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底なし沼にて
74.
しおりを挟むくすくす、くすくす、くすくす。
琥珀色の洋酒が注がれたグラスをくゆらせ、イリアスは酷薄に嗤う。その長く美麗な足を組み、肘をつき、優雅にソファへと腰を下ろし、美しい所作でグラスを傾ける。流し込まれた液体を飲み込めば、上品な喉元がこくりと上品に動いた。
彼の視線の先には、ロサの大広場の様子が『投影結晶』によって映し出されている。
ーー全てが、彼の意のままだった。
イリアスの背後を護るように立ち、同様に投影結晶を眺めるゴーダンが、厳格な口調で「傍に置いておかなくて良かったのですか」と問いかける。投影結晶には、大量の血液に塗れ、錯乱状態に陥っている己の部下が映っていた。
「傍には置いているよ?このフィオーレ王国全土、僕の所有物なのだから、ここにいる限り、レーネは僕の傍にいる」
「……」
「ふふ、冗談さ。分かってるよ、可愛いゴーダン」
余程機嫌がいいらしいイリアスは、くつくつと愉悦を滲ませ、察し良く屈んだゴーダンの漆黒の髪を、美しく手入れされた指先で掻き混ぜるように撫でる。そして彼は、グラスを音を立てないようにして机の上に置いた。直様、控えていた侍女が果実酒を継ぎ足していく。
投影結晶の映像が気になって仕方がないだろうに、その気を全く見せることなく粛々と動く優秀な侍女。そのいじらしい姿に、イリアスの中に潜む残酷な加虐心が首を擡げ始める。
ボトルの口を布で拭き、音もなく下がって背筋を正し目を伏せた侍女を見つめ、イリアスは機嫌良く語りかけた。
「ふふ、ふ、ねぇ、カレン。おいで?」
「かしこまりました。何か御用でございましょうか、殿下」
「ここ、座りなよ。一緒にこのお遊戯を見ようじゃないか」
トントン、と軽く自分の横を叩くイリアスの言葉を受け、カレンと呼ばれた侍女は微かに眉をぴくりと動かした。他にも数人控えている侍女達も、慌てたように顔を見合わせている。
しかし、優秀な彼女は、ここでイリアスを待たせる方が良くないと迅速に判断したらしい。ニコリと可憐に微笑み、「この身に余る寛大なお言葉、心より感謝し頂戴致します」と美しい声で囁いて制服を整え、イリアスの横に腰を下ろした。
そして、目の前に映る凄惨な光景を、静かに見上げる。一端の侍女とは思えない程の肝の座りっぷりに、イリアスの気分はさらに上昇していく。
「ふふ、どうだい?君にはどう見える?」
「……僭越ながら、発言させて頂きます。私には、第3部隊隊長様が、第1部隊の皆様のご命令に反した民を従順に処刑したように見えましたわ」
「自らの意思で?」
ニコニコと嗤って問いかけるイリアスに、カレンもまた穏やかに微笑んで「いいえ?」と返す。カレンの生意気な返事が気に入らなかったらしいゴーダンが不愉快そうに剣に手を掛けるのを視線だけで止め、イリアスはニタリと悪辣な笑みを浮かべた。
カレンは、尚も真っ直ぐに画面越しのレーネを見つめている。その目が、混乱と恐怖、そして絶望に包まれていくのを、ただ見つめている。
優秀な侍女は、自分の感情を相手に悟らせない。ただ、命令を遂行し、身の回りの世話をする。その点において、カレンは非常に優秀であった。
イリアスは自分の感情がどんどんと高揚していくのを感じ、歪に口角を上げる。そして、程よくやってき始めた酔いに任せ、ペラペラと饒舌に喋り始めた。控えている数人の侍女が、恐れを為したように息を呑む音が聞こえる。
「ふふ、ふふふ、レーネはね、肉欲と戦闘欲が直結しているタイプの脳筋だ。君は知っているだろう?カレン」
