や桔梗丸と共に、小夜と弟を父上から守るつもりで」
「そういうことじゃ。橘は先輩として放っておけなかったんじゃろうな」
「先輩?」
 それまで黙って聞いていたお八重が目を剥いた。勝宜とほぼ同時だった。
「橘という名は儂がつけた。儂が左近の桜、奴が右近の橘となるように」
「名付けたって……御家老様?」
「橘は萩姫が生まれたときに最初に来た刺客だったんじゃよ」
 これにはさすがに十郎太も驚きの声を上げた。
「あれはまだ橘が十二の時じゃったな。先ほどの十郎太の話にあった刺客、あれが橘じゃ。お初の方さまに抱かれた姫に一直線に向かって行ったな。全く無駄のない動きじゃった。儂が一瞬でも気づくの遅かったら、姫様はこの世にはおられん。刺客が子供と気付いてさすがに儂も驚いたが、儂の刀を返しおったもんでの。これは只者ではないと思うたわ」
 当時、本間帯刀は木槿山最強の呼び声高く、『刀を返せず』と恐れられていた。
「その時にお初の方さまが『天晴です』と仰せになった。それだけの才能を持っているのなら姫の教育係としてここに仕えなさいと仰せになったんじゃ。いやはやあれには驚いた。思えばあの瞬間、お初の方さまは刺客として送り込まれた少年の処遇を案じられたのじゃろう。たった今我が子を殺されそうになったと申すに、その殺し屋の少年を案ずるのがお初の方さまというお人じゃ。そして橘は教育係とは名ばかりの身辺警護要員として姫に仕えるようになったんじゃよ」
「だから! 自分がお初の方さまと本間さまに助けて貰ったから、お小夜ちゃんのことも同じように助けてあげたのですね、橘さまは」
「ならば、その橘どのは今どちらにおられるのです」
 興奮するお八重を遮るように、勝宜の静かな声が響いた。
「川に飛び込んで、そのままなのですか」
 家老がチラリと月守に視線を送るが、彼は表情一つ変えずに勝孝をまっすぐに見据えていた。
「そうじゃな、もう橘は戻らぬ」
 諦めたようにボソリという本間から父に視線を移した勝宜は、その名を呼んだ。
「何ゆえに、そんなにこだわるのです。萩が柳澤の主であることの一体何が不満なのです。父上はいつも言っていたではありませぬか、力のあるもの、才のあるものがその仕事をすれば良い、仕事が出来る者は評価されるべきであると」
 息子と目を合わせようとしない父に、勝宜はさらに畳みかけた。
「萩は他人の話をよう聞いておられる。他人の気持ちに寄り添うこともできる。それこそが民の上に立つ者の才にございましょう。何ゆえ邪魔をするのです。萩が困ることがあらば、助けるのが我ら一族の仕事にございましょう」
 勝孝が口を開いた。
「……らぬ」
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