「承知しておりますわ。勇猛で清廉なお方です」
「だよねぇ。……そこで、役に立つのが今回レーネに打った依存性のある薬物なんだ」
イリアスの口角が、歪に上がる。その様子を一瞥したカレンは、悟られないよう徹底しつつ鼻で笑って見せた。彼は自分の顔がどれ程醜く歪んでいるのか、きっと知りもしないのだろう。
カレンの嘲笑など知る由もないイリアスは、尚もケラケラと画面の向こうを嘲笑う。あぁ全く、この世に自分の思い通りにならぬものなど1つもない。
レーネが打たれた薬物は、最たる禁断症状として「快楽への渇望」というものがある。薬を打たれ、異常なまでの快楽を与えられた結果、並の快感では満足出来なくなり、ただひたすらに薬を求める傀儡になるのだ。ーー普通は。
しかし、肉欲が戦闘欲に変換されるレーネにおいては、違う。
それは、殺戮欲求へと変わるのだ。
およそ自制心などで制御し切れるものではない殺戮欲求、それにさらに幻聴や幻覚など副作用が加わるのだ。それ自体は魔物などの討伐をすれば収まるものではあるが、ロサには滅多なことがない限り魔物は入って来ることが出来ない。殺す対象が居ないのに、耐えられない程の飢餓感が襲うのだ。
ーーその結果。
「流石のレーネも、殺人欲求には耐えられなかったみたいだねぇ」
対象は、人間へと移る。
イリアスは机に置かれていた薬瓶を指でつまみあげ、薄紫の瞳を酷薄に煌めかせた。レーネは今頃、尋常ではない充足感と、国民を殺してしまった罪悪感で手一杯だろう。
ニタリと嗤ってゴーダンを見上げ、彼の頬へと手を添えた。ーーそういえば最初の質問の答えが、まだだっただろうか。
「僕の部屋で快楽を与え続けるよりも、こっちの方がレーネは傷付くだろう?彼は僕がこれ以上手を加えるまでもなく、もう既に手遅れなのさ。
あとは、崩れて壊れるだけッ、ッ…はは、あっははは!!!全く、たかがヘイデル王国如きに何が出来たって言うのかなぁ!!あっはは、ッははは!!」
国民を愛し、大切にする彼が、衝動と欲のままに国民を殺す。そして、殺した瞬間に、自我を取り戻す。
それは一体、どれ程の苦痛だろうね?
耐えきれずに声を上げて嗤い出すイリアスに、ゴーダンが恍惚とした表情で傅いた。侍女たちからは、声にならない小さな悲鳴が上がる。
「流石の御采配に御座います、殿下」
「だろう?……まぁ勿論、レーネが僕の命令に違反するような事があれば、お仕置きはするけどね」
優雅に微笑み、琥珀色の液体を飲み下すイリアス。
そんな彼には目もくれず、ただ呆然と立つレーネを見つめ続けていたカレンは、静かに目を伏せ、祈るように目蓋を閉じた。
あぁ、アリア。私の愛する妻。
私はもう、我慢出来そうにないわ。ごめんなさい。どうか許して頂戴ね。どうか、お幸せに。
「え。ーー?」
ビチャッ、と、いやな音をたてて、頬に鮮血がかかる。沢山の人が居るはずの大広場は、異様に静まり返っていた。
「ふぉ、さい、す?」
呆然と俺を見つめる、第1部隊の変わり者の騎士。地面にしゃがみこんで女性を抑えていた騎士達も、血液に塗れた顔で、ぽかんと口を開けて俺を見上げていた。
しかし、俺の視線はと言えば。彼らの中心に、目を見開いたまま力なく倒れ伏している一人の女性へと、一心に注がれている。
女性の首からは、今も尚ボタボタと大量の血液が迸っていた。小さな悲鳴を上げて事切れた彼女の顔には、到底、救いの表情は見受けられなかった。
「……?」
俺は視線を下げ、自分の手元を見つめる。俺の手には、俺が魔法を使ったであろう魔力の残滓が確かに残っていた。そして、彼女の首にも。
あれ?おれ、今、何をした?
先程までなにも考えられない程朦朧としていた思考は、今は異常なまでに鮮明に働いている。手の震えも、倦怠感もない。ーーそして、その思考が俺に伝えているのは。
「ーーーーアッはは、はハハッ!!流石は処刑人!!!」
結論が脳に伝達されるよりも前に、一人の騎士がゲラゲラと楽しそうに嗤い出す。それを皮切りに、呆然と固まっていた騎士達が、冷や汗を零しながら俺を次々に揶揄し始める。
「お、俺達は殺せなんて言ってないぞ!お前、が、お前が、お前の意思でこの女を殺したんだ!!」
「おいおい風魔法で頸動脈を一閃かよ!!えげつねぇーー!!!」
「最期に一言なにか言わせてやれよ!残酷か!!」
国民達から、悲鳴が上がり始める。女性の関係者もいるのだろう、悲痛な嗚咽も聞こえていた。
俺は、到底受け入れたくない事実に、唇を震わせる。しかし、現実はいつも非情なのだ。
「ーーーー」
俺が、殺した。ころして、という声は、幻聴だった。彼女は自分の死など望んでいなかった。俺が、自分の中を蠢く異様な衝動のままに、我欲のままに殺したのだ。ーー国民を。自分勝手に。
目を見開き、思わず両手で口元を抑える。がたがたと震え出す身体に、背後に立っていた騎士が不安そうに俺を覗き込んでくるのがわかる。
俺が余程真っ青な顔をしていたのだろう。変わり者の騎士が、眉を顰めた。
国民たちの声が、聞こえてくる。
【最低】【人殺し】【赦せない】【死ね】【死ね】【死ね】【殺す】【赦さない】【死ね】【死ね】【死ね】
両耳を抑えてもまだ聞こえてくるそれに、ギュッと目を瞑る。あぁ、俺、おれは、俺が、国民を私欲で殺してしまった。こんなの、俺が目指す騎士じゃない。ただの虐殺者じゃないか。違う、俺は、ただ国民を、助けたくて。
でも、女性は、死んでしまった。俺のせいで。
覚悟していたことだったけれど。それでも、心だけは、意思だけは騎士でいようと思っていたのに。
「ーーーーーー~~~ッッッ!!!!!」
「フォーサイス、落ち着け、王城に戻るぞ」
「は、は、ーー、ヒュッ、」
呼吸をしようと息をするが、何故か吐くことが上手く出来ない。そして、徐々に細かい呼吸音の合間に変な音が混ざり始める。変わり者の騎士が慌てた様子で俺の肩を抱いてヴィオラの元へと連れて行くのに、抵抗も出来ずに俺はがたがたと震える。
騎士達も、俺の異常に気付いたのか囃し立てるのを辞め、おろおろと顔を見合わせている。先程まで嬲っていた女の死体には、もう興味すらないようであった。
パキ、と、薄氷が割れるような音が鳴る。どんな音よりも鮮明なそれに、思わず首を傾げた。周りに氷なんて見当たらない。
パキ、パキ、パキ、。
「ーー……ぁ、おれ、ただの、。…」
此方を恐れるようにーー憎むように見つめる国民達の姿が、ヘイデル王国の大好きな人達と重なって。
前の方に立つ国民が、俺を冷えた黄金色の目で見つめていた。その口が、ちいさく、そしてゆっくりと動いていく。
『最低だな、レーネ』
この人殺し。
「まずいね」
「あぁ、早く動かないと」
漆黒の外套に身を包んだ2人の人間の声が、静かな路地に響く。彼等の視線の先では、明らかに正常な状態でない近衛の第3部隊隊長の男が、どう見ても怪しげな薬を鞄から取り出して勢いよく飲み干した所だった。
先に口を開いた女性が、気遣わしげに隣の男を覗き込む。
「大丈夫かい」
「あぁ、大丈夫さ。僕はね。でも、レーネはそうじゃない。ーー早く、彼をあんな腐り切った組織から開放してやらないと」
そう吐き捨てるように呟く男の目には、溢れんばかりの憤怒と、憎悪、それに覚悟が漲っている。「君はどうだい」と首を傾げる男に、女性もニタリと不穏な笑みを浮かべた。
「勿論ぼくも大丈夫さ。いつだって動けるように準備しているからね。もう、こんな生活は散々だ」
「……」
「後悔はないか。もう戻れないよ。もう、君が愛して、誇っていた場所へは戻れないよ。いいのかい」
静謐に告げる女性に、男は嘲笑をこぼした。それに、女性も「それこそ今更だったな」と嗤う。
「愛し、誇っていた騎士団は、もうないと知った。ーーなら、壊すまでだよ.壊して潰して、もう一度創り直す」
「その通りだね。なら、遠慮なくぼくは動かせてもらうとしよう。……協力してくれるよね。
ーーカンナ・カルミアくん」
外套から薄桃色の髪を覗かせ、その美しい鮮烈な緋色の瞳を歪めた青年は、静かに頷いた。
「えぇ、勿論。此方こそどうぞよろしく。ーー【革命軍】頭領さん」
「うん。ーーあはは、わーい。復讐だ。殺戮だぁ」
カラカラと楽しそうに両手を上げて笑う少女に、青年も楽しげに微笑む。
待っていてね。レーネ。僕が助けてあげるから。
